私が好きで応援して居る青木志貴ちゃんです。彼女は声優さんで、モデルで、YouTuberです。
今のコロナの状態を予言して居た、日米英チリなどの俳優が出演した角川春樹制作。名匠・深作欣二監督作品。「復活の日」 小松左京の脚本はまるで今のコロナの事を予言して居るか如きだ!!この作品は1980年初頭にアメリカでも公開された。。。
前野曜子 ユー・アー・ラヴ(”復活の日”のテーマ)
「バカものの話」
会社に居た小学校しか行って居ない男が言って居た。「昨日、「フーテンの寅」のお寺を見に行って来た。寺の住職に会ったんだ!!。」私は何を言って居るのか全然話が読めない。寺の住職?「フーテンの寅」に出て来るお寺を見に行ったんだろう?。だけども寺の住職は映画では笠智衆のはずだ???よしんば本当の住職に会ったとして。それが「フーテンの寅」と何の関わり合いがある。そして言うのだ「〇〇ちゃ〜ん。寅や〜〜と呼んで見ろや。そのドアから寅が入って来るぞ〜〜!!」言って置くが私は「フーテンの寅」が嫌いだ。あの映画での渥美清の演技はいいとは言え無い、、何だか台詞も幼稚だ。「数字の始まり1、2、3、英語の始まりA、B、C!!」そう言いながらバナナの叩き売りをする。まあ、寅は学が無い貧しいものに取ってはヒーローなのだろう。
私は、だが山田洋次が撮る映画は好きだ。「息子」「遙かなる山の呼び声」「学校」どれも弱者を見つめた秀作だ。この3作品は私はたまにDVDで見返して居るほどだ。人生の優しさ儚さが伝わって来て。見て居て心にじーんと来るものがある。山田洋次はいい監督さんだ。しかしそう言った映画はこの小学校しか行って居ない男には関係が無いのだ。あくまでも「フーテンの寅」だけが好きなのだ、私はうんざりだった。渥美清が昭和30年代に出たテレビドラマで「泣いてたまるか」と言うドラマがあった。実はこのドラマが「フーテンの寅」の原型になって居る。このテレビ・ドラマでの渥美清は良かった。演技が光って居た。それが映画の「フーテンの寅」になってから、情緒が無くなり知能が低い観客向けの映画となった。私の尊敬して居る押井守監督は『「男はつらいよ/フーテンの寅」は撲滅すべき映画だ』と昔から言って居た。私は何も「フーテンの寅」と言う映画が言って居る義理人情だとか。人に対する思いやりをダメだと言いたいのでは無い。それを観て喜んで居る学が無い観客が嫌なのだ..。
所詮小学校も、まともに行ってない様な御仁は「フーテンの寅」の幼稚な処しか解らないし。そこしか観ては居ないのだろう。こう言う言い方は良くは無いが。要するにバカには映画の良さが解らないのですよ。だから私は「フーテン寅」は嫌いなのです。そしてその小学校しか行って居ないバカは。ある日私が電話で母と話して居たら。突然帰った降りをして部屋から出て行き。暫く経ったらドアを開けて、また入って来てこう言うのだ。「おらさ〜来たぁ〜」そしてニヤついて電話中なのに、、「どこ掛けてるんだ、、名古屋まで掛けてるんだろう?」そう言うのだ。何故なら弟が当時は名古屋の病院勤務だったから、、私は無視をしたらあのバカは居なくなり。次の日にゆきかずから「おい、地方になんか電話掛けないでくれる!!」と言われたのだ。私は無視をした。そうこうして居たら倉庫から新潟に電話を掛けて居た、社員の事が発覚して私の汚名は晴れたのだった。私にそう言う仕打ちをした社員は最後には筋萎縮性側索硬化症に掛かり惨めたらしく死んで行った。よく言うがまさにバカは死ななきゃ治らないの例え、、いや、バカは死んでも治らないだろう・・・・・。何故なら自分がバカだと言う自覚が無いからだ。学が無いとは哀れなものですね。そう言う訳で私は「フーテンの寅」は大嫌いです。
『泣いてたまるか』主題歌 渥美清
「レールを敷く」
