この記事は、政治ネタではありません。(世上とは全く関係ありません。)
みんながみんなそうだとは決して言わないが、良い大学を出た政治家はたくさんいるのに、何だか皆さん、あまりぱっとしなさそうである。ときどき、なんだかとってもアタマが悪そうにさえ見えるのはなぜだろうと思った。
で、わかった。なぜ、アタマが良いはずの彼らがアタマが悪く見えてしまうのかが。
「またか、くどい」と言われそうだが、偏差値55あたりの壁である。
現実としてたぶん、アタマの良い政治家さんたちの政策や政治的な理想など、本来、政治家として行うべき仕事内容を一般庶民は理解しない、というのがその理由である。
ずいぶんと酷いことを書いているが、理由がある。(次の段落がその理由である。)
一般庶民が政治家に期待するのは、「じいちゃん、元気にしているか?」「息子さん、あれこれで良かったね」などの人間的な対話だからである。庶民がコロリと参って票を入れるのは、高邁な理想などではなく、人間味溢れるような「じいちゃん、元気か?」などの言葉だと言う。
↑これ、いつだったか、林真理子氏が文春の連載で書いていた内容である。実際にエッセイで書かれていた言葉そのものは違うと思うが、大方の内容はこんなものではなかったかと思う。 私は、恐ろしく長い間連載し続けている才女の言葉であるからには信憑性があると見て良いと思っている。読者の共感や信頼がなければ連載が長く続くことがないからだ。(これは、私が彼女の言に信憑性を認めるための客観的な裏付け。)私は、林氏の言は、世の中の非常に多くの人たちの、ことのほか流行や(私にはわけのわからないことがある)時代の流れを作る人たちの代弁者だと見なして彼女のエッセイを読む。「へぇ、イマドキの多くの人(特に女性)は、こんな風に考えているんだ。」と、流行に無頓着な者にとって、彼女のエッセイは実に良い学習材料になると思っている。(これは、彼女の言に信憑性を認める私の主観的裏付け。)
(前にも書いたかもしれないが、)大学入試の模試の偏差値55前後の学校の生徒の中には、偏差値が45(←いくつもでいいけどかなり低い数値。いわゆる困難校といわれる学校を含む。)の学校に通う友人がいることがかなりある。しかし、平均偏差値が60を確実に越えるトップ校の学校の生徒に、偏差値45(←いくつでもいいけどかなり低い数値)やそもそも大学入試を受けない高校に友人がいることは、たぶん、滅多にない。(念のために書くが、例外は常に存在する。)
それで、困難校の生徒は、偏差値50~55の学校のことは、「○○校の生徒は、アタマがいい。」など、自分たちと比較して評する。「比較する」のは、「同じ土俵にいる仲間」であることを認めているからできることである。しかし、同じ生徒の口から、偏差値60を遙かに超える学校の名前が出ることはない。なぜなら、偏差値60を遙かに超える学校は、自分たちと同じ土俵にいない、全く埒外の存在であると想定しているからである。おそらく、互いに腹を割っては理解し得ない間柄なのだろう。ゆえに、同じ基準で比較することもない。
大学入試の偏差値55は、世間一般のレベルで言うと、知的能力としてはかなり高い方である。決して「真ん中よりもちょっと上」ではない。(世の中の18才人口の全てが大学入試の模試を受けているわけがない。文理は影響するが、学部学科を選ばなければ国公立大学に合格できるレベルである。)そのレベルの層は、それ以下の層と「同じ仲間」として通じ合う。しかるに、たぶん、彼らよりもずっと遙かにアタマが良い、それこそ、偏差値70を遙かに超え80も越えるレベルになると、庶民の大多数を占める偏差値55以下の、人口比で言うと相当な割合、もの凄い数を占める庶民の思考法、たぶん、思考と感情が一体となって渾然と混ざり合う思考法(と私は解する)を理解し得ない、ということが起こってくるのだろう。
よって、アタマが良い政治家さんの中には、どんなに良い政策や主張があったとしても、また、愚策が何であるかを知っていたとしても、「ホントはこの方が良いのになぁ」「それはいけないよなぁ」と心の中では思えても、それが良い政策であることや、愚行になりかねないことを、一般庶民にわかるように理解させることが全く困難、というか、無理であることが既にわかっていることが多いから、ホントに肝心な大事なことは主張できない、主張しなくなる、ついには思考すらしなくなる人がなかりいるのではないか。
