二〇一八年二月二五日 NO・四四―四八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヘブライ 十三章(月)ヤコブ 一章
司会 みつ子師(火) 〃 二章(水) 〃 三章
奏楽 内 間姉(木) 〃 四章(金) 〃 五章
招詞祈祷 イザヤ五五章十一~十三節 (土)Ⅰペトロ 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り
交 読 文 詩 編 三五編十一~二八節
讃 美 讃美歌五〇一番
献 金 感謝の祈り 堅田姉 あなたがたはひどい苦しみの中で、
讃 美 聖 歌四一八番 聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、
説 教 Ⅰテサロニケ一章五~十節 わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
讃 美 聖 歌五〇八番 神に対するあなたがたの信仰が
祈 祷 志村姉 至るところで伝えられている……。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰテサロニケ一章六・八節
神の選びのしるし――生活を通して知る
パウロは、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」(4節)と言った。では、どのようにしてパウロは、テサロニケの人々が神の選びに与っていることを知ったのか?それは、彼らが「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」パウロたちの生きざまに倣う者となったことによってである。それを別の言葉で言えば3節の「信仰の業、愛の労苦、希望の忍耐」が生活に現れていることによる。「我々が患難の中にあって喜ぶということぐらい、我々の本性に反することはない」(カルヴァン)のであるが、彼らはひどい苦しみの中で聖霊によって与えられる喜びを持って御言葉に留まり続けたのであった。これこそ人間業ではなく、神の業・選びのしるしである。
5節は、誤解されやすいかもしれない。つまり言葉だけではだめだ、というように。しかし「教会が第一にいただくのは、御言葉である」(シュラッター)。ここでパウロが否定するは、「知恵にあふれた言葉」(Ⅰコリント2章4節)である。つまり人間的に説得力のある言葉によってではなく、人の知恵には
躓きとなる十字架の言葉が、聞く者を捕らえることができるのは聖霊の力による以外にない、というのである。そしてパウロは生きざまを通して言行一致の人として自分を示した。パウロは自分に倣う者になれ、というほどに。人は、目の前の人の言葉と行いからのみ、キリストの姿を知るのである。
当時のギリシアも偶像であふれていた。彼らも神の存在を信じていなかったわけではない。しかし拝んでいた神は、「生けるまことの神」ではなかった。すなわち多くの神々の中のひとつ神ではなく、唯一の生けるまこと神である。日本における宣教においても共通する部分が多い。
最後に、御子イエスの再臨について言及されている。死に打ち勝って復活されたゆえに、彼は生ける者として、再び来て、死と悪の力を完全に取り除き給う。生きざまが問われる最後の審判において、主イエスは、信じる者をその怒りから救われる。主イエスの再臨の希望に支えられて、信仰・愛・希望の内にキリスト者は生きる。内村は、この一章にキリスト教の大教理がことごとくこもっている、と言う。
礼 拝 次 第 (日)ヘブライ 十三章(月)ヤコブ 一章
司会 みつ子師(火) 〃 二章(水) 〃 三章
奏楽 内 間姉(木) 〃 四章(金) 〃 五章
招詞祈祷 イザヤ五五章十一~十三節 (土)Ⅰペトロ 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り
交 読 文 詩 編 三五編十一~二八節
讃 美 讃美歌五〇一番
献 金 感謝の祈り 堅田姉 あなたがたはひどい苦しみの中で、
讃 美 聖 歌四一八番 聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、
説 教 Ⅰテサロニケ一章五~十節 わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
讃 美 聖 歌五〇八番 神に対するあなたがたの信仰が
祈 祷 志村姉 至るところで伝えられている……。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰテサロニケ一章六・八節
神の選びのしるし――生活を通して知る
パウロは、「あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています」(4節)と言った。では、どのようにしてパウロは、テサロニケの人々が神の選びに与っていることを知ったのか?それは、彼らが「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」パウロたちの生きざまに倣う者となったことによってである。それを別の言葉で言えば3節の「信仰の業、愛の労苦、希望の忍耐」が生活に現れていることによる。「我々が患難の中にあって喜ぶということぐらい、我々の本性に反することはない」(カルヴァン)のであるが、彼らはひどい苦しみの中で聖霊によって与えられる喜びを持って御言葉に留まり続けたのであった。これこそ人間業ではなく、神の業・選びのしるしである。
5節は、誤解されやすいかもしれない。つまり言葉だけではだめだ、というように。しかし「教会が第一にいただくのは、御言葉である」(シュラッター)。ここでパウロが否定するは、「知恵にあふれた言葉」(Ⅰコリント2章4節)である。つまり人間的に説得力のある言葉によってではなく、人の知恵には
躓きとなる十字架の言葉が、聞く者を捕らえることができるのは聖霊の力による以外にない、というのである。そしてパウロは生きざまを通して言行一致の人として自分を示した。パウロは自分に倣う者になれ、というほどに。人は、目の前の人の言葉と行いからのみ、キリストの姿を知るのである。
当時のギリシアも偶像であふれていた。彼らも神の存在を信じていなかったわけではない。しかし拝んでいた神は、「生けるまことの神」ではなかった。すなわち多くの神々の中のひとつ神ではなく、唯一の生けるまこと神である。日本における宣教においても共通する部分が多い。
最後に、御子イエスの再臨について言及されている。死に打ち勝って復活されたゆえに、彼は生ける者として、再び来て、死と悪の力を完全に取り除き給う。生きざまが問われる最後の審判において、主イエスは、信じる者をその怒りから救われる。主イエスの再臨の希望に支えられて、信仰・愛・希望の内にキリスト者は生きる。内村は、この一章にキリスト教の大教理がことごとくこもっている、と言う。