二〇一八年六月三日 NO・四五―十 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)出エジプト 五章 (月) 〃 六章
司会 みつ子師(火) 〃 七章(水) 〃 八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 九章(金) 〃 十章
招詞祈祷 イザヤ五七章十八~二一節 (土) 〃 十一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 七五番 ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編 四八編 ◎アジア祈祷日献金三万円は「九州キリスト災害支援
讃 美 讃美歌二七〇番 センター」に送金しました。感謝。
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌四二四番 あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、
説 教 ヤコブ一章五~八節 だれにでも惜しみなくとがめだてしないで
聖 餐 式 お与えになる神に願いなさい。
讃美祈祷 聖 歌五三八番 坂本兄 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヤコブ一章五・六節
神と人の違い
5節で突然、「知恵の欠けている人は神に願い求めよ」と言われているようだが、これは4節までの「試練と忍耐」と密接に関わっている。なぜなら忍耐をもって試練を喜ぶことができるためには、「上からの知恵」(3章17節)が必要だからである。ここの「知恵」は、知識や人間の経験値としての知恵のことではない。神から与えられる知恵であり、それは抽象的なものでなく、実際的に働くものである。
今日の箇所は、神がどのようなお方であり、また人間がどのような者であるかを浮き彫りにしている。
神は、例外を作らず求める者には「だれにでも」与えられるお方である。さらに神は「惜しみなく、とがめだてしないで」与えるお方である。「惜しみなく」と訳されている語は、「率直さ」「下心なしに」「無条件で」という意味を持ち、そこから「気前よく」「惜しみなく」という意味になった。私たちは人に何かプレゼントする時、下心があったり、計算するのが常であり、率直さに欠ける。また「とがめることなく」ということも私たちはなかなかできない。誰かが助けを求めると、それが繰り返される場合、小言を言い、ケチをつけ、皮肉の一言を添えやすい。しかし神は、人をえり好みなさらず、無条件で惜しみなく与えて下さるお方である!
次に私たちが問われる。私たちが知恵を求めるときに「疑わない」ことが求められる。私たちは神と正反対な者なので、神が「惜しみなくとがめだてもしないで」与えて下さると言われてもなかなか信じることができず、疑ってしまう。あるいは、忍耐して待つことができず、すぐに神は祈りに答えて下さらないと早計に結論を出しやすい。ここでヤコブは疑う人を「二心の者」と呼ぶ。まさに私たちの本性は、一方では、困窮の中で神に助けを求め、他方で、神はどうせ聞いて下さらない、という思いに捕われる。この二心の状態をヤコブは見事に風に揺られる大波にたとえている。
私たちは、自分を基準にして神をはかりやすいが、そうしてはいけないとヤコブは勧めるのである。信仰をもって、御言葉を受け入れ一心に神に求め委ねよ、と。神はかならず与え給う!
礼 拝 次 第 (日)出エジプト 五章 (月) 〃 六章
司会 みつ子師(火) 〃 七章(水) 〃 八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 九章(金) 〃 十章
招詞祈祷 イザヤ五七章十八~二一節 (土) 〃 十一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 七五番 ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編 四八編 ◎アジア祈祷日献金三万円は「九州キリスト災害支援
讃 美 讃美歌二七〇番 センター」に送金しました。感謝。
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌四二四番 あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、
説 教 ヤコブ一章五~八節 だれにでも惜しみなくとがめだてしないで
聖 餐 式 お与えになる神に願いなさい。
讃美祈祷 聖 歌五三八番 坂本兄 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヤコブ一章五・六節
神と人の違い
5節で突然、「知恵の欠けている人は神に願い求めよ」と言われているようだが、これは4節までの「試練と忍耐」と密接に関わっている。なぜなら忍耐をもって試練を喜ぶことができるためには、「上からの知恵」(3章17節)が必要だからである。ここの「知恵」は、知識や人間の経験値としての知恵のことではない。神から与えられる知恵であり、それは抽象的なものでなく、実際的に働くものである。
今日の箇所は、神がどのようなお方であり、また人間がどのような者であるかを浮き彫りにしている。
神は、例外を作らず求める者には「だれにでも」与えられるお方である。さらに神は「惜しみなく、とがめだてしないで」与えるお方である。「惜しみなく」と訳されている語は、「率直さ」「下心なしに」「無条件で」という意味を持ち、そこから「気前よく」「惜しみなく」という意味になった。私たちは人に何かプレゼントする時、下心があったり、計算するのが常であり、率直さに欠ける。また「とがめることなく」ということも私たちはなかなかできない。誰かが助けを求めると、それが繰り返される場合、小言を言い、ケチをつけ、皮肉の一言を添えやすい。しかし神は、人をえり好みなさらず、無条件で惜しみなく与えて下さるお方である!
次に私たちが問われる。私たちが知恵を求めるときに「疑わない」ことが求められる。私たちは神と正反対な者なので、神が「惜しみなくとがめだてもしないで」与えて下さると言われてもなかなか信じることができず、疑ってしまう。あるいは、忍耐して待つことができず、すぐに神は祈りに答えて下さらないと早計に結論を出しやすい。ここでヤコブは疑う人を「二心の者」と呼ぶ。まさに私たちの本性は、一方では、困窮の中で神に助けを求め、他方で、神はどうせ聞いて下さらない、という思いに捕われる。この二心の状態をヤコブは見事に風に揺られる大波にたとえている。
私たちは、自分を基準にして神をはかりやすいが、そうしてはいけないとヤコブは勧めるのである。信仰をもって、御言葉を受け入れ一心に神に求め委ねよ、と。神はかならず与え給う!