きよちゃんの趣味悠々

四季折々の「風情」(花・風景・イベントなど)を写真中心に紹介します !!

野鳥・・・「モズ」(メス) !!

2009-03-07 05:32:56 | Weblog
「モズ」(Lanius bucephalus)については昨年の12月26日頃?「オス」のモズをUPしましたが、ここでは3月2日の「北本自然観察公園」から小枝などにとまって「キーキーキー」と鋭い声で鳴きながら、他の小鳥などを「縄張り」から追い払っているモズ(メス)をUPします。

オスの「モズ」は太く黒い過眼線と淡色の眉斑があり、頭部は赤褐色で背中は青灰色、下面は脇が橙褐色で中央は色が淡く、翼には小さな白斑があります・・・これに比較してメスの「モズ」は赤褐色のボンヤリした色で、下面には細かい波模様がある鳥です。

「モズ」のオス・メスは、昨年12月26日頃?UPした「モズ」(オス)と今回UPの「モズ」(メス)の画像を比較してみると良くわかります。

今回は3月2日の「北本自然観察公園」から小枝などにとまって「キーキーキー」と鋭い声で鳴きながら、他の小鳥などを「縄張り」から追い払っているモズ(メス)をUP・・・





3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)①


3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)②


3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)③


3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)④


3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)⑤


3月2日の「北本自然観察公園」が「モズ」(メス)⑥

「九州」周遊(5)・・・「篤姫」ゆかりの地?「今和泉」 !!

2009-03-06 05:48:23 | Weblog
「九州」周遊の最終回、薩摩が生んだ幕末の才女?と言われる「天璋院篤姫」は鹿児島県薩摩半島(指宿枕崎線の「薩摩今和泉」?)で、錦江湾の奥には「桜島」が見える場所で「誕生」したと言われ、ここには「篤姫」に係わるいろいろなものがあります。
今回は「篤姫ゆかりの地」とされる指宿市「今和泉地区」を散策したので、この地の歴史・風情などをUPします。

「篤姫」が誕生した今和泉島津家の別邸(今和泉領主仮屋)は、今和泉島津家・初代「島津忠郷」が宝暦4年(1754)に建てたようですが、この「建物」は現在は残っておらず「今和泉小学校」となっており、小学校の海岸側に当時の「石垣」や「松林」(隼人松原?)、そして小学校の校庭には「井戸」と篤姫も使ったとされる「手水鉢」が残されています。

その他「今和泉地区」には当時を忍ばせる今和泉島津家の「墓地」や「神社」が残っていますが、それらの中から以下のものをUP・・・

画像①(篤姫・誕生の地)・・・現在の今泉小学校の裏(海岸側)で「今和泉島津屋敷跡」
画像②(石垣)・・・今和泉島津屋敷跡の「石垣」
画像③(井戸)・・・今和泉島津屋敷跡(現在の今和泉小学校「校庭」)にある「井戸」
画像④(手水鉢)・・・篤姫も使ったとされる「手水鉢」
画像⑤(今和泉島津家の墓地)・・・この今和泉島津家の墓地には、初代「忠郷」から「忠温」、「忠厚」、「忠喬」、「忠剛」(篤姫の父)、「忠冬」(篤姫の兄)など6代の殿様と奥方などが埋葬されていて、14基の墓石と約100の灯籠があります。
画像⑥(光台寺参道跡)・・・今和泉島津家の「菩提寺」である「光台寺」は、宝暦7年(1757)に創建され、代々大切にされたようですが、明治2年の「廃仏毀釈」によって壊され、今は当時の参道横に放置された「五輪塔」の一部が残っています。




天璋院篤姫「ゆかりの地」(海岸側)①


天璋院篤姫「ゆかりの地」(石垣と松原)②


天璋院篤姫「ゆかりの地」(井戸)③


天璋院篤姫「ゆかりの地」(手水鉢)④


天璋院篤姫「ゆかりの地」(今和泉島津家墓地)⑤


天璋院篤姫「ゆかりの地」(光台寺参道跡)⑥

「九州」周遊(4)・・・薩摩の小京都?知覧の「庭園」 !!

2009-03-04 08:12:07 | Weblog
九州周遊の第四弾、「薩摩の小京都」?と言われる知覧「武家屋敷」群から幾つかの「庭園」を、「九州」周遊(4)薩摩の小京都?知覧の「庭園」としてUPします。

江戸時代に「薩摩藩」は領地を「外城」と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である「御仮屋」を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に「武士団」を結集することなく分散して統治にあたらせました・・・知覧武家屋敷もその「外城」の一つとなっていました。

この知覧「武家屋敷」は薩摩「麓」の典型的な作例の一つで、折れ曲がった「木馬場通り」に沿って連なる石垣と生垣からなる景観にも優れ、昭和56年に国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定され、武家屋敷「庭園」の七つが「名勝」に指定されています・・・これらの庭園はほとんど(六庭園は)「枯山水式」となっており、一庭園(森重堅氏の庭園)のみが「池泉式」の「庭園」となっています。

また、この「知覧」は太平洋戦争時代の本州最南端となる「知覧飛行場」があり、陸軍の「特攻隊員」1035名が飛び立っていき帰らぬ人となった場所です・・・ここには「知覧・特攻平和会館」が設置され、当時の特攻隊員「遺品」「記録」など貴重な資料が保存・展示されています。

今回はこんな「知覧」から武家屋敷の「庭園」(名勝)を、「九州」周遊(4)薩摩の小京都?知覧の「庭園」としてUP・・・





知覧「武家屋敷」の木馬通り(石垣や生垣など)①


知覧「武家屋敷」の「庭園」(枯山水式)②


知覧「武家屋敷」の「庭園」(枯山水式)③


知覧「武家屋敷」の「庭園」(枯山水式)④


知覧「武家屋敷」の「庭園」(池泉式)⑤


知覧「武家屋敷」の「庭園」(枯山水式)⑥

「九州」周遊(3)・・・名勝「仙厳園」 !!

