あの藤原元校長と勝間さんのテレビのトーク番組を見た。
藤原さんが、夜スペを始めたのは、土テラ(土曜日寺子屋)と対でのことだそうだ。これを図を描いて説明していた。他の先生方を説得するためのものである。勝間さんは、視覚に訴える手法を「わかりやすいですね」と対応していた。藤原さんも、視覚に訴えるのが説得力を持つということを言っていた。
私は、さすが相手を説得させることが仕事の人だと思った。(私は、何でもかんでもわかりやすい方がいい、という考え方をしない。)なぜなら、この段階での主題が「いかにして相手を説得させるか」で、教育そのものが主題でないからだ。
で、描かれた図だが、こういうの、マトリックス図というのかな?x軸とy軸が+になったような図である。一方の両端は「集団」と「個人」、もう一方の軸の両端は能力か学力の高低だったと思う。よって、図は、「能力の高い個人」「能力の高い集団」「能力の低い個人」「能力の低い集団」の4つに分かれたわけである。
ちょっとここで念のため確認するが、この図において、「A君は『能力高い個人』属し、B君は『能力高い集団』に属する」ということはあり得ない。A君、B君共に、A君、B君を個別に処遇すれば「能力の高い個人」になるが、A君B君をはじめとする能力の高い生徒たちを一緒くたに処遇するとき、それらの生徒全員が「能力の高い集団」となる。(←必要のないことかもしれないが、念のため。)
それで、藤原さんは、学校は、能力が上位側にいるの個人の生徒と、能力が下位側にいる集団には対処しているが、能力が上位の集団と能力が下位の個人への対処が抜け落ちている、と言っていた。
私は、ホントかな?と思った。学校は、上位層に対して、個別指導を行っていると言うのか?そんなのあり?家庭教師みたいじゃないか。あるいは、優秀な子の質問は受けてそうでない子の質問を受けないということか?
まあ、このあたりは、勝間さん、説得されていて、次に藤原さんが、「抜け落ちているのがこことここ」と図の「上位の集団」「下位の個人」を指した。それで、前者が夜スペ、後者が土テラだ、というものだから、図のすべてが埋まるような風になって、勝間さん、大いに説得されていた。
その際、藤原さんは、「集団」の「下位層」をさして、今の学校は、ここが増えているから、他(個人の下位とか、上位の集団ということだろう)に対処しにくくなっている、と言っていた。それでこの部分の補強のため、地域を巻き込んでの夜スペ・土テラになったということだ。
地域を巻き込むのは、公立校だしそう悪いことのように見えない。過去と比較すると、昔は、学校「外」で生徒たちは地域の人の中に巻き込まれていた。ところが、今は、地域そのものが子供たちを巻き込む力を失ってしまったから、学校が、否、正確に言うと学校に通う「子供」が地域から遊離してしまったのである。そもそも、学校とは、昔から地域から遊離していた。地域の人が学校に気軽に出入りしたことは、昔からなかったはずだ。それを藤原さんは、「子供を地域に巻き込ませる」のではなく、「地域(の人)を学校に巻き込ませることによって子供と地域を結びつける」という手法を取ったのだ。言い換えると、地域が力を失った分を学校が肩代わりして補っている、ということだろう。それで、学校の中に、こういったことに関心のある地域の人たちが大勢出入りし始めた。昔の「近所」が、学校の中に出現した、ということだと私は思う。それで、私は、自分がやっぱり「学校の先生」だから、「学校の中にある『近所』」に多少の違和感を感じる。だって、「学校は学校」であって、「近所」ではないもの。学校の価値観と一般社会の価値観は異なるから、異物が入り込むことに私は抵抗を感じるのだ。でも、こういうのは、「何でもあり」を良しとする無意識下の大衆的な常識のもとでは、「学校の先生独特の反応」として時代遅れとかそんな風に解釈されるのかな?
