内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

書物に囲まれて生きながら、読書をしていないという哀れ

2019-03-20 19:29:53 | 雑感

 自分でも呆れるほどの遅読である。一冊の本をまるごときちんと真剣に読でいたら、月に一冊くらいしか読めないのではないだろうか。純粋に楽しみのためなら、それでもよい。むしろ本代がかかららなくて安上がりでいいくらいだ。
 しかし、仕事のため、というか、授業や研究のためとなると、それでは話にならない。実際、そのために読んでいるのは、参照すべき著作それぞれのごく一部に過ぎない。数えたわけではないが、どんなに忙しくても、一日平均だいたい十冊の本は覗いている。電子書籍を利用するようになってからは、その数値が倍増していると思う。勿論、これを読書とは言わない。
 例えば、昨日の記事では、末木文美士の『日本仏教思想史論考』一冊にしか言及していないが、授業の準備としては、その一日に、角川ソフィア文庫版と岩波文庫版の『万葉集』(それぞれ四冊、五冊)、『原文 万葉集』(上下巻、岩波文庫)、川口常孝『萬葉歌人の美学と構造』、大西克礼『自然感情の美学』、佐竹昭広『萬葉集再読』などが机上に積まれ、さらに仏訳『万葉集』(五冊)がその脇で紐解かれるというありさま。それに電子書籍版『萬葉集釋注』(全十冊)が加わる(場所を取らないのはありがたいが、あっちこっち覗き、同時に開いたままにしておけないのは、電子書籍の弱点)。
 文献に基づいた研究教育に携わる者たちにとっては日常のことだが、こんなことにばかり時間を取られていると、書物に囲まれた生活をしていながら、実のところ、本は読んでいない、ということになりかねない。少なくとも、私の場合はそうだ。ときどき、そんな毎日に疲れ、溜息が出る。
 引き合いに出すのは僭越至極、恥知らずもいいところだが、上田観照が『上田閑照集 第七巻』の「後語 解釈の葛藤の中で」(二〇〇一年九月九日記)の末尾に、「現在の私の夢は、実現するとしても四、五年先のことになるであろうが、エックハルトと『臨済録』と道元の『正法眼蔵』とを、何かを書くという意図なしに、並行してゆっくりと読んでみたいということである」(369頁)と記しているのをかつて読んだとき、いたく共感したものである。
 上田閑照が挙げたエックハルトは私も同じように読んでみたい。もちろん仏訳によってという大きなハンデイはあるけれど。『臨済録』『正法眼蔵』はどうだろうか。私はそのかわりに何を選ぶだろうか。そんなことをいっとき夢想してみるのは、ちょっと楽しい。











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