よく親が子供にレールを敷くと子供は駄目になると言うが。私が子供の頃は反対に親にレールを敷いて貰いたかったですね。何故なら、周りに居る。子供たちが余りにバカすぎてしょうがなかったから。私は幼稚園は1年遅れで入園したのですよ。だから先に居る園児たちは、もう折り紙の折り方とか教えて貰って折って居たけど。後から入った私はちんぷんかんぷん。だから2人居た先生の一人に「折って・・・。」と言って渡したら。もう一人の先生から偉く怒られた。「先生を頼るのは辞めなさい!!自分で折りなさい」そうは言われても折り方が解らない。そして折って貰えなかった。だから私は何時も幼稚園では一人で遊んで居た。同じ幼稚園には一人いじめっ子が居て。そいつは悪ガキだった。何時も私を叩いて泣かせて居た。私はこう言う近所の子供たちの輪に居るのがトコトン嫌だった。そして小学校に上がる様になった。私は地元の小学校が嫌だった。公立の小学校は大工の倅も鳶職の倅もはっきり言って水商売の子供も居た。私はそれが嫌だった。私はもっと頭がいい人たちのサークルに入りたかったからだ。
ちなみに、あのバカ親父の従兄弟の子供たちは。皆私立に行ったのだった。頭が悪くまた金が無くて私立に行けなかったのは従兄弟ではゆきかず、けんじだけだった。ある従兄弟の家に泊まりに行くと。私だけ布団で寝て居て。同い歳の従兄弟は、朝6時には起きて勉強をして居た。私はその様子を見て居て、自分は何なんだろうと思って居た。その従兄弟はバカ親父の2番目の兄貴の息子でまさおと言った。そして私は嫌がるのに私の父親は、、すぐに泊まりに行けと言うのだ。相手は築地でマグロ問屋をして居て。当たって居て。すでに数億円の資産があった。あのバカ親父は自分が兄貴に勝てないものだから、私を出しに使ったのだ。まさおちゃんの家に遊びに行くと必ずこう言われた。「おいお前は絵を描け、そしてまさおに見せつけて驚かしてやれ!!」私はそう言われるのが本当に嫌だった。要するにあのバカ親父は自分の家は貧しい。それなのに兄貴は裕福に暮らしやがって気に食わない。しかし自分には誉められる様なモノは何も無い。だから当時、小学校で、毎年、私が描くポスターやら絵画で賞状を貰って居るのを、見せつけてやろうと言う算段をするのだ。
私は、この親父の貧相で醜い考え方が大っ嫌いだった。だから「嫌だね!!」と何時も言うのだが。そうすると途端に怒られた。私は仕方が無く「ちばてつやの漫画「あしたのジョー」を書いて置いて来た。すると向こうの方が上手だ「いやぁ〜、美味いものだねぇ」とおせいじを言うのだ。するとバカ親父はいい気になってもう一枚書いて見せてやれと言う。私は烈火になって怒って「描かないよ!!」と言うと。お前には、それしか取り柄は無いんだから。言われた通りに描けと言うのだ。私は毎回嫌になった。大体が私は小学校に上がる時に。母と父に勉強するから。皆んなと同じように私立の小学校に行かせてくれと言ったはずだった。私は親に勉強と言う。学校と言うしっかりとしたレールを敷いて貰いたかったのですよ。周りに居る子供たちが、皆んなバカに見えて居たし本当にバカが多かった。
人間、環境が如何に大切か。私は自分の身を寄せる処では無いなと思えば。そこからは潔く身を引きます。バカ相手に話してもどうにも成りませんからね。