2009-03-03 13:05:36 | Weblog
九州周遊の第三弾、鹿児島県にある「近代日本発祥の地」として知られる島津家別邸(名勝「仙厳園」)の中から幾つかを、「九州」周遊(3)名勝「仙厳園」としてUPします。

「仙厳園」は、島津家の長い歴史の重要な舞台として歴代藩主に愛され受け継がれてきたもので、別名を「磯庭園」とも言うようです・・・この「仙厳園」は万治元年(1658)19代藩主「島津光久」が別邸として構えたもので、その後、歴代藩主によって受け継がれ、21代「島津吉貴」は隠居後「仙厳園」に居住し、磯奉行をおいて園内の整備に努め、27代「島津斉興」の時には庭拡張が行われ、また、28代「島津斉彬」(「篤姫」(天璋院)の養父?)は隣接地に「集成館」を築くなど、島津家の長い歴史の中でも重要な意味を持つ場所となっています・・・さらに、明治時代には29代「島津忠義」や30代「島津忠重」らが暮らしたこともある由緒ある庭園です。

また、「仙厳園」は50000平方メートルにもおよぶ広大な敷地から眺める「桜島」の美しさは素晴らしく、昭和33年には国の「名勝」に指定されています・・・庭園の中心にある「磯御殿」は、明治17年(1884)に大規模な改築が行われ、明治21年から10年間あまり29代藩主「島津忠義」が本邸として使用したようです。

こんな「仙厳園」の中から、以下のものをUPします。
正門・・・「忠義」が1885年に建て、島津家の「家紋」が彫り込まれている。
錫門・・・「錫」で瓦を葺いた朱塗りの門(仙厳園築庭当時の正門です)。
鶴灯籠・・・「斉彬」が御殿からガス管を引いてガスの実験をおこなったとか?。
磯御殿・・・歴代藩主が愛した「仙厳園」中心の建物(御殿)。
望嶽楼・・・19代「光久」の時に「琉球国王」から贈られたもの。
江南竹林・・・21代「吉貴」が中国から取り寄せた「孟宗竹」で、ここから「孟宗竹」が日本各地へ広まったようです。




名勝「仙厳園」の正門


名勝「仙厳園」の錫門


名勝「仙厳園」の鶴灯籠


名勝「仙厳園」の磯御殿


名勝「仙厳園」の望嶽楼


名勝「仙厳園」の江南竹林

「九州」周遊(2)・・・高千穂峡 !!

2009-03-02 06:16:36 | Weblog
前回に引き続き「九州・周遊」(2月24日~27日)の中から名所?の紹介をしますが、ここでは宮崎県高千穂町にあるV字型渓谷「高千穂峡」を「九州」周遊(2)高千穂峡としてUPします。

宮崎県高千穂町は古くからたくさんの「神話」や「伝説」の残っている町として知られ、なかでも重要無形文化財に指定されている「夜神楽」が有名です・・・また、高千穂町には五ヶ瀬川が「阿蘇溶岩」を浸食して生まれたV字型渓谷「高千穂峡」があり、ここでは日本100選の滝となっている「真名井の滝」が素晴らしい景観を作っています。

「高千穂峡」はV字型渓谷を流れる青緑色の川(この時期は雨量が多く川は濁り気味だったのが残念・・・)で、「柱状節理」の岩肌とそれらを覆う木々、そして17mの高さから流れ落ちる「真名井の滝」は、まるで山水画のような美しさを見せてくれます。

今回は宮崎県高千穂町にある五ヶ瀬川が阿蘇溶岩を浸食して造ったV字型渓谷「高千穂峡」を、「九州」周遊(2)高千穂峡としてUP・・・





宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」①


宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」②


宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」③


宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」④


宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」⑤


宮崎県・五ヶ瀬川のV字型渓谷「高千穂峡」⑥

「九州」周遊(1)・・・熊本城 !!

2009-03-01 06:22:34 | Weblog
「早春の情報?」に誘われて2月24日~27日(3泊4日?)、「九州」の一部(熊本県・宮崎県・鹿児島県など)を周遊してきた・・・この中から幾つかの名所(観光地?)をシリーズで紹介します。

53万石の城下町「熊本」のシンボル?で日本三名城の一つに数えられている「熊本城」・・・中世すでにこの場所(茶臼山?)は「千葉城」と「隈本城」があり、出田氏・鹿子木氏・佐々氏など歴代城主を替えた後、1588(天正16年)に「加藤清正」公を迎えました・・・その後「加藤清正」公が7年をかけて「熊本城」を築城(1607(慶長12)?)したようです。

また、「熊本城」の城郭・周囲は5.3Km、面積98万平方メートルあり、城内には大天守と小天守の他、49の櫓・19の櫓門・29の城門(その他の門?)と堂々たる威容を誇り、加藤家の改易後は約240年間にわたって細川家の居城となっていました・・・その後、時を経て「西南戦争」(1877)で天守閣などが焼失したものの、52日間の籠城に耐え「難攻不落」の頑固な造りを天下に知らしめた「城」として有名になりました。

その後、1955(昭和30年)に熊本城跡が国の「特別史跡」に指定され、1960(昭和35年)には大・小天守閣の外観が復元、平成20年・春には本丸御殿の落成で復元整備も一区切りつき現在に至っているようです。

今回は九州・一部周遊の中から「熊本城」を、「九州」周遊(1)熊本城としてUPします。




「熊本城」①


「熊本城」②


「熊本城」③


「熊本城」④


「熊本城」⑤


「熊本城」⑥