内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『人生論ノート』と格闘してくれた学生たちのレポートを読む

2018-05-09 22:12:40 | 講義の余白から

 昨日今日と、修士一年生十人に課した学期末レポートを読み、採点していました。
 課題は、演習でその一部を読んだ三木清『人生論ノート』の二十三あるエッセイの中から自分で自由に一つエッセイを選び、その要旨をまず述べ、その上で自分の意見を述べなさい、という、形としてはごくオーソドックスなものでした。
 演習で取り上げたエッセイ「幸福について」「旅について」を選んでもよいとしたのですが、十人中、「旅について」を選んだのは三人(「幸福について」は皆無)、他の七人は演習ではまったく触れもしなかったエッセイを選んでいました。「死について」が三人、「孤独について」「嫉妬について」「成功について」「利己主義について」がそれぞれ一人。「旅について」を選んだ三人も、安易にそれを選んでのではなかったことはその優れた内容からよくわかりました。
 修士の演習では、原則、筆記試験とレポートとを課題とします。私は、レポートの形式について、細かな指示を与え、それを厳守することを要求します。全体の構成に関しては、頁数・表紙・詳細目次・脚注・文献表について、ページレイアウトに関しては、余白、行間、フォント等について、締切り二ヶ月以上前に詳細な説明書きを学生たちに送ります。これらがきちんと守れるかどうかも評価の対象になると彼らには明言します。本文の長さはA4で八枚に収めることを求めています。日本語に訳せば、一万字くらいということです。
 なぜ形式にこだわるかというと、こういう指示をきちんと守れるかどうかも、彼らの将来の職業生活のためには大切なことだからです。よほど飛び抜けて内容的に優れてでもいないかぎり、こういう指示を守れないことは、やはり否定的な評価の対象になるのが普通です。幸い、全員、指示はほぼ守ってくれました。
 ところが、締切り前日になって、どうしてもちょっと枚数超過しそうなのですがいいですかと聞いてきた学生が一人いました。それに対しては、「いいよ、書きたいだけ書きなさい」と答えました。それでは規定を守った学生たちに対してフェアではないではないかというご指摘もあるでしょう。でも、ここまで言ってくるにはそれだけの理由が彼にはあると私は受け止めました。
 その学生から届いたレポートを見ると、よほど書きたいことがたくさんあったのでしょうね、左右上下の余白を最小限にし、それこそ目一杯に書けるだけ書いてありました。その点では明らかにルール違反だったので、減点の対象になりますが、それを補って余りあるほどに内容はよかったのです。
 その学生は、「旅について」を選んだのですが、三木清の言いたいことをちゃんと理解した上で、そこに抜け落ちている論点を的確に指摘し、その点についてしっかりと論拠を示して批判を展開していました。
 その他の学生たちのレポートも、自分が選んだエッセイで取り上げられている問題に対して、それぞれちゃんと自分の問題として向き合い、自分で考えて書いてくれていました。それこそ私が望んでいたことでもありました。
 彼らのレポートの中で援用されていた主な哲学者・思想家・学者の名前をざっと挙げておくと、プラトン、セネカ、モンテーニュ、パスカル、ニーチェ、フロイト、ハイデガー、サルトル、レヴィ=ストロース等々。その他にも、それぞれ取り上げたテーマについて近現代の様々な著作家を引用していて、それらを読むのも愉しいことでした。
 三木清『人生論ノート』は、彼らの日本語能力からしたら、けっして易しいテキストではありません。ましてや、演習でまったく扱わなかったテキストを独力で読むことにはかなりの困難をともなったはずです。ところが、正直これはちょっと嬉しい誤算だったのですが、みんなテキストに本気でぶつかってくれていました。きっと、三木のテキストにそういう気にさせる何かがあるからなのでしょう。
 そういう意味では、演習のテキストとして『人生論ノート』を選んだことは間違いではなかったのかなと、学生たちのレポートを読み終えて、彼らへの感謝の気持ちとともに安堵しているところです。












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