仙人奇行3 街道つまみ食い

ぶらりぶらりの史跡めぐり、独り言

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46.大井宿 → 47.大湫宿

2011-09-04 22:37:52 | 中山道


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恵那インターの西で国道21号を離れ中央道の下をくぐり農道を西へ

十三峠?

大湫宿まで上ったり下ったりと峠がたくさんある 

 

◎西行坂

 
◎西行塚

◎槙ヶ根一里塚 : 北塚高さ3.5m,南塚3.9m。  江戸から80里(約314km)。


槙ヶ根茶屋

◎槙ヶ根追分





◎馬頭観音

 

◎姫御殿跡

 

◎首無し地蔵

◎下座切場跡

 

◎乱れ坂

 

◎乱れ橋


◎夫婦岩跡

◎紅坂一里塚


◎三社灯篭

◎佐倉宗五郎碑

◎よごれ茶屋跡

◎深萱立場跡

◎姥が茶屋

◎馬茶屋跡

 

 

 

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23.島田宿

2011-08-15 15:07:56 | 東海道


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 23・島田宿                                         11.05.17
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静岡県島田市河原1

島田宿 は、東海道53次の23番目の宿場である。
 
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた、東海道の難所

大井川川越遺跡は国指定史跡


大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせた。

長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくなかった。

川越しの管理・統制は、はじめ島田代官・宿場役人の役目でしたが、元禄9年(1696)になると新たに川庄屋が任命された。

やがて、川会所が置かれ川越し制度は確立されていきました。

大井川を渡るには、川札を川会所で買い、川越し人足に渡して人足の肩や蓮台に乗り川を越しました。

川札の値段は、毎日川幅と深さを測って定められました。

川越し人足の数は、初め、島田、金谷でそれぞれ350人と決められていましたが、幕末には650人を超えていました。 

 

 

博物舘から見た大井川の渡し場

向こう側は金谷宿


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 仙人奇行 野次馬日記
http://sanchan430.blog70.fc2.com/blog-entry-436.html
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金谷坂

2011-08-01 20:56:35 | 東海道


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 金谷坂                             11.05.17
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静岡県島田市坂町

 






・旧東海道金谷宿と日坂宿との間にある、金谷峠。

・牧之原台地へと上る旧東海道の難所、 全長約1kmの石畳が続く

・当時、牧之原台地の土はぬかるみやすく、上り下りする旅人の苦労が絶えなかったという。

・そこで幕府は保全命令を発令し、旅人が歩きやすいようにと文政年間(1818年~1830年)、石が敷き詰められた。

・現在、国道473号から始まる金谷坂の石畳は、町民の参加により復元されたもの。

・菊川坂も開通し、全長約1kmの石畳が続く。

・わずか30mだが、江戸時代の石畳も残されている。

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大内宿

2010-12-09 16:50:57 | 会津西街道


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 会津西街道 大内宿                     10.10.27
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福島県南会津郡下郷町大字大内

重要伝統的建造物群保存地区



 

会津若松と日光を繋ぐ会津西街道又は下野街道と呼ばれる街道の宿場町。

若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置された。

寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。

全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の茅葺き民家が建ち並ぶ。

回りが高い山々に囲まれている為、独立した宿場町として発展し、本陣をはじめ旅籠や問屋などが設けられ賑わいをみせていた。

明治維新後は街道制度が廃止され主要交通機関から外れた事で次第に往来が衰退し町並みが残される大きな要因となった。

蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

 


◎復元された本陣。

・下郷町町並み展示館として利用されている。





◎会津西街道

江戸時代に入り街道が整備されると会津西街道は会津藩や新発田藩、村上藩、米沢藩の参勤交代に使用され、経済的にも廻米道として利用された。

会津藩・若松城を出ると、福永宿 関山宿を経て山岳地に入り、氷玉峠および大内峠を越えて大内宿に入る。

大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿へと至った。

若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程である。

延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道に代わった。

慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場町は戦禍を逃れた。

1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。

1981年(昭和56年)4月18日、長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて宿場町としては全国で3番目に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

