けろろの「浜あるき・野良あるき」

漁あるところ、農あるところへ、風土のにおいに誘われて、いそいそ出かけています

被災地のご報告

2011-04-11 02:18:22 | 浜あるき
3月28日から4月1日まで、震災の被災地に行って参りました。
RQ市民災害救援センターのボランティアです。
同センターでは現在、後方支援の東京本部のほか、宮城県登米市に東北本部を置き、全国から集まった救援物資を、女川以北、大船渡以南の小さな避難所や個人宅を中心に届けています。現地では常時80人以上のボランティアが参加。生活面で自立することを大前提に、事故や二次災害について自己責任の範囲で動いています。
震災後1か月になる今、物資のお届けだけでなく、片付けのお手伝い、心のケアなどに活動を広げ、よりきめ細かい支援ができるよう、拠点基地を増やす計画。すでに、唐桑半島と北上川河口域に拠点が開設され、活動を始めています。
義援金(被災地向け)および支援金(ボランティア活動向け)大歓迎、ボランティアの受付も行っています。
詳細はHPをご覧下さい。 http://www.rq-center.net/

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実際に現地に行って、この目で見た被災地は、テレビや新聞で見ていたものとはまったく異質。圧倒的なリアリティーで目と心にぐいぐい迫ってきて、押しつぶされそうでした。
すべてを失った家と、何事もなかった家が隣り合っている、津波とはそういう災害だと、初めて思い知りました。
地震被害はさほどありません。なので、津波におそわれなかった場所には、ごく普通の町並みがあり、普通の生活が営まれています。

本当に、「海辺の災害」だったのだと痛感しました。
小さな漁村で出会ったひとりの漁師さんがボソッと、「被害がなかった街中に『がんばれ東北』なんて看板が出ているけれど、そんなの意味がない」と、いっていました。「東北ではなく、沿岸なんだ」、といいたいのだと思います。

支援の求められ方は、集落によって、被災の度合い、地域事情によっても、千差万別です。
ある避難所では、「物資はいただくが、よそ者を受け入れにくい土地柄なので、片付けなどのボランティアはお気持ちだけで」と、いわれました。
また、ボランティアをかたるサギなどの噂は、どの集落でも耳にしました。
直接被災はしていないけれど、被災した親戚を100人近く受け入れている集落では、救援物資の分配方法で苦労したそうです。流通がストップして生活必需品に不自由していても、被災していない家では、救援物資を受け取ることを遠慮する気持ちがあると聞きました。

支援のためには、地域理解が必須。しかし短いお付き合いでは難しいことです。誠心誠意で接し、想像力をどれだけ働かせることができるのか…、気の張る仕事だと感じました。

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宮城県気仙沼市唐桑半島の、小さな漁村の避難所には、漁業者のネットワークから寄せられた長靴と厚手の作業手袋を届けました。
受け取ってくれたのはみな漁家ですが、家も船もすべて流されたそうです。
お会いした漁師のおかみさんは、おどけて手袋をつけ「写真、撮ってね」と笑顔でした。
しかし…。「こうやって、カラ元気出してないとね~。ひとりになると泣いちゃってダメなのよ」と、話す途中から涙声でした。自分が母親を連れて逃げるのに精一杯で、お隣の家に声をかけられなかったことを、心底つらそうに悔やんでいらっしゃいました。

長靴と手袋は、片付け作業に真っ先に必要だったもの。これから欲しいものは、カッパ(とくに漁業者用の)、作業着、ツナギ(服の上に着るのでL、LL)、だそうです。
片付けのための資材なら、何でもほしいという段階です。
男性陣は、浜辺の片付けも始めているようでした。
しかし、入り組んだ細い湾には、押し流された家の屋根が浮き、気仙沼港から流れてきた黒こげの大型船が、潮の満ち引きに合わせて漂っています。「船も碇もないので、もやいに行くこともできない」と、漁師さん。そんな現状です。

 

同じ唐桑半島の、カキ養殖の後継者の方は、「復興にはまず、船と船外機が必要だ」と、話していました。しかし、稚ガキの産地だった石巻が壊滅状態。種苗が入手できなくては、漁業再開の目途はしばらく立たないと、考え込んでいました。海の環境が変ってしまっていることにも、不安を隠せない様子でした。
この方は、この日(3月30日)の昼、自宅に発電機が入り初めてテレビを見たそうです。
「新聞をもらって写真は見ていたけれど、動画の迫力は全然違った。改めて被害のすごさ大きさを見せつけられて、落ち込んだ」と、午後は元気がなかったです。
しかし地域漁業復興のキーマンとして、翌日には再び元気に動き回っていると聞きました。

