手技療法の基本を握手に求め、「力の加え方」「相手の感じ方」についてお話してきました。
今回は「心構え」です。
心構えなんて、日ごろ改めてことばに出すことなんて少ないかもしれません。
このブログでも、まとまったかたちでお話しすることはおそらくなかったでしょう。
でもとても大切なことなので、ぜひこの機会にお伝えしておきたいと思います。
このようなテーマは熱く語っているうちに、何やら説教くさくなってしまうかもしれませんね。
心構えといっても、基本はこれまでと同じくシンプルなものです。
みなさんが、親しい仲間と握手をしたときのベースにあるものがそれです。
それは「対等な関係」というものです。
人間としての対等さですね。
以前も書きましたが、私たちは患者さんを診ることで代価をいただいて生活の糧を得ます。
一方で患者さんは私たちに相談することで、健康を損なっているという困った状態から回復できるようになります。
持ちつ持たれつの対等な関係というわけです。
一方で、昔ながらの考え方に医療職(医師)は聖職というものがあります。
その考え方には、病んだ人を助けるという崇高な思いで、仕事をしてほしいという願いが込められているのだと思います。
つまり、医療が聖なる職ではなく、医療者は聖なる気持ちで職を行えということではないでしょうか。
ところが医療が聖なる職という解釈になると、とんでもない勘違いを生んでしまうことになります。
その一部がもしかしたら、いわゆるパターナリズム(医療父権主義)にも表れていたのかもしれません。
「素人にはわからないことなのだから、専門家に任せなさい」という偏ったパターナリズムは、ひどいケースだと、ただ偉そうにしているだけということもあります。
患者の自己決定権の意識と、インフォームドコンセントを重視する動きが高まっている現在では、さすがに極端なパターナリズムに凝り固まっている医療者は少なくなってきました。
患者さんへの対応も、以前よりは良くなってきていると思います。
私も自分が患者として医療機関を受診したり、お見舞いに行ったりするのですが、見習わなければならないほどすばらしい対応をされる医療者の方もいらっしゃいます。
しかしなかには、ただ偉そうに得意げになって専門用語を並べて煙に巻き、???と患者さんが呆気にとられるような対応をする医療者もまだいます。
さらにはサービス業としての対応どころか、ごくふつうのマナーも守れていない、眉をひそめたくなる医療者も目にすることもあります。
偏見かもしれませんが他のサービス業に比べ、その割合は多いように感じます。
これはたいへん残念なことです。
医療は聖職という考え方は、時代にそぐわなくなっているのではないかと思います。
世の中に役立つまっとうな仕事なら、すべて聖職だといえるでしょう。
その中で、医療はサービス業のひとつに過ぎません。
なにも特別でなくても、他の職業に携わる方々と同じように、自分が惚れた仕事を一生懸命やっているならそれで十分ではないかと思います。
一方で、上の例とは対照的となりますが「患者さまのために」というスタイルは、偏りの大きいパターナリズムを反省して、針を反対方向に向けるという良い面もあるかもしれません。
しかしこれも行き過ぎると、言われるがままの御用聞き的な対応をする可能性が生まれてしまいます。
医療現場で用いられる手技療法の場合なら、ただ相手に言われるがまま、希望どおりのマッサージするというものです。
リラクゼーションならそれも構いませんが、医療としてなら話は違ってきます。
その違いは、家政婦とホームヘルパーの違いに似ています。
家政婦は雇い主の要望にできる限り応えますが、ホームヘルパーは自立を支援するという目的のもとに必要な対応をします。
私たちは医療職として、言うべきことは言い、行うべきことは行わなければなりません。
また、「~のためにやらせていただく」という姿勢そのものは悪くないのですが、セラピストも人間です。
何かのはずみで「やらせていただく」が「やってやっている」に変わることもあります。
これはとくに、相手が自分の意向に背くようなことを続けたときに起こりやすい気がします。
「あれだけ、やってやったのに」という具合に。
心当たりはありませんか?