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楢下宿

2010-11-17 14:22:23 | 羽州街道

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  楢下宿 (ならげしゅく)                 10.10.25
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山形県上山市楢下字乗馬場1759-1


羽州街道筋にある。 慶長7年(1602)に開設されました。

参勤交代で往来する山形・秋田方面の十三藩大名の宿駅として栄えた。

出羽国に入り、初めて本陣を有する場所。

本陣・脇本陣・問屋・旅篭屋など二十数軒の屋号と共に軒を連ねていた。

宿頭から宿頭にかけ新町・下町・横町・上町の4町からなる。
新町には関所が設けられ人物改めや荷物の確認など厳しく管理された。

浄林寺からコの字型を描くように大きく曲がり金山川を2度渡るような特殊な構造をしていてをしています。


 

◎脇本陣滝沢屋 
・およそ250年、経過した歴史ある建物 
・山形県の有形文化財 
・丹野家は江戸時代には庄屋を務めた家柄で、滝沢屋と称し『滝沢諸白』という銘酒を造りの酒屋でもあった。 
・武士を対象とした宿であり、平入り、直家形式(すごや)の曲がり家の造りの建物。




 ◎旧武田家 
・市指定文化財 
・新町の西側に位置する建物。この家は宝暦8年(1758)の屋敷割絵図には旅籠屋であったことが記されている。



◎大黒屋 
・市指定文化財 
・下町にあり、元滝沢屋の南に隣接する位置にある建物。

◎庄内屋 
・市指定文化財、脇本陣 
・新橋の近くにあり、庄内の藩主が常宿として利用されていたと言われる宿。 
・煙草盆や拝領品が今も残されており、藩候の宿札も残されているようだ。 
・楢下に残された家屋の中で、もっとも古く18世紀に建てられたと推測されている。

◎橋本屋 
・新橋の側にある建物。現在は一般の方が住居している

◎遠藤家

◎山田屋 ・市指定文化財。

◎秋田屋

◎明治時代初期に金山川に架けられた2つの石造眼鏡橋 ・新橋 ・覗橋:明治15年にかけられた橋。



◎浄休寺 ・宝暦3年(1753)に建立 ・浄林寺を境にして大きくコの字型に湾曲した町並みを呈していて境内は軍事的にも要所となっていたと思われる。






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20.鞠子宿

2010-01-13 21:39:50 | 東海道

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20. 鞠子宿 (まりこじゅく)                   09.12.17
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静岡県静岡市駿河区丸子

 


丸子とも書く、古くは麻利子とも書いた。
東海道中でもっとも小さい宿場。

天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。

となりの岡部宿(藤枝市)との間の宇津ノ谷(静岡市駿河区)には昔の街並が残る。

 

名物はとろろ汁で、広重が描いた「丁子屋」で現在も食することができる。
とろろ汁を商う店が14~15軒のきを連ね、旅人達は、これから先の宇津谷峠を越えるため、腹ごしらえをしたという。

◎丁子屋
 とろろ汁の老舗。 1596年(慶長元年)創業。
 「東海道五十三次・丸子」に描かれた名物のとろろそば屋が代々続いています。
 静岡市駿河区丸子7-10-10に現存している。



◎高札場



◎誓顔寺
 源頼朝が両親の供養の為に創建と伝 わる
 境内に豊臣家の老臣片桐且元の墓塔がある
 また庭園 の 池にはモリアオガエルが生息する

 

 

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41.三留野宿

2009-09-28 13:49:20 | 中山道


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 41.三留野宿                              09.08.05
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中山道41番目の宿場で、現在は長野県木曽郡南木曽町。