思ったのは、藤原さんのやったことは「対症療法」としてほぼ完璧に近いと言うことだ。だから、自分の学校の先生でも勝間さんでも、それから多くの視聴者を説得したことだろうと思う。
さすが企業人だけあると思った。私の考えに、「社会は、回っていけば良いところ」というのがあるから、目の前の問題に際しては対症療法が功を奏すれば十分なのである。藤原さんのしたことは私は対症療法だと思っている。
しかし、である。(この後が、私の言いたいこと。)
最も気になったのは、藤原さんが下位の集団の部分を指して「今は、ここが増えているから」と言っていたことである。
これって、これこそ、最も重要な課題ではないのか?
「増えている」から、対症療法として「増えている子に対処する」のが、藤原さんが行った土テラだったりするわけだが、公教育として、最も目を向けなければならない観点は、「なぜ増えているのか」という構造的な問いをただすことであろう。なぜなら、公教育はシステムの一環として行われるものだからだ。これ、ものすごく重要ね。
それで、こう言うと、「結果が良ければ対症療法であろうとなんだって良いではないか」と思われる方は大勢いると思うが、私は公教育は対症療法的な方策でなくシステムとして機能させる方が良いと考える。理由はちゃんとある。アフガニスタンの中村氏の井戸掘りだったり、その昔の後藤新平の上水道の完備が、共に住民の健康度を上げたことと同種の理由である。中村さんは医者だから、最初は医者として、住民の下痢などの病気に対処していた。しかし、病気の原因が水にあることに気づき、井戸掘りをはじめた。後藤新平も同様で、個別に対処する医療より、予防医学の見地から対策する方が効率が良いことがわかっていたから水道を整備した。それで、こういった言わば大々的な方策を取ることを可能にするのが、「公」の考え方だったりあり方だったりする。公教育だったら、中村さんや後藤新平のような目を持つのがまっとうなあり方だろう。(「歴史から学ぶ」というのに、これも含まれるだろう。)
「なぜ学力のない子が増えているのか」
これに関しては、苅谷氏、内田先生が明解な答えを出している。学ばないからである。内田先生は理由に市場経済主義を挙げている。私は同意するが、まあ、今はそれはいい。(理由を議論しないということ。)
学ばない子が増えているという問題に構造的に対処しなければ、子供の学力は全体として上がらない。これを解消するのは、「生徒に学ぶことを教えること」しかない。これが最善の策であり、急務である。漢字や計算、他の様々な知識は、子供が「学ぶこと」を体得すれば自ずから習得できることだ。
今の学校の最大の問題は、子供に「学ぶこと」そのものを教えないことにある。だから子供は学ぶことの重要性を知らない。知らないから学ばない。(社会も後押しする。)私が勤務している高校にしても、「勉強は試験対策」でしかないことが非常に多い。それで、この事実に気がついてないのも同根である。
と、このように書いても、大方の同意は得られないだろう。それほどまでに、「学ぶこと」が忘れられているのだと思う。試験対策は学ぶことにならない。(面倒だから、理由は書かない。今までに、けっこう関連することは書いている。)
「自分は医者なのに、目の前に苦しんでいる病人がいて、そばを離れて井戸掘りが出来るか」という論理が溢れかえっている。血が通っているからこそ何とも御しがたい。病人に対処することしかしないから、病人はまだまだ増えるという悪循環に気がつくことができない。「私が病気を治してあげたら、こんなに感謝された。何の悪いことがあろうか。」が今、誰からもどこででも望まれている状況である。藤原氏が行い、耳目を集めたものこそが、これである。(夜スペが塾の良い宣伝になったこと、他の学校がまねても、今度は塾が協力的になることが少ないだろう、などのことは、「目の前の病人に対処する藤原氏」の目には入らない。ときにこぞって賞賛する「民間の感覚」の本質はこういっった類のものであろうと思う。)しかし、これで問題の根源に対処することはできない。
では、どうしたら、子供たちに「学ぶことの重要性」を教えることが出来るか。
私は、先生が本当の勉強をすることでしかなしえないと思っている。内田先生の言う「機嫌が良い教師」が近いかもしれない。学ぶことを全面的に肯定しないと、教師は機嫌良くなれないからだ。生徒を注意、指導するにしても「機嫌良く」行えるかどうかである。(「にこにこ叱る」では決してない。これは全く逆効果よ。)
「勉強をする」は、「勉強が出来る、出来ない」、「良い成績が取れる、取れない」とは全く別次元の話である。アタマが悪くても、勉強が相対的に出来なくても、真に学ぶことは可能である。なぜなら、人そのものを変革するのが本当の勉強で、変わることに能力差は関与しない。
先生が「教授法」」を学んでも、生徒の学習意欲は生じないだろう。先生が、国語でも数学でも英語でも、とにかく本質から勉強をすることである。「進学校だから近年の受験の傾向を知るための勉強をしよう」ではない。これは「研究」や「仕事」であって、決して「勉強」ではない。
勉強とは、真実、その対象に向かうことである。「真実」というのは、対象を内面化するということである。常に基本に立ち返ることである。これがものすごい応用力になって自分自身を変革する。知識の習得だけではないのである。先生がそのように勉強をすれば--内容は自分が教材とするものに関わる方がやりやすいとは思うが--、「勉強をする」ということがどういうことかは必ず子供たちに伝わるだろう。それが子供たちに勉強をすることに向かわせる。間違ってもらっては困るのは、「先生が学んだ事項」が直に子供に伝わるのではないということである。先生が勉強をすることによって、「学ぶとはどういうことであるか」が子供たちに伝わるということだ。知識として知るべきことでも方法でも、先生が同じことを話したとして、ちょっとした言葉の端々に現れ出ることで、伝わるものがあるということである。それは、知識や方法そのものではないのがなんとも言いようがない。ひょっとしたら、優れた先生の授業を参観したときに感じる「どうしても真似が出来ない、自分にはできない」ものが近いのかもしれない。ただのテクニックだったり、言語化できるものではないはずだ。私だってよくわからない。ただ、時間がかかることはあるだろうが生徒が「最も学ぶ」のは、そういうものなのだろうというのは、かなりの確信を持って言う。ただし、証明も検証も不可能である。教員としての直観である。
藤原さんが、夜スペを始めたのは、土テラ(土曜日寺子屋)と対でのことだそうだ。これを図を描いて説明していた。他の先生方を説得するためのものである。勝間さんは、視覚に訴える手法を「わかりやすいですね」と対応していた。藤原さんも、視覚に訴えるのが説得力を持つということを言っていた。
私は、さすが相手を説得させることが仕事の人だと思った。(私は、何でもかんでもわかりやすい方がいい、という考え方をしない。)なぜなら、この段階での主題が「いかにして相手を説得させるか」で、教育そのものが主題でないからだ。
で、描かれた図だが、こういうの、マトリックス図というのかな?x軸とy軸が+になったような図である。一方の両端は「集団」と「個人」、もう一方の軸の両端は能力か学力の高低だったと思う。よって、図は、「能力の高い個人」「能力の高い集団」「能力の低い個人」「能力の低い集団」の4つに分かれたわけである。
ちょっとここで念のため確認するが、この図において、「A君は『能力高い個人』属し、B君は『能力高い集団』に属する」ということはあり得ない。A君、B君共に、A君、B君を個別に処遇すれば「能力の高い個人」になるが、A君B君をはじめとする能力の高い生徒たちを一緒くたに処遇するとき、それらの生徒全員が「能力の高い集団」となる。(←必要のないことかもしれないが、念のため。)
それで、藤原さんは、学校は、能力が上位側にいるの個人の生徒と、能力が下位側にいる集団には対処しているが、能力が上位の集団と能力が下位の個人への対処が抜け落ちている、と言っていた。
私は、ホントかな?と思った。学校は、上位層に対して、個別指導を行っていると言うのか?そんなのあり?家庭教師みたいじゃないか。あるいは、優秀な子の質問は受けてそうでない子の質問を受けないということか?
まあ、このあたりは、勝間さん、説得されていて、次に藤原さんが、「抜け落ちているのがこことここ」と図の「上位の集団」「下位の個人」を指した。それで、前者が夜スペ、後者が土テラだ、というものだから、図のすべてが埋まるような風になって、勝間さん、大いに説得されていた。
その際、藤原さんは、「集団」の「下位層」をさして、今の学校は、ここが増えているから、他(個人の下位とか、上位の集団ということだろう)に対処しにくくなっている、と言っていた。それでこの部分の補強のため、地域を巻き込んでの夜スペ・土テラになったということだ。
地域を巻き込むのは、公立校だしそう悪いことのように見えない。過去と比較すると、昔は、学校「外」で生徒たちは地域の人の中に巻き込まれていた。ところが、今は、地域そのものが子供たちを巻き込む力を失ってしまったから、学校が、否、正確に言うと学校に通う「子供」が地域から遊離してしまったのである。そもそも、学校とは、昔から地域から遊離していた。地域の人が学校に気軽に出入りしたことは、昔からなかったはずだ。それを藤原さんは、「子供を地域に巻き込ませる」のではなく、「地域(の人)を学校に巻き込ませることによって子供と地域を結びつける」という手法を取ったのだ。言い換えると、地域が力を失った分を学校が肩代わりして補っている、ということだろう。それで、学校の中に、こういったことに関心のある地域の人たちが大勢出入りし始めた。昔の「近所」が、学校の中に出現した、ということだと私は思う。それで、私は、自分がやっぱり「学校の先生」だから、「学校の中にある『近所』」に多少の違和感を感じる。だって、「学校は学校」であって、「近所」ではないもの。学校の価値観と一般社会の価値観は異なるから、異物が入り込むことに私は抵抗を感じるのだ。でも、こういうのは、「何でもあり」を良しとする無意識下の大衆的な常識のもとでは、「学校の先生独特の反応」として時代遅れとかそんな風に解釈されるのかな?
思ったのは、藤原さんのやったことは「対症療法」としてほぼ完璧に近いと言うことだ。だから、自分の学校の先生でも勝間さんでも、それから多くの視聴者を説得したことだろうと思う。
さすが企業人だけあると思った。私の考えに、「社会は、回っていけば良いところ」というのがあるから、目の前の問題に際しては対症療法が功を奏すれば十分なのである。藤原さんのしたことは私は対症療法だと思っている。
しかし、である。(この後が、私の言いたいこと。)
最も気になったのは、藤原さんが下位の集団の部分を指して「今は、ここが増えているから」と言っていたことである。
これって、これこそ、最も重要な課題ではないのか?
「増えている」から、対症療法として「増えている子に対処する」のが、藤原さんが行った土テラだったりするわけだが、公教育として、最も目を向けなければならない観点は、「なぜ増えているのか」という構造的な問いをただすことであろう。なぜなら、公教育はシステムの一環として行われるものだからだ。これ、ものすごく重要ね。
それで、こう言うと、「結果が良ければ対症療法であろうとなんだって良いではないか」と思われる方は大勢いると思うが、私は公教育は対症療法的な方策でなくシステムとして機能させる方が良いと考える。理由はちゃんとある。アフガニスタンの中村氏の井戸掘りだったり、その昔の後藤新平の上水道の完備が、共に住民の健康度を上げたことと同種の理由である。中村さんは医者だから、最初は医者として、住民の下痢などの病気に対処していた。しかし、病気の原因が水にあることに気づき、井戸掘りをはじめた。後藤新平も同様で、個別に対処する医療より、予防医学の見地から対策する方が効率が良いことがわかっていたから水道を整備した。それで、こういった言わば大々的な方策を取ることを可能にするのが、「公」の考え方だったりあり方だったりする。公教育だったら、中村さんや後藤新平のような目を持つのがまっとうなあり方だろう。(「歴史から学ぶ」というのに、これも含まれるだろう。)
「なぜ学力のない子が増えているのか」
これに関しては、苅谷氏、内田先生が明解な答えを出している。学ばないからである。内田先生は理由に市場経済主義を挙げている。私は同意するが、まあ、今はそれはいい。(理由を議論しないということ。)
学ばない子が増えているという問題に構造的に対処しなければ、子供の学力は全体として上がらない。これを解消するのは、「生徒に学ぶことを教えること」しかない。これが最善の策であり、急務である。漢字や計算、他の様々な知識は、子供が「学ぶこと」を体得すれば自ずから習得できることだ。
今の学校の最大の問題は、子供に「学ぶこと」そのものを教えないことにある。だから子供は学ぶことの重要性を知らない。知らないから学ばない。(社会も後押しする。)私が勤務している高校にしても、「勉強は試験対策」でしかないことが非常に多い。それで、この事実に気がついてないのも同根である。
と、このように書いても、大方の同意は得られないだろう。それほどまでに、「学ぶこと」が忘れられているのだと思う。試験対策は学ぶことにならない。(面倒だから、理由は書かない。今までに、けっこう関連することは書いている。)
「自分は医者なのに、目の前に苦しんでいる病人がいて、そばを離れて井戸掘りが出来るか」という論理が溢れかえっている。血が通っているからこそ何とも御しがたい。病人に対処することしかしないから、病人はまだまだ増えるという悪循環に気がつくことができない。「私が病気を治してあげたら、こんなに感謝された。何の悪いことがあろうか。」が今、誰からもどこででも望まれている状況である。藤原氏が行い、耳目を集めたものこそが、これである。(夜スペが塾の良い宣伝になったこと、他の学校がまねても、今度は塾が協力的になることが少ないだろう、などのことは、「目の前の病人に対処する藤原氏」の目には入らない。ときにこぞって賞賛する「民間の感覚」の本質はこういっった類のものであろうと思う。)しかし、これで問題の根源に対処することはできない。
では、どうしたら、子供たちに「学ぶことの重要性」を教えることが出来るか。
私は、先生が本当の勉強をすることでしかなしえないと思っている。内田先生の言う「機嫌が良い教師」が近いかもしれない。学ぶことを全面的に肯定しないと、教師は機嫌良くなれないからだ。生徒を注意、指導するにしても「機嫌良く」行えるかどうかである。(「にこにこ叱る」では決してない。これは全く逆効果よ。)
「勉強をする」は、「勉強が出来る、出来ない」、「良い成績が取れる、取れない」とは全く別次元の話である。アタマが悪くても、勉強が相対的に出来なくても、真に学ぶことは可能である。なぜなら、人そのものを変革するのが本当の勉強で、変わることに能力差は関与しない。
先生が「教授法」」を学んでも、生徒の学習意欲は生じないだろう。先生が、国語でも数学でも英語でも、とにかく本質から勉強をすることである。「進学校だから近年の受験の傾向を知るための勉強をしよう」ではない。これは「研究」や「仕事」であって、決して「勉強」ではない。
