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再論 専門軽視 5 産業資本主義社会から消費資本主義社会へ

2008-05-25 13:48:51 | 教育制度/行政

なぜ、専門軽視を平然と続けられるのか?

現在の学校に勤務していても、授業についての問題は一つとして議論されません。おそらく、今後ないと私は断言します。授業について、研究し、授業についての人事に重きを置くなどということはありえません。生徒の授業への評価を科学的に分析したり、他の学校の授業を盗むとか、というコンセプトはありえないのです。
 
 大学の教員は専門でいいだろう、しかし、高校以下は関係ない
 プロ野球は専門だろうが、高校の教員には関係ない
 日本史持って、世界史持っても、単独でもっている人間よりいい授業ということがあり得る

 こうした専門に対する無理解を支える構造を明らかにするというのが、この一連の文章の意図でした。
 根幹に関する要因でありながら、この一連の文章では詳細に論じることができないものを列記します。
 
いったん採用されたら、解雇はないという構造

これが大きいと思いますね。つまり、採用試験までは、おそらく、日本史を勉強して、世界史をも勉強しながら、現代社会で採用されようなどという人はいないと思いますね。それが変わるのは、採用されたという事実だと私は見ています。採用試験前に、現代社会だけでなく、

世界史の教案を考えている人はいない

ちがいますか?
いったん採用され、二度とリストラはない、という幻想が根底で、この専門への無関心を支えていると思いますね。
つまり、

リストラ

を想定し、市場にさらされた時、事態は変わります。

無能がむき出しになるからです。
これに反論する人にはこういいましょう。

「じゃあ、いますぐ、教員を辞職しなさい。」

いま、これに応じて即座に教職を辞せる人間はいません。

私は、たえず、ここに身を置いています。辞めたいのです(笑)。ま、もう少し発展的にいえば、

転職したい

のです。いまの公立学校の、それも二つも三つも平気で地歴公民を持つアホに、こういう問いはほとんど窒素死でしかありませんね。
 もう一つは、

必履修という規制

ですね。
現在必履修という規制でやっとこすっとこ生徒はがまんしてすわっているのです。今、そこを規制緩和されて、必履修ゼロとしたらどうなるのか?それでもきかせる力がある、専門などいらないというアホはその想像力がまったくないのです。
 いま学校はほとんど受験システム以外の価値観はありません。だったら、塾にも単位認定権を与えればいいのです。それは、外部試験の高校卒業認定試験に通ったら単位認定とすることと同じです。単位制というシステムは塾や予備校の先生にも門戸を十分開放できるシステムです。
 授業だけではない、特別活動やホームルーム活動も、というのであったら、そこも開放して、ともに、ならべて生徒の選択を問えばいいのです。現在、総合学習も、特別活動もその手抜きたるやひどいものです。私は、そこに研究という名前を付けうる人間にであったことがない!

産業資本主義から消費資本主義へ

さて、私がこれから、示す原因は、いうならば、学校はいまだに産業資本主義段階のエトスで動いているというものです。日本社会はじつは、1980年代には、産業資本主義から消費資本主義への移行に入らなければいけなかったが、その構造転換に失敗したというのが、現在、通説です。
学校はおそらく、その転換に今後とも移行できないだろうと私は推測しています。というより、日本経済は全体として移行に失敗している、東京に本社があり、グローバルに活躍している一部の優良企業を除いて、日本経済はその移行に失敗している。こうかんがえていいでしょう。それは、象徴的にいえば、

工場によるもの作りから消費者本位主義への移行

に失敗していると考えていいでしょう。
学校に置き換えましょう。学校は、じつは、いまだに、

工場

という構造でできあがっています。
ミシェル・フーコー的にいえば、のんさんがコメントされていたように

監獄

といいかえてもいいでしょう。
校長が工場長なのです。
教員は中間管理職です。ということは、

生徒は生産労働の労働者

この構造がいまだに学校を深く深く支配しています。学校の先生は、従順なる作業者をいまだに作ろうとしています。

答えは先生が握っている
生徒はそれにいかに正確に、いかに従順に到達するか

これが学校の基本的な構造です。ですから、本当は先生から正解を取り上げる、指導書や解説書を取り上げる、これが、総合学習というものの文部科学省的な提示だったのです。それは、消費社会を前提にするならば正しいのです。

そうです。学校の構造はこう変わらねばならないのです。

生徒は消費者

よき消費者となること、これが、実は、私たちのコンセプトの根幹とならねばならないのです。生徒を顧客と考え、まず

「いらっしゃいませ」

からはじめる(笑)。多様な品ぞろえ、まるで、デパ地下のような眼もくらむような(ボードリヤール)差異の戯れ、これが、幻惑する世界こそ消費世界の原的風景なのです。

現在の価値の源泉は、付加価値です。

安くて大量

ここを掲げて、ここだけを掲げた企業はすべて淘汰のメカニズムにあっています。ユニクロの成功は、一見、安くて大量のようにみえました。ところが、そうではありませんでした。品質のよさ、多彩な品ぞろえ、こうしたコンセプトをそろえた上での安くて大量だったのです。生徒により舌の肥えた消費者になってもらう。満足の程度の高い消費者へむけての情報の発信、その効用を限界まで高めること、異なる効用を絶えず生み出すこと、これが富を形成するのです。

つまらないという感覚への敏感さ
気まぐれを価値とする発想への転換
多様な感性が客観化できるシステムの構築

日本社会はいずれも失敗しています。いまいる単位制高校の教員は、本当に学年一括が好きです。それしかない。多様な消費者への多様な効用の提示、これには、どうあっても専門性が必要だという感覚、これがなければ、中国やインドの一か月1万円で喜んで働く人たちと同じ価値に落ちていくのです。

【参考】
教員の給料が年収200万円以下になる日 1 教員の教育力の低下
教員の給料が年収200万円以下になる日 2 素直のディコンストラクション
教員の給料が年収200万円以下になる日 3 その日はもう来ている
教員の給料が年収200万円以下になる日 4 保護貿易と鎖国


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参考エントリイの紹介 (Kimura Masaji)
2008-05-27 08:19:16
末尾に、参考になるエントリイを追加しました。最近まとめたものですが、よろしければこちらも閲覧してください。
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