私が八年棲んでいる今のアパルトマンは地階にあり、書斎窓前の垣根を境として大きな隣家の広い庭と接している。その庭の垣根近くは樹々で覆われており、春になると早朝から鳥たちがその枝の上でよく囀る。クロウタドリの美声は一際耳に快く響く。
この住まいは市の北東地区の閑静な住宅街にあり、しかも私の住居は庭側に面しているから、車の音はほとんど聞こえない。初夏を迎えると、夕方、隣家の子どもたちが庭ではしゃぎまわる声がよく聞こえるが、日中は人気さえ感じられず、鳥たちの歌声だけが静けさのなかに響く。
よく晴れた日中、書斎の窓を開け、微風にわずかに揺れる窓外の緑を眺めながら、鳥たちが交わす歌声だけをじっと聴いていると、その奥にと言えばよいのか、その隙間にと言えばよいのか、もっと遠いところからのほとんど聞き取り難いほどかそけき「声」が一瞬聞こえた。
それは街の遠くからという遠さ、ではなくて、沈黙の彼方の遠さ、とでも言ったほうがまだしも事柄そのものに近いような遠さである。その「声」は言葉にできない。言葉にしてしまうと、別のものに変質してしまう。
その「声」は、何かを何かのためにしているときには聞き取れない。耳が「現実」の音に満たされているからだ。
何もない日、何もしていないとき、耳が現実音から自ずと解放された。そのとき、その「声」が、閃光のように、瞬間、私の耳に到来した。そういうことなのだ思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます