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建国記念の日

2014年02月12日 16時28分10秒 | 伝承・伝説


建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、
日本の国民の祝日の一つで、日本の建国記念日。
日付は2月11日。

概説
国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、
建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定されております。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用されました。

他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、本日のみが「政令で定める日」と定められております。(経緯は#沿革を参照)。
この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」としました。
2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じです。
紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来します

当日は、各地の神社仏閣にて「建国祭」などの祭りが執り行われます。

沿革
紀元節」
「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつての祝祭日のひとつ、紀元節でした。
紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇即位の日として、1872年(明治5年)に制定された。この祝祭日は、1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日に関する法律附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止されております。

紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対した為、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となりました。

その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立しました。

同改正法では、「建国記念の日政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行されました。

建国記念日審議会
総理府の附属機関として1966年(昭和41年)7月11日発足、同年12月15日限り廃止(委員定数10人以内)
同年7月28日から12月8日まで計9回の会議を開催し、12月9日付けで内閣総理大臣宛て「二月十一日」とする答申(個別意見付記)
第5回会議は「建国記念の日に関する公聴会」として同年10月24日、仙台、東京、大阪、広島で同時開催(委員2人ずつ参加) 内閣総理大臣からの諮問に対する答申(昭和41年12月28日付け官報資料版No.453掲載)には、会長・会長代理の職に関係なく委員が五十音順で個別意見を記載

委員
菅原通濟(会長。全回出席。2月11日)
吉村正(会長代理。全回出席。2月11日)
阿部源一(第5回会議のみ欠席。祝日化は望ましくない。強いて挙げるなら1月1日が無難)
大宅壯一(第2回会議のみ出席。最終の第9回会議直前に辞任のため答申に個別意見記載なし)
奥田東(全回出席。立春の日。人間社会でなく国土に重きをおくべき)
桶谷繁雄(第1回会議のみ欠席。2月11日)
榊原仟(全回出席。2月11日)
田邊繁子(第6回会議のみ欠席。2月11日)
舟橋聖一(全回出席。2月11日。政府の行事としないことが条件)
松下正壽(第1・2・6回会議のみ欠席。2月11日)

建国記念の日に関する世論調査
建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が実施。昭和41年11月30日付け官報資料版No.449掲載
各党案(自民党:2月11日、社会党:5月3日、公明党:4月28日、民社党:4月3日)等を選択肢に加える。
同年9月29日から10月6日まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票8,700)、社団法人中央調査社の調査員による面接聴取。
同年11月4日の第6回会議に報告。
1.2月11日(もとの紀元節の日):47.4%(4,124)
2.いつでもよい:12.1%(1,053)
3.5月3日(憲法記念日):10.4%(909)
4.わからない:7.5%(651)
5.4月3日(聖徳太子の十七条憲法発布の日):6.1%(529)
6.4月28日(講和条約発効の日):5.8%(507)
7.特定の日ではなく、季節、月などを回答した者(春、秋、4月、9月など):3.1%(271)
8.質問の趣旨にそわない回答をした者(「建国記念の日を設けることに反対」など):2.1%(186)
9.8月15日:2.1%(183)
10.その他の日(旧正月、4月1日、11月3日、その他):1.4%(124)
11.元日:1.3%(109)
12.立春の日:0.5%(43)
13.もとの元始祭の日:0.1%(11)

論争
1950年代半ばから「建国記念日」に関する議論が続く中、史学会(歴史学の学会)で、三笠宮崇仁親王(学会員)は、同会理事長の坂本太郎に対し、「建国記念日」の制定に反対する決議を行うべきであると迫った。しかし、坂本は「史学会は学術団体であり政治的決議をするのは馴染まない」として応じなかった。この処置に憤慨した三笠宮は、総会を退席して「理事長独裁を批判する」とのコメントを出した。
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紀元節
紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。
紀元節の制定まで
8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となります。

辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮

? 『日本書紀』卷第三、神武紀

しかし、明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。この1月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付です。折柄、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっておりました。

(式年祭・旬祭)
紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。

目次
1 紀元節の制定まで
2 制定後から「建国記念の日」に変わるまで
3 紀元節祭
4 唱歌「紀元節」
5 諸説
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目


紀元節の制定まで
8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。

辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮

? 『日本書紀』卷第三、神武紀

しかし、明治5年11月15日(1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。この1月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。

今般太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[2]参朝可憚事

? 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)、
第一月廿九日 神武天皇御即位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事

? 「神武天皇御即位祝日例年御祭典」(明治5年太政官布告第344号)

