内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現代日本の政治的無防備、あるいは日本的無常観の宿痾

2019-03-25 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた山崎雅弘『「天皇機関説」事件』の「あとがき」からの孫引きになるが、著者は、季刊誌『kotoba』(集英社)第二四号に掲載されている宗教学者の島薗進との対談記事で次のように述べている。

天皇を統治機構の一機関と見なす天皇機関説は、先ほど指摘された近代の合理的な立憲主義と、天皇が神の子孫であるといういわば「信仰」の領域を、かろうじて結びつけていました。しかし国体明徴運動はそれを否定して除去し、天皇を統治の主体として、いくらでも神聖視してよいという方向にもち上げていった。その結果、合理的な思考はいつしか失われ、最終的に天皇に話を結びつけさえすれば、どんな犠牲でも許されるという図式が、形式的に完成してしまいました。

 このような天皇の神聖化は現代日本ではほぼ不可能であるとしても、神聖化の対象を天皇とは別のものに置き換えれば、現在の日本人たちにも受け入れられかねない構図をもっているとは言えないであろうか。
 例えば、今年2月28日の記事その他で何度か話題にしたことがある高畑勲の「積極的無常観」に典型的に見られるような、いわゆる日本的自然観は、上掲引用文中の図式と親和性をもっている。つまり、最終的に自然に話を結びつけさえすれば、どんな犠牲でも許されるという非合理的図式の成立を妨げる要素はこの自然観には備わっていない。
 「個々人が犠牲になるのはやむを得ない、それが自然というものだ、無常というものだ、だから、私たちはそのままその現実を受け入れ、いたずらに未来に希望を託すことなく、今を楽しく生きていましょう」と、何があっても文句も言わずに健気に生きていこうとする庶民ほど国家にとって好都合な国民もないだろう。
 こう言えば、即座に、自然と政治はその本質において根本的に違うという反論が予想される。しかし、政治が根本的に人間の〈作為〉つまり〈人為〉に拠るものであり、したがって、立憲国家であれば、その改善(あるいは改悪)も、その政治体制下に生きる国民自身の手によって、憲法の定める一定の手続きを踏んで合理的に為されるべきであり、「自然」の成り行きにまかせてはならないという近代国家の原理が現代日本にしっかりと定着していると私たちは自信をもって言うことができるだろうか。
 やはり今年2月27日の記事で話題にした村上春樹の無常観にせよ、高畑の積極的無常観にせよ、それぞれご本人たちの発言当時の意図は今措くとして、それらのいわゆる日本的無常観が広く支持を集めてしまう美しく儚い日本の〈私たち〉は、あまりも政治的に無防備ではないだろうか。1935年の天皇機関説事件が今またアクチュアリティをもってしまっていることも、この政治的無防備と無関係ではない。












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1 コメント

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話はそれますが (funkytrain)
2019-03-25 14:52:17
本日のトピック主題とずれますが、ふと思い出したことがあるので書かせてください。ひとつの挿話であります。

その昔(1990年前後)、辻村公一教授が、何の講義か忘れましたがめずらしく政治について語られたことを思い出しました。辻村先生はそのとき「民主主義というものをですね、私は我慢をして、歯をくいしばって耐えておるですね。」と言われました。つまり民主主義などというものはとりたくないが、ほかの政治形態ではうまくいかないのも明白なので「仕方なしに」というニュアンスでした。当時は若かったので「民主主義でいいじゃないですか?」と思っていましたが、30年以上たってみれば辻村先生の言いたいこともわかるなぁ、と。
哲学者が政治を語るとだいたいしくじる(ハイデガー、西谷啓治等)、という歴史上の事実も考えあわせると、なんとも興味深いエピソードだなぁと今になって思います。

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