せっかくアタマが良いからこそ思い付くことができる、本当に大切なことであっても口にださないか、思考を停止するか、誰にでも理解できるお茶を濁すような、やってもやらなくても良いようなことやしない方が良いようなことを、まあ、要はつまんないことに置き換えてしまうことになるのではないのか。更にまた、一般庶民が広く普く納得しそうなことに迎合して言う、などの事態が生じることになるのではないか。(全てが全てとも言わないが。)
それで、「じいちゃん、元気か?」などの言葉でせっせと人気を稼ぐほかなくなる。それはそれで高い能力が必要だろうし、また、大いに気も遣うだろうが、票は集まり、高邁な理想や思想は隠れてしまったとしても政治生命?は繋がれる。そのうち、ますます思考停止に陥り、「政治はこんなものだ」ということになったりすることはないのかなぁ。。そんなこんなで、良いアタマもだんだん悪く(見えるように)なる。
いつだったかテレビに出ていた政治家さん(誰だか知らない。)を見ていて、良い大学を出ている、たぶん、知的能力がかなり高いと思われる政治家さんの言葉の端に、上記のような「そんな感じ」をなーんとなく受けたことが私はあったのでした。その時私は、「ああ、気の毒に。この人の主張は一般庶民に理解されないんだなぁ。。可哀想だなぁ。」と思ったのでした。
以上放言。(まあ、実は、以前からちょっと思ってたのだけど。)
みんながみんなそうだとは決して言わないが、良い大学を出た政治家はたくさんいるのに、何だか皆さん、あまりぱっとしなさそうである。ときどき、なんだかとってもアタマが悪そうにさえ見えるのはなぜだろうと思った。
で、わかった。なぜ、アタマが良いはずの彼らがアタマが悪く見えてしまうのかが。
「またか、くどい」と言われそうだが、偏差値55あたりの壁である。
現実としてたぶん、アタマの良い政治家さんたちの政策や政治的な理想など、本来、政治家として行うべき仕事内容を一般庶民は理解しない、というのがその理由である。
ずいぶんと酷いことを書いているが、理由がある。(次の段落がその理由である。)
一般庶民が政治家に期待するのは、「じいちゃん、元気にしているか?」「息子さん、あれこれで良かったね」などの人間的な対話だからである。庶民がコロリと参って票を入れるのは、高邁な理想などではなく、人間味溢れるような「じいちゃん、元気か?」などの言葉だと言う。
↑これ、いつだったか、林真理子氏が文春の連載で書いていた内容である。実際にエッセイで書かれていた言葉そのものは違うと思うが、大方の内容はこんなものではなかったかと思う。 私は、恐ろしく長い間連載し続けている才女の言葉であるからには信憑性があると見て良いと思っている。読者の共感や信頼がなければ連載が長く続くことがないからだ。(これは、私が彼女の言に信憑性を認めるための客観的な裏付け。)私は、林氏の言は、世の中の非常に多くの人たちの、ことのほか流行や(私にはわけのわからないことがある)時代の流れを作る人たちの代弁者だと見なして彼女のエッセイを読む。「へぇ、イマドキの多くの人(特に女性)は、こんな風に考えているんだ。」と、流行に無頓着な者にとって、彼女のエッセイは実に良い学習材料になると思っている。(これは、彼女の言に信憑性を認める私の主観的裏付け。)
(前にも書いたかもしれないが、)大学入試の模試の偏差値55前後の学校の生徒の中には、偏差値が45(←いくつもでいいけどかなり低い数値。いわゆる困難校といわれる学校を含む。)の学校に通う友人がいることがかなりある。しかし、平均偏差値が60を確実に越えるトップ校の学校の生徒に、偏差値45(←いくつでもいいけどかなり低い数値)やそもそも大学入試を受けない高校に友人がいることは、たぶん、滅多にない。(念のために書くが、例外は常に存在する。)