1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。なお、同年1月には、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。

神武天皇御即位日紀元節ト被稱候事

? 「神武天皇御即位日紀元節ト稱セラル」(明治6年太政官布告第91号)

今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事

? 「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第1号)

ところで、これらの太政官布告に先立って、明治5年11月9日(1872年12月9日)に出されていた太陽暦を施行する旨の太政官布告では、祭典等の日付は、旧暦の月日を新暦の月日として施行するものと定めていた(明治5年太政官布告第337号)。

(略)
一 諸祭典等舊?月日ヲ新?月日ニ相當シ施行可致事
(略)

? 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)抜粋

これは、祭典の執行日を新暦で固定し、毎年旧暦の月日から新暦の月日に換算する煩雑さを避けるための規定である。例えば、例年1月1日に新年を祝って行われる歳旦祭は、旧暦1月1日の新暦相当日ではなく新暦1月1日に行うということになる。

この規定の影響などもあって、紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。

そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。

年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候條此旨布告候事
(略)
孝明天皇祭 一月三十日
紀元節 二月十一日
神武天皇祭 四月三日
(略)

? 「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)

2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

干支紀年法は後漢に三統暦の超辰法を廃止して以降は木星と関係なく60の周期で単純に繰り返すようになった。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。また、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日[5]は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。

制定後から「建国記念の日」に変わるまで

紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。

第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論[6]あるなか数度の廃案と再提案を経て、1966年(昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。

紀元節祭
紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。

紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿において行われるようになった。皇室祭祀令によれば大祭とされ、御親祭(天皇が自ら行う祭祀)が行われた。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。伊勢神宮、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。

1947年(昭和22年)の皇室祭祀令廃止および1948年(昭和23年)の祝祭日廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、宮中祭祀において紀元節祭は行われなくなった[7]。しかし、昭和天皇も今上天皇も、2月11日には宮中三殿で臨時御拝を行い、橿原神宮へ勅使が派遣されている[1]。また、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。

民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。

唱歌「紀元節」[編集]
高崎正風作詞、伊沢修二作曲の唱歌「紀元節」が1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。

一、雲にそびゆるちほのねおろしに艸も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎのみくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

? 紀元節 高崎正風

諸説[編集]
紀元節の2月11日という日付の由来については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、延喜式神名帳筆頭にある宮中内の座神「韓神社」の祭りを、建武2年2月11日に後醍醐天皇が執り行ったことに由来するとする説がある。[8]

脚注

1.^ 四大節は、旧制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、四方節(1月1日)、天長節、明治節を指す。
2.^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
3.^ 内閣官報局編『法令全書』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
4.^ この不都合を回避するため、1873年(明治6年)の「孝明天皇御例祭」(孝明天皇の命日の祭祀)は、1月23日と定められた。
5.^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。
6.^ たとえば、三笠宮崇仁親王は、科学的根拠に欠けると歴史学者としての立場から復活に批判的であった。
7.^ 2月11日は、1967年(昭和42年)に「建国記念の日」として祝日となったが、宮中祭祀は行われていない(参照:主要祭儀一覧、宮内庁。)。皇室祭祀令が規定する毎年大祭の中で唯一、紀元節祭だけが行われていない。
8.^ 林青梧 『「「日本書紀」の暗号―真相の古代史」』 講談社、日本、1990年。ISBN 4062049635。

参考文献[編集]
日本文化研究会 『神武天皇紀元論・紀元節の正しい見方』 立花書房、1958年(昭和33年)3月。

関連項目[編集]
神武天皇即位紀元
グレゴリオ暦
建国は神話の中に

建国記念の日は特別な行事は特にありません。ですので、この休日に日本の歴史を勉強してみることも面白いかもしれません。
日本書記では、日本国を統一したカムヤマトイワレビコノミコトとは、初代天皇になった神武天皇であると書かれています。イワレビノミコト(神武天皇?)は、現在の建国記念の日にあたる、辛酉元旦(現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)に、大和の橿原〔かしはら〕の宮で即位したとされ、そこから2月11日を「建国記念の日」に定めたという説もあります。しかし、歴史学上では神武天皇は実在の人物ではなく「神話」として位置づけられているようです。

■参考文献・ウェブサイト
子どもに伝えたい年中行事・...萌文書林編集部 萌文書林 1998
年中行事・儀礼事典東京美術選書川口謙二 池田孝 池田政弘 東京美術 1997
祝祭日の研究―「祝い」を忘...角川oneテーマ21産経新聞取材班 角川書店 2001

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