山内 圭のブログ(Kiyoshi Yamauchi's Blog)

英語教育、国際姉妹都市交流、ジョン・スタインベック、時事英語などの研究から趣味や日常の話題までいろいろと書き綴ります。

国葬について(ジョーゼフ・キャンベル著『生きるよすがとしての神話』から)

2022-09-27 20:00:33 | 日記
ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell著『キャンベル選集Ⅱ 生きるよすがとしての神話』(Myths to Live by)(角川書店, 1996)( 飛田茂雄・古川奈々子・武舎るみ訳)第三章「儀式の重要性」より国葬についての一節を引用します。

 ではここで、社会にとって儀式がいかに重要であるかを示すために、ケネディ大統領暗殺後、首都ワシントンで厳粛に執り行われた国葬について触れましょう。あの葬儀は、社会にとってどうしても必要な儀式でした。あのおかげで、国家全体がひとつになって、ショッキングな大統領暗殺の苦しみに耐えることができたのです。大統領を失ったことで、全国民が一様に大きな衝撃を受けました。政治的には、意見の相違や感情の行き違いがあったかもしれないが、あの偉大なる若き政治家は私たちの社会全体を代表していました。ケネディ大統領は、アメリカ国民を包含する生きた社会有機体の代表者でしたが、政治家としての絶頂期に、活力に満ちあふれた人生最高の瞬間に、突然の死によって連れ去られてしまったのです。あとには惨憺たる無秩序だけが残った。このような悲惨な状況から脱するためには、国家としての連帯意識を再構築するための償いの儀式がどうしても必要でした。これは国民に向けた儀式だというだけでなく、近代文明国家としてのわが国の威厳と品位を示すために世界に向けた声明としての働きも担っていました。あの緊迫した時期に、当時のラジオやテレビ局はすばらしい働きをしてくれた、と私は考えています。これは、大統領の葬儀が自然に生み出した「生きた」側面のひとつです。というのは、テレビやラジオのおかげで、この巨大な国家の全国民の心が、四日間の葬儀期間中ひとつに結ばれ、同じように、しかも同時に、ひとつの象徴的な行事に参加することができたからです。(p.62)







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