木曾十一宿の一つで、江戸から79里27町、妻籠宿へは1町18間、宿の延長は約2町。

南木曽駅の北が当時の宿場町の中心だが、1881年(明治15年)の大火で多くの建物が焼失したことに加え、鉄道が開通したため現在の町の賑わいは駅周辺に移っている。

近世には、和宮や明治天皇をはじめ正岡子規や斉藤茂吉なども宿泊した記録が残っています。

木曽をおさめていた木曽氏(きそし)のやかたがあり、そのおやしきが、「御殿(みどの)」とよばれていたため、「みどの」になったといわれています。

◎脇本陣跡

◎本陣跡


◎等覚寺
 円空がつくった弁才天、天神、韋駄天などの像があるお寺です。


◎桃介橋
 電力王とよばれた福沢桃介が、大正じだいにつくらせたつり橋です。
 ながさ247mと大きな木の橋で、近代化遺産として国の重要文化財として保護されています。 


 

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41.三留野-42.妻籠

2009-09-27 17:24:36 | 中山道
41.三留野-42.妻籠






◎蛇石



◎妻籠城址






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熊川宿

2009-09-06 17:59:38 | 若狭街道

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 若狭街道
  熊川宿         ttp://kumagawa-juku.com/            09.06.18
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熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であった。
室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の沼田氏が山城を構えた。
 
さらに、豊臣秀吉の相婿で秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図った。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄した。
江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっている。
 












◎得法寺
元亀元年(1570)に、織田信長は秀吉と家康をも従え、越前朝倉義景を攻めるため、京都から熊川を通り敦賀へ向かいました。
このとき徳川家康は得法寺に泊まったといわれ、このとき境内の松に腰をかけたのが、東の隅にあった松の木でした。
「家康腰かけの松」と呼ばれています。











◎熊川宿資料館
かつての熊川村役場だった建物を改修した資料館で、鯖街道関係の資料や民具などを展示しています。
営業時間 8:30~17:00   定休日 毎週月曜日 年末年始
入 館 料 200円(中学生以下無料)
レンタサイクル、貸ロッカー有り








◎熊川番所
かつて「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われていた熊川番所が復元されました。
入館料:大人50円(中学生以下無料)不定休


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◎鯖街道の由来 
 
・若狭ではいつからか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村(1716~83)が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(安永5年 1776年の句)と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて深い関係にありました。

・若狭をほぼ東西に走る丹後街道は東は越後敦賀、西は丹後の舞鶴あるいは宮津までの幹線道路でした。
 
・若狭街道は、大陸文化の玄関としての小浜から若狭町(旧上中町)の日笠をとおり、熊川を経て滋賀県朽木村を超えた大原八瀬より京都への道を言います。

・「鯖街道」もいつ頃からかこの呼び方をされていますが、熊川の古い文書には由来となるはずの若狭湾の鯖とわかる記載は見当たりません。
 
・しかし18世紀後半になって若狭湾で多種類の海産物に混じり大量の鯖が水揚げされるようになった事や小浜の「森田宗太郎家文書」によれば宝暦(1751~63)以後、若狭の海で鯖が大量に漁獲され、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったためだ、とも考えられます。
 
・これらが運ばれた道は幾通りもありましたが、鯖の運ばれた道の総称が鯖街道であると言っても良いでしょう。

・中世以降は熊川・朽木経由の若狭街道こそが輸送量の多い「鯖街道」の名に最も相応しい道であったことは確かです。
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47.大湫宿

2009-07-23 15:57:08 | 中山道

大湫宿HP
http://www.tono-gifu.net/okute-shuku/


中山道47番目の宿

標高510m、江戸へ90里半(約355㎞)、京へ43里半(約171㎞)

東の大井宿へ3里半(約14㎞)、西の細久手宿へ1里半(約6km

宿高109石8斗2升

尾州藩領で、同藩木曽衆の千村・山村両宗家の折半知行地

宿内の長さは、3町6間(約340m)、
戸数は70~80戸

人口:338人
家数:66軒
本陣:1軒
脇本陣:1軒
旅籠:30軒






皇女和宮歌碑


◎本陣跡



おもだか屋
脇本陣保々家
神明神社の大杉


◎高札場跡








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