考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

小論文なんて止めちまえ

2008年02月16日 | 教育
 小論指導や自由英作文指導は好きである。
 しかし、試験の小論文やテーマを与えられての自由英作文を、今の状態で高校生に語数も僅かで書かせるのはいかがなものかと思っている。正直言って、反対である。

 ちゃんと理由がある。与えられるテーマが重すぎるのだ。
 世間で専門家や似非専門家がマスコミを絡めて答えが出せない論争中の懸案を、なぜ、ものを知らない、何の知識もない高校生に書かせるのだろうか。この辺りは大学の見識を疑う。もっとも出題者側にすれば、「定型的な答えがない」から、自由に論じられるだろう、定論があれば、受験生はそれを書くだろうから出題できない、と思っているのだろう。
 採点の着眼点は、言葉遣いや語彙等の問題を外せば、いかに整合性のある説得力のある文章を書いているかでしかないだろう。大学が欲しいのは、論理的にものを考える学生なのだろうから。

 しかし、私が問題としたいのは、世の中で論じられ、大人の世界でさえ答えが出ていない問題について、「あなたは賛成ですか、反対ですか」の問いに答える際、実に意外に思われるだろうが、「賛成」と述べるのに余り根拠が要らない、もう少し正確に言えば、非常に単純な論理でまかり通ることが多いという事実である。
 意外に皆さんお気づきでないだろうが、「反対だ」と主張するには、かなりの論理展開が必要になる。短時間に少ない字数、日本語だったらせいぜいで800字、英語なら長くて200語だろう、それで、説得力がある文章を書くには余程の思考力と文章力が必要になるのだ。

 どうです?
 これって、もの凄い「落とし穴」だと思いません?

 一皮捲ると、「賛成意見が多いから巷間にのぼる」という事実に至るということだ。反対意見がまかり通るなら、そもそも話題にならないのがものの道理というものであろう。だから、賛成意見の方が「圧倒的に書きやすい」。

 これって、すごくない?

 ものごとをちょっとだけ深く見て考えれば反対意見の方が理に適っているにも関わらず書きづらいのは、世の中の「賛成意見」、もっと言えば、マスコミによって扇動された大衆の「だって、なんとなく、(みんな言ってるし)そうじゃない~?」をも説得できるほどの反対論を展開しなければならないからである。で、この障壁はもの凄く高い。直観的に「これって、まずいんじゃないの?」と思った高校生、特別にアタマが良いわけではないけれど、大衆的ではない「なんとなくの良識」を持ち合わせている彼らにとって、根拠を具体的に言語化して表現することはかなり困難な仕事になるのである。
 私がここに書いている記事には長いものが多い。なぜなら、「世間の(無責任な)常識」に反する内容を書いているから、論拠を示すとなるとどうしても流れが煩雑でややこしくなって長くなるのだ。「反対意見を書いてもいいんだよ」という要求は、これを高校生に求めることである。直観的に「反対」と思った生徒は、マトモであればあるほど窮地に陥る。どう表現していいのかわからないからである。彼や彼女は、やがて思考を停止するだろう。聞きかじりの「小論対策事前学習」で「もっともらしい知識」を獲得し、「書きやすい方の答え」を書くだろう。恐いのはこの「安易さ」であるが、最も恐いのは、いったん「書いた」という行為が身体的にも精神的にもカラダに刻印されるということである。これは、「聞きかじりのもっともらしい知識」が残るという意味ではなく、「単純な論理で思考する」という経験が残ることである。真に習得されるのは、意識的に理解できる「ものごとの断片(知識)」ではなく、無意識的な「行為の方法」が常である。それで、これこそが「人を作る力」たり得るものなのだ。(ほらほら、この辺のことも、「なるほど!」とすんなり受け入れてくれる人と、「えっ?どういうこと?」と受け入れてくれない人がいらっしゃることだろう。で、後者を説得するには、私はまた多大な字数と時間を費やさなければならないことになる。反対意見を書くとは、要はこれが大変だということなのだ。でも、今は割愛ね。)つまり、一見教育的に思われる今の小論文や自由英作文は、「単純思考」あるいは「マスコミ垂れ流しの受け売り」をうら若き高校生にせっせと勧め、助長させることになりかねないということだ。こんなことをさせる試験が真の教育に結びつくわけがない。
 彼らがなすべきことは、直観的に「これって変だよな」と思ったことを時間を掛けて深めて熟成させたうえで真の思考に高めていくことであろう。必要なのは時間の掛かる訓練なのだ。体系的な理解がほとんどなく、聞きかじりの知識をつぎはぎして、さも自分の論であるかのようにコトバを連ねて論理の形態を整えることでは決してない。しかし、大きなテーマの割には「時間」と「量」が限られた「小論文」・「自由英作文」試験は、「教育」に求められるものを阻害し、歪ませかねないのである。

