kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

ビルの明かり

2024-02-07 11:21:44 | 男鹿半島幻想


 秋田県の人口が90万人まで減少した。
 男鹿市は24000人。
子どもの姿を見ないのだから、人口減少は加速していく。

 少し大きなビルだと、滞留人口は男鹿市の人口を上回る。
 
 
 
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人は集まる

2024-02-03 11:46:58 | 霞んだ光景


 人は集まり、やがて争いを始め、また散らばっていく。


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  なんとか Geometry node がすこしわかってきた。


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砂漠の絵を描きながら

2024-01-30 13:43:16 | 霞んだ光景


 昔、生物を観察するときは、人間に当てはめて考えてはだめだと
教えられたことがあった。
 しかし、いま、人間は生物そのものだと思っている。

 生物界とは地獄絵図の世界である。



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幸せ

2024-01-27 15:50:33 | 霞んだ光景


 自分に与えられた人生を、幸せを求めて掘り進めたけれど、
私のには苦しみと悲しみしか埋められていなかった。
 それとも、見つけたものを忘れてしまったのだろうか。


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男鹿半島幻想:謎の十字路(2)

2024-01-14 14:58:18 | 男鹿半島幻想
 このページは、男鹿半島幻想:謎の十字路 の続きです。

 日本海に津波を起こしたとおもわれる地震。多いなあー。
 犠牲者の数が記録に残っていたりするけれど、情報不足の当時を考えると
被害者はかなりいたように、私は推測している。

●701年5月8日  大宝地震 (たいほうじしん)   震源:近畿地方北部   M7.0

●850年11月23日  出羽地震(でわじしん)   震源:山形県酒田市沖   M7.0

●863年7月6日  越中・越後地震(えっちゅう・えちごじしん)   新潟県沖   M7.0

●1026年6月10日  万寿地震(まんじゅじしん)   震源;島根県沖   M7.5

●1644年10月18日  秋田県、羽後本荘・象潟(きさかた)   震源:秋田県由利本荘市沖   M6.5

●1741年8月29日  寛保津波(かんぽつなみ)  震源:北海道南西沖   M6.9

●1762年10月31日  佐渡沖地震(さどおきじしん)   M7.0

●1793年2月8日  青森県鯵ヶ沢地震(あじがさわ)   M6.9

●1804年7月10日  象潟地震(きさかたじしん)   震源:山形秋田県境の鳥海山(ちょうかいさん)   M7.0

●1810年9月25日  羽後地震(うごじしん)   震源:男鹿半島(おがはんとう)   M6.5

●1833年12月7日  庄内沖地震(しょうないおきじしん)   震源:山形県酒田市沖   M7.5

●1939年5月1日  男鹿地震(おがじしん)   震源:男鹿半島   M6.8

●1940年8月2日  北海道西岸積丹半島沖地震(しゃこたんはんとうおきじしん)   M7.5

●1964年6月16日  新潟沖地震   M7.5

●1983年5月26日  日本海中部地震   震源:秋田県能代沖(のしろおき)   M7.7

●1993年7月12日  北海道南西沖地震   震源:北海道奥尻島沖(おくしりとうおき)    M7.8

●2007年7月16日  新潟県中越沖地震(にいがたけんちゅうえつおきじしん)   M6.8

●2024年1月1日  能登半島地震(のとはんとうじしん)   震源:能登半島   M7.7

 津波の年表をみているうちに、
菅江真澄(すがえますみ)の「男鹿の鈴風」の
「むかし中里といって土堤に5、6軒の家があったが、ある年、鮫網(さめあみ)の漁に
でて、海が荒れ、舟がくつがえって死亡し、村もほろんで畑となった。」が浮かんできた。

 鮫を獲る網など男鹿では聞いたことがないから、鮫は「小魚」という意味で、
鮫網は沿岸に設置した建て網(たてあみ)のことだろう。
「海が荒れ」は津波が打ち寄せたに違いない。
 津波だけではなく、海面下の地殻も隆起し、貝塚にみえる大地も
つくったと幻想することもできる。

 「謎の十字路」を書いていて、星辻神社がなぜ山の中に移動したのだろうと、
なんとなく不思議に思っていた。
 落雷で焼失したためではなく、社殿・宝物が津波にさらわれたので遷宮したとすれば
理解しやすい。


参考
 男鹿の旅・道・宿-鹿の細道   磯村朝次郎 編著
 菅江真澄遊覧記5  菅江真澄 内田武志・宮本常一 編訳


秋田県神社庁に載っている星辻神社由緒
 延暦年中、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)勅命を奉じ賊徒征討の際、
男鹿に至り、戦勝祈願のため、湯本村に北辰神社(維新後星辻神社と改称)を
勧請建立された。
 その社殿は壮麗にして、神威尊厳霊妙不思議は当時世人の普く知るところであった。
 その後文禄年間に至り、社殿は雷火のため焼滅、
田村将軍奉納の兵器数多くの宝物もまた焼失す。
 慶安4年再建。
 享保3年再度火災に逢い焼亡、この時秋田城之介実季奉納の来光定の
宝刀は失ったが、御神体は恙なく守られて来た。
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 この由緒は、1810年に菅江真澄が、すでに湯本に移っていた星辻神社で聞いた話が
元になっている。(この後、真澄は男鹿震源の大地震に遭遇する。)
 大同年代に坂上田村麻呂を祀(まつ)った由緒をもつ神社はかなり多く、
ひとつの模式なのだろう。残りの多くは天照大神(あまてらすおおみかみ)を多分明治時代に
祀っている。
 

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