それで、困難校の生徒は、偏差値50~55の学校のことは、「○○校の生徒は、アタマがいい。」など、自分たちと比較して評する。「比較する」のは、「同じ土俵にいる仲間」であることを認めているからできることである。しかし、同じ生徒の口から、偏差値60を遙かに超える学校の名前が出ることはない。なぜなら、偏差値60を遙かに超える学校は、自分たちと同じ土俵にいない、全く埒外の存在であると想定しているからである。おそらく、互いに腹を割っては理解し得ない間柄なのだろう。ゆえに、同じ基準で比較することもない。
大学入試の偏差値55は、世間一般のレベルで言うと、知的能力としてはかなり高い方である。決して「真ん中よりもちょっと上」ではない。(世の中の18才人口の全てが大学入試の模試を受けているわけがない。文理は影響するが、学部学科を選ばなければ国公立大学に合格できるレベルである。)そのレベルの層は、それ以下の層と「同じ仲間」として通じ合う。しかるに、たぶん、彼らよりもずっと遙かにアタマが良い、それこそ、偏差値70を遙かに超え80も越えるレベルになると、庶民の大多数を占める偏差値55以下の、人口比で言うと相当な割合、もの凄い数を占める庶民の思考法、たぶん、思考と感情が一体となって渾然と混ざり合う思考法(と私は解する)を理解し得ない、ということが起こってくるのだろう。
よって、アタマが良い政治家さんの中には、どんなに良い政策や主張があったとしても、また、愚策が何であるかを知っていたとしても、「ホントはこの方が良いのになぁ」「それはいけないよなぁ」と心の中では思えても、それが良い政策であることや、愚行になりかねないことを、一般庶民にわかるように理解させることが全く困難、というか、無理であることが既にわかっていることが多いから、ホントに肝心な大事なことは主張できない、主張しなくなる、ついには思考すらしなくなる人がなかりいるのではないか。
せっかくアタマが良いからこそ思い付くことができる、本当に大切なことであっても口にださないか、思考を停止するか、誰にでも理解できるお茶を濁すような、やってもやらなくても良いようなことやしない方が良いようなことを、まあ、要はつまんないことに置き換えてしまうことになるのではないのか。更にまた、一般庶民が広く普く納得しそうなことに迎合して言う、などの事態が生じることになるのではないか。(全てが全てとも言わないが。)
それで、「じいちゃん、元気か?」などの言葉でせっせと人気を稼ぐほかなくなる。それはそれで高い能力が必要だろうし、また、大いに気も遣うだろうが、票は集まり、高邁な理想や思想は隠れてしまったとしても政治生命?は繋がれる。そのうち、ますます思考停止に陥り、「政治はこんなものだ」ということになったりすることはないのかなぁ。。そんなこんなで、良いアタマもだんだん悪く(見えるように)なる。
いつだったかテレビに出ていた政治家さん(誰だか知らない。)を見ていて、良い大学を出ている、たぶん、知的能力がかなり高いと思われる政治家さんの言葉の端に、上記のような「そんな感じ」をなーんとなく受けたことが私はあったのでした。その時私は、「ああ、気の毒に。この人の主張は一般庶民に理解されないんだなぁ。。可哀想だなぁ。」と思ったのでした。
以上放言。(まあ、実は、以前からちょっと思ってたのだけど。)
ネットで明日の天気予報を見ようと思って来たら。。。(皆既日食が目的じゃない私。)
タレント議員が流行るはずです。売名大きいけど、庶民の気持ちがわかるから。
東大出の政治家の割合って、減ってないのかなぁ??
親父さんや爺さんは東大でも孫は東大じゃないことも多いんじゃないのかな。御曹司であっても、80レベルではないのかもしれない。
今すでに、ほとんどが「抽選」レベルじゃないのかなぁ?(わからんけど。)
>そそ、ブログを再開しましたぁ~♪
おめでとございます~♪
うん♪
ぼくの偏差値は30以下でっす♪
きっと、たぶん・・・うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっと。
でぇ~、○○党はいいかげんに/そろそろ「連帯」って改名すれば良いと思いまっす♪
そそ、ブログを再開しましたぁ~♪
しっつれいしましたぁ~