 小学校の英語授業に反対する意見として、鳥飼玖美子さんは「危うし!小学校英語」を書いた。新書1冊200余ページである。
 まあ、そんなものである。

 ほら、今日も「試験の小論文反対」、たったそれだけの主張に2000字軽く出ちゃいましたよ。

2 コメント

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ないは証明できない (ゾウムシ)
2008-02-18 11:56:04
はじめまして

養老先生のカテゴリがあるので,ひょっとしたらゾウムシというハンドルネールの方が別にいらっしゃるかもしれませんが・・・ボクは初めての書き込みです.

これって養老先生が「筑波山にチョウはいるか?」との問いに対して,「いる」という証明は標本1つで済むけど,「いない」という証明は不可能(あるいは際限なく大変)というのと似ていますね.

あと,養老先生が著作をたくさん出されている(いろんなことを考える)理由の一つに,常識に対する違和感を説明するために,まずは常識のほうを違う視点で説明して,そこから少数意見の持論を説明しないと伝わらないというのとも似ていますね.

すなわち常識として「そうです」「はい」は一言で済むけど,反論の場合はやらたと長くなる.向こうの考え方の前提までこっちが説明してやらないといけない.そこから否定というか異論を述べるわけですから.

でも,そこを辛抱強くやるしかないんじゃないでしょうかね.養老先生もなんだかんだといいながら「世の中のため」に尽力されているんですから,若い人たちはもっと「しつこく」声をあげるしかないでしょう.

その意味では,このエントリは地道な努力の一つで,いつか実を結ぶと思います.
そうなんだって筑波山 (ほり(管理人))
2008-02-18 21:17:49
ゾウムシさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

ゾウムシさんは、他にはおいでになりませんから、どうぞご安心ください♪

>これって養老先生が「筑波山にチョウはいるか?」との問いに対して,「いる」という証明は標本1つで済むけど,「いない」という証明は不可能(あるいは際限なく大変)というのと似ていますね.

そうなの♪ 文章を書いていて、途中で、私もこの話をいれかけたんですよ、実は♪♪ 
でもまあ、養老先生ばかり出すのも何だなぁとおもって止めただけです。
気が合いますね♪

>まずは常識のほうを違う視点で説明して,
>向こうの考え方の前提までこっちが説明してやらないといけない.

そうそう、これが大変なんです。
で、世の中には、自分の考えと異なる「前提」を受け入れようとする人とそうでない人がいて、私は後者とすぐにぶつかる。(笑)私の話って、「前提をどこに取るか」に関わることが多いんですよね。「ベクトル」でいうと、「大きさ」より、「方向(軸、次元)」だから。

これで相手が管理職だと困るんだよねぇ。。少なくとも、部下の言うことくらい理解しろよ、と言いたい。
狡猾な人は、「前提」を決して変えないところから話を始める。(私には、ずるいか単にアタマが悪いとしか思えようがないのですが、逆に、こっちがアタマが悪いと思われる。「バカじゃないか、そんな常識はずれのこと言うなんて。」)

「立ち位置を知ることの難しさ」でしょうね。「前提」ってのは、そういうものだと思います。
「立ち位置を知る」のが学問本分だと思うので、「学校の先生」がこれをわかってないのは、おかしな話だなと思います。

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