勉強とは、真実、その対象に向かうことである。「真実」というのは、対象を内面化するということである。常に基本に立ち返ることである。これがものすごい応用力になって自分自身を変革する。知識の習得だけではないのである。先生がそのように勉強をすれば--内容は自分が教材とするものに関わる方がやりやすいとは思うが--、「勉強をする」ということがどういうことかは必ず子供たちに伝わるだろう。それが子供たちに勉強をすることに向かわせる。間違ってもらっては困るのは、「先生が学んだ事項」が直に子供に伝わるのではないということである。先生が勉強をすることによって、「学ぶとはどういうことであるか」が子供たちに伝わるということだ。知識として知るべきことでも方法でも、先生が同じことを話したとして、ちょっとした言葉の端々に現れ出ることで、伝わるものがあるということである。それは、知識や方法そのものではないのがなんとも言いようがない。ひょっとしたら、優れた先生の授業を参観したときに感じる「どうしても真似が出来ない、自分にはできない」ものが近いのかもしれない。ただのテクニックだったり、言語化できるものではないはずだ。私だってよくわからない。ただ、時間がかかることはあるだろうが生徒が「最も学ぶ」のは、そういうものなのだろうというのは、かなりの確信を持って言う。ただし、証明も検証も不可能である。教員としての直観である。
長々とすみませんでした。
マトリックスについて、藤原さんは「視覚化するとわかりやすい」と言ってました。瞬間、あ、やだなと私は思ったのですが、勝間さんはそれに同意。
「わかりやすさ」は、何かを捨ててるから単純化されてわかりやすくなるわけで、何を捨てるかは、その際に自分にとってどうでもいいもの、扱いにくいもの、都合の悪いものでしょう。必ず「騙し」が入る。プレゼンテーションの手法にこういうのがあるのでしょうか。(きっと、あるのでしょうね。)
説明を聞く側に必要なのは「何が語られなかったか」(養老先生だなぁ)です。たぶん、ここに思考の次元みたいなのが関わって来るのかなと思います。
藤原さんは、教育においてもっとも大事なことを語ってない。また「教えれば学ぶ」という誤解に基づいている。土テラにしても、宿題をしたりするそうですが、答えを大人に聞いて書いてるだけじゃないのかと思ったり。(まあ、しないよりましだろうけど。)
今は、勉強は知識・ハウツーの「張りぼて」だと考えるから、誰も気がつかない。
藤原氏は、今は校長をやめたようですね。同じ区の他の学校でまた校長をするなら認めるけど、彼の「カード」は既に使い果たしたでしょうから出来るわけがない。
勝間さんも同じだけど、仕事が「自分のキャリア」の「ステップ」に過ぎないのです。なーんか、そんなの感覚で教育に携わってもらいたくないよなぁと思いました。子供を「道具」にしているようなものだもの。
私が以前勤めていた学校のすぐ近くにも訪問して、現状視察に勤しんでおられたようです。
このタレント知事、藤原さんの他にも陰山さんとか小河さんとか、マスコミの注目を集めるような人を次々に呼び込んで、教育改革に取り組んでいるようですが、現場にとっては迷惑この上ありません。キャリアアップを目指す人物が次々と乗り込んできて、持論を展開されては、現場に残るのは混乱と疲労感のみです。
ほり先生の仰るように、なぜ「増えているのか」を捉えようとしない、あるいは捉え方が根本的に間違っているのではないかと思います。
「教師が駄目」「テストの結果を公表しないから駄目」「競争を否定するから駄目」という、マスコミ(有権者)受けする論理で動くから、これだけやりましたという実績至上主義に走るのでしょうね。
だから、市町村別の学力テストの成績を公表するなんてことが臆面もなくできるのでしょう。
なんだかコンピューターを使った授業に似てますね。パソコンを使ってるだけで進んでる、質の高い授業と錯覚されるのと同じで。
有名人を起用して、キャリアアップ(知事自身も含む)の踏み台にされた後に、いったい何が残るのか?古巣の将来が案じられてなりません。
おっしゃるとおりだと思います。
>キャリアアップを目指す人物が次々と乗り込んできて、持論を展開されては、現場に残るのは混乱と疲労感のみです。
混乱が一番困りますね。
教育なんて、そんなに変わるものでないのに変えようとするからおかしなことになります。
みんな、もう一度、勉強をし直すと良いかもしれませんね。学び直す。
そうすれば、勉強をすると言うことがどういうことかよくわかるでしょう。