私はあります。
現場に出て3・4年目、ある程度のことが出来るようになってきて調子に乗り始めた頃です。
修行が足りませんでした。反省しています。
対応に押しつけがましさが加わったり、感情を絡ませることは避けなければなりません。
そうしないと、例えば患者さんに厳しくのぞむときにも、病気からの回復や健康に導くための手段としてそのように接するのではなく、ただ興奮して「怒っている」だけということになりかねません。
「握手」にはおかしなパターナリズムに陥らず、単なる御用聞きや押しつけがましさにならない、バランスの取れた心構えが表れているのではないかと思います。
握手のときのような対等な気持ちで、患者さんに強引な指図をするのではなく、おんぶにだっこをさせるのでもなく、横に並んで一緒に歩くような気持ちで患者さんに接するよう心がけています。
「患者さんと共に」というわけですね。
さて、患者さんと対等な関係になって共に進んでいくためには、セラピスト側に必要な条件があると考えています。
その条件とはな何かを示す、歴史上のエピソードを次回はご紹介します。
紅葉の大雪山旭岳(北海道) 2012
車でドライブして紅葉を見に行ってきました。
今回は「心構え」です。
心構えなんて、日ごろ改めてことばに出すことなんて少ないかもしれません。
このブログでも、まとまったかたちでお話しすることはおそらくなかったでしょう。
でもとても大切なことなので、ぜひこの機会にお伝えしておきたいと思います。
このようなテーマは熱く語っているうちに、何やら説教くさくなってしまうかもしれませんね。
心構えといっても、基本はこれまでと同じくシンプルなものです。
みなさんが、親しい仲間と握手をしたときのベースにあるものがそれです。
それは「対等な関係」というものです。
人間としての対等さですね。
以前も書きましたが、私たちは患者さんを診ることで代価をいただいて生活の糧を得ます。
一方で患者さんは私たちに相談することで、健康を損なっているという困った状態から回復できるようになります。
持ちつ持たれつの対等な関係というわけです。
一方で、昔ながらの考え方に医療職(医師)は聖職というものがあります。
その考え方には、病んだ人を助けるという崇高な思いで、仕事をしてほしいという願いが込められているのだと思います。
つまり、医療が聖なる職ではなく、医療者は聖なる気持ちで職を行えということではないでしょうか。
ところが医療が聖なる職という解釈になると、とんでもない勘違いを生んでしまうことになります。
その一部がもしかしたら、いわゆるパターナリズム(医療父権主義)にも表れていたのかもしれません。
「素人にはわからないことなのだから、専門家に任せなさい」という偏ったパターナリズムは、ひどいケースだと、ただ偉そうにしているだけということもあります。
患者の自己決定権の意識と、インフォームドコンセントを重視する動きが高まっている現在では、さすがに極端なパターナリズムに凝り固まっている医療者は少なくなってきました。
患者さんへの対応も、以前よりは良くなってきていると思います。
私も自分が患者として医療機関を受診したり、お見舞いに行ったりするのですが、見習わなければならないほどすばらしい対応をされる医療者の方もいらっしゃいます。
しかしなかには、ただ偉そうに得意げになって専門用語を並べて煙に巻き、???と患者さんが呆気にとられるような対応をする医療者もまだいます。
さらにはサービス業としての対応どころか、ごくふつうのマナーも守れていない、眉をひそめたくなる医療者も目にすることもあります。
偏見かもしれませんが他のサービス業に比べ、その割合は多いように感じます。
これはたいへん残念なことです。
医療は聖職という考え方は、時代にそぐわなくなっているのではないかと思います。
世の中に役立つまっとうな仕事なら、すべて聖職だといえるでしょう。
その中で、医療はサービス業のひとつに過ぎません。
なにも特別でなくても、他の職業に携わる方々と同じように、自分が惚れた仕事を一生懸命やっているならそれで十分ではないかと思います。
一方で、上の例とは対照的となりますが「患者さまのために」というスタイルは、偏りの大きいパターナリズムを反省して、針を反対方向に向けるという良い面もあるかもしれません。
しかしこれも行き過ぎると、言われるがままの御用聞き的な対応をする可能性が生まれてしまいます。
医療現場で用いられる手技療法の場合なら、ただ相手に言われるがまま、希望どおりのマッサージするというものです。
リラクゼーションならそれも構いませんが、医療としてなら話は違ってきます。
その違いは、家政婦とホームヘルパーの違いに似ています。
家政婦は雇い主の要望にできる限り応えますが、ホームヘルパーは自立を支援するという目的のもとに必要な対応をします。
私たちは医療職として、言うべきことは言い、行うべきことは行わなければなりません。
また、「~のためにやらせていただく」という姿勢そのものは悪くないのですが、セラピストも人間です。
何かのはずみで「やらせていただく」が「やってやっている」に変わることもあります。
これはとくに、相手が自分の意向に背くようなことを続けたときに起こりやすい気がします。
「あれだけ、やってやったのに」という具合に。
心当たりはありませんか?
私はあります。
現場に出て3・4年目、ある程度のことが出来るようになってきて調子に乗り始めた頃です。
修行が足りませんでした。反省しています。
対応に押しつけがましさが加わったり、感情を絡ませることは避けなければなりません。
そうしないと、例えば患者さんに厳しくのぞむときにも、病気からの回復や健康に導くための手段としてそのように接するのではなく、ただ興奮して「怒っている」だけということになりかねません。
「握手」にはおかしなパターナリズムに陥らず、単なる御用聞きや押しつけがましさにならない、バランスの取れた心構えが表れているのではないかと思います。
握手のときのような対等な気持ちで、患者さんに強引な指図をするのではなく、おんぶにだっこをさせるのでもなく、横に並んで一緒に歩くような気持ちで患者さんに接するよう心がけています。
「患者さんと共に」というわけですね。
さて、患者さんと対等な関係になって共に進んでいくためには、セラピスト側に必要な条件があると考えています。
その条件とはな何かを示す、歴史上のエピソードを次回はご紹介します。
紅葉の大雪山旭岳(北海道) 2012
車でドライブして紅葉を見に行ってきました。