稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2016年09月18日 | 週報
二〇一六年九月十八日  NO・四三―二五      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)詩  編 百四二編(月)  〃  百四三編
       司会 高 澤兄(火)  〃  百四四編(水)  〃  百四五編
      奏楽 慰 子姉(木)  〃  百四六編(金)   〃 百四七編
招詞祈祷  イザヤ四八章十七~十九節  (土)  〃  百四八編
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条            ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌二十一番        ◎二二日(木)祈祷会はお休みです。聖会に合流。
主の祈り                    ◎本日午後一時より「祈りのこころ」の読書会。   
交 読 文  詩 編百十九編カフ・ラメド  ◎本日責任役員会。   
讃  美  讃美歌六六番           ◎十九日(月・祝)十時半~十五時まで一日親睦会。
献  金  感謝の祈り      志村姉     あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し 
讃  美  聖 歌三九三番           自己弁護をしているのだと、これまでずっと
説  教  Ⅱコリント十二章十一~二一節  思ってきたのです。わたしは神の御前で、  
讃  美  聖 歌五八五番           キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、
祈  祷            みつ子師      すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               Ⅱコリント十二章十九節  
                 
   牧会者パウロの痛みと忍耐―すべてはキリストのために    
 十一章十六以下で、パウロは偽教師たちに真似て、「肉の誇り」自分自身を誇って見せた。しかしそれをなし終えて、「わたしは愚かな者になってしまいました」(十一節)と告白する。キリストに出会って、キリスト者となったパウロとって、自分の何かを自慢することは狂気の沙汰なのである。パウロはフィリピ三章二節以下でもっとはっきりと「わたしにとって有利であったこれらのことを(肉の誇り)、キリストのゆえに損失とみなすようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、…それらを塵あくたみなしています。」と言っている。いったい誰が「塵あくた」とみなすものを誇るだろうか。だから自己を誇ることは、パウロとって不快なことであり、心に痛みと恥を感ぜずにはできない「愚か」な行為であった。キリスト者とは、キリストのすばらしさのゆえに自分を誇ることの愚かさを知り、それから解放されている者である。「誇る者は主を誇れ」!

 パウロがこのように自己を誇った理由を、「あなたたちが無理にそうさせたのです」と言う。パウロを貶めるため、肉を誇り偽教師たちに対して、本来は、彼らがパウロを弁護すべきであったのである。それなのに偽教師たちに惑わされて、肉を誇らないパウロを一段低い者とみなすようになったのである。それに対してここまでパウロは繰り返し自己弁明をしてきた。しかし十九節でパウロは「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」と言う。パウロは、自分が人からどう見られようが、けなされようが気にしない者になっていた。しかしこの場合は、パウロを否定することは、パウロが宣べ伝えたキリストの福音そのものを台無しにすることに繋がるゆえに、パウロは自己弁護をしなければならなかった。いやそれは自己弁護でなく、キリストの福音の弁護であった。パウロの願いはただ一つ、信徒がキリストにしっかり結びつけることであった。そのために、したくない肉の誇りを示した。ここに牧会者としてのパウロの忍耐と痛み、信徒に対する心配と愛がにじみ出ている。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 週報 | トップ | 週報 »

コメントを投稿

週報」カテゴリの最新記事