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救援物資をお届けし、ニーズのお話を聞くことでRQとの間に信頼関係が生まれている、宮城県志津川市のある集落には、デリバリー班のボランティアと一緒にお訪ねしました。
99%漁業が生業だという60戸ほどのこの集落、海辺の道路が落ちて3日間外との連絡が取れなかったそうです。ほぼ全戸が津波におそわれ、2割ほどで2階部分が残っています。

区長代理の61歳の漁師さんが、お話を聞かせてくれました。
じつは、わたしたちがお伺いしたちょうどその時、行方のわからなかった区長さんががれきの下から見つかりました。とてもお話をお聞きできる状況ではないと、物資をお届けしただけで帰ろうとしたら、「警察と自衛隊が来るまでに時間がある、話を聞いていってほしい。被災の現状を知ってほしい」と、引き止められました。

震災後、孤立した3日間は、集落全部の食糧、米と燃料を1か所に集め、海水をかぶった米は井戸水で洗って干し、ちょうど収穫期だった養殖ワカメのみそ汁とで、集落の200人が食いつないだそうです。ものすごい団結力です。
高台の小さな一軒家の集落センターに、今でも100人が寝泊りし、集落200人分の炊き出しをしています。
「インスタント食品では体をこわすから、できるだけちゃんと調理したもの、野菜を出そう」と、がんばっていました。この非常時に、食に対するこの精神は、すごいと思います。

小さな家に100人では、足を伸ばして寝ることができません。お年寄りが少しでも休めるように、60歳以下の若手は夜中まで外のドラム缶の焚き火を囲んで過ごすそうです。
海外からのボランティアが、寝場所用にビニールハウスを建てている最中で、皆さんうれしそうでした。寝る場所の次は、「トイレがほしい」とおっしゃっていました。

「市行政は遠くの大きな避難所に移ることをすすめるが、誰もこの集落を離れたいとは思っていない。NPOに頼んで重機を借りてきて、自分たちで片付けを始めている」と、いいます。それも、各戸がばらばらにではなく、集落全体で計画的に進めているそうです。
しかし、まだ3人の方が行方不明。「見つけてあげるまでは気持ちが落ち着かない」と、言葉をつまらせていました。

集落の生業である漁業については、「まったく先行きが見えない」と、表情が暗かったです。
「震災後、だれひとり海辺に行こうとしない。一度行ってみたけれど、首の後ろと背中がザラザラするような、気味の悪い感じがしてすぐ戻った」と、話していました。
多くのいのちが海の中にさらわれ、いまだに行方不明のままの状態が続くためです。

今はとにかく、ここの生活を維持するのに手一杯だと、最後におっしゃっていましたが、復旧、復興は、日々驚くほど目覚しく進んでいます。次にお訪ねしたら、また違ったお話、先行きの光のお話があるかもしれないと思っています。

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今回、お話を聞くことがいいことなのかどうか、支援につながる行為になるのかどうか、ずいぶん迷いました。「ご家族は?」などと、とてもこちらからは聞けない現状です。
話すことで現状の厳しさを再認識させ、つらい思いをさせてしまうこともあります。
聞かせていただいた方に責任を負えるのか、また、正しく伝えるとはどういうことなのかという、なかなか答えの出ない悩みもあります。
しかし多くの方が「見てほしい、聞いてほしい」と、積極的に話して下さいました。

最終日に通りがかった大船渡の高台にある土産物店の駐車場で、漁師さんたちが、カキ焼きの鉄板で「復興焼きそば」を焼き、300円で売っていました(美味かったです)。
「何かやってないと、おかしくなっちゃうよ~」と、みんなが笑っていました。そして「写真撮って、ブログとかで多くのひとにがんばっているって伝えてよ」と頼まれました。
高台から見下ろす大船渡魚市場の屋上には、大きな大漁旗が、海風にへんぽんと翻っていました。復興への強い意志を感じました。



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わたし(たち)には、どんな支援ができるのでしょうか。善意の押しつけに陥ることなく、本当に必要とされる支援をするには、どうしたらいいのでしょう。一緒に悩みながら、手探りしながらですね。
それとは別に。これまで「海は楽しい、海に行こう」といい続けてきたわたし(たち)にとって、ひとと海との関係を見つめなおし、つなぎなおすことも、大きな課題だと思わざるをえませんでした。
海に寄り添って暮らしてきた現地の漁師さんたちの声に時間をかけて耳を傾けつつ、自分自身の心の奥ものぞいて、もう一度「海に行こう!」とキッパリといえる日に向けて。

長文、読んでくださった方、ありがとうございました。