実家を1千万円で建て替えた時に。玄関前に小さな庭を作ったのだが。親父は、ある日そこに灯籠を買って来て3本も置くと言い出し。また石も置くと言い出した。何故なら灯籠は数億の資産家のたつきちが1960年代に建てて居た豪邸で3本建ててあったし。石はかしろうの家にあったからだ。勿論、私が物凄い怒声罵声でバカ親父を怒鳴って辞めさせた。あのバカ親父は当時は1990年だと言うのに何も知らなかったのだ。ただ自分が知って居る事は兄貴たちの庭に置いてある1960年代の灯籠と石だけだった。私は私立の小学校から中学、高校、大学まで行きたかった。何故なら、私立は誰でもが入れる公立とは違って、試験と面接それに親も試験に賭けられる。それを突破しないと受からないのだ。そしてテストの点だけ取ってもダメだ、親御さんの素養も試される。特に名門校は。しかし、だからこそ入学さえしてしまえば。あとは良家の御子息しか居ないのだ。私はそう言った環境に身を置きたかった。私は親に散々泣き付いた。中学の時でさえ、中学から私立に行かせてくれと泣きついた。しかし言う事は聞いて貰えなかった。私は公立の小学校と中学を出て、高校こそは平凡ながら私立高に通った、そして大学。訳あって夜学だったが私の頭ではまあ、よかったのだろう。ただ、如何にせん程度が低すぎたようだ。拓殖大学は留学生も来て居る処だが、、やはり夜学と言う事でバカな学生も多かった。
まあねぇ、大学生と言う種族は大方バカと相場は決まっては居る。みんな勉強をし無いから。私は本来なら慶應義塾大学に生きたかった。まあ、私の頭では合格は難しいだろうけどね。そんな中、私の弟は小学校から私立に入学した。何せ、勉強が命の次に好きな子だったから。幼稚園の頃に女の子と遊んで居て、彼は自分の考えた答案用紙と宿題を郵便受けに入れて「お勉強しよう」と言った幼稚園児だった。お陰で何時も煙たがれた。私立の小学校の入試テストが終わった時には、どんな問題が出て答えはこうだよと言って居て。試験会場で自分の子供の様子を見て居た、親御さんたちが、皆、弟に聞きに来た程だった。そして親の面接になった。あのバカ親父は、それなのにどこをどう聞けばと言う様な話をして仕舞い。困った母は「主人は、何か勘違いをして、思い込みをして居ますので、話は私が中心で致します」と言ってその場を収めて、門から出て来たら「あなたねぇ〜〜!!もし落ちたらあなたのせいだからね!!!」と大喧嘩になった。何しろ、あのバカ親父は。私の勝手掛かって居た立川のクリニックで「先生、息子の精神病は人に移るんでしょう?」と聞いた程のバカだ。どこの世に精神疾患が赤の他人に移る事があるのだ!!当時の主治医は怒って居た。「お父さんは一体何ですか!!」私はそう言われた。私には何時もチャンスが廻っては来ない。高校、大学はちゃんと受験をして、自分の手で掴み取った学校だった。
私は、訳があって中学を卒業する時に、家の関係で、高校は夜間高校に行くしか無いかとも、一瞬頭を過ぎったが。流石に学校の先生は、ちゃんと全日制の高校を受けなさいと言って居た。受験をして見ればちゃんと全日制の高校は受かって居た。大学もそうだった。ちゃんと受かって居た。まあ、程度は低いだろうけど何しろ高校は兎も角。大学は夜学だ。拓殖大学の夜学部だ、しかし今はその学科は無いと言う。拓大では夜間部は数年前に廃止になったそうです。私は母校はあるが正確な学科は無くなって仕舞った。私には全てのものが無くなろうとして居る。もういいだろう神様此れで、、
「けんじ.....。」
久々。けんじの話で始めましょう。彼は2000年になって突然言いました「私はね、この間「老人と海」を見たんだよ。え〜〜〇〇ちゃん!!」だから私は言いました、「今頃見たのですかぁ。ずいぶんと遅いですねぇ」すると怒って言う。「フ〜ン、ケッ!!バカヤロ〜!!」私はダメ押しをした、「処で、けんちゃん、その映画。誰の原作か解って観たの?」「フ〜〜ン、ケッ!!。バカヤロ〜!!」私は畳み込む様に聞いた。「誰の映画化かも解らずに何偉ぶってるの?」「・・・・・」「アーネスト・ヘミングウェイでしょ」「ああ、そうなんだ、誰の小説の映画化かも解って観て居ないのか、、」「アーネスト・ヘミングウェイ?」だから言った「彼の小説の映画化でしょう?知らなかったんだ」「フ、フ、フ〜〜〜ン、ケッ〜〜〜〜!!」そう言うと居なくなった。けんじの言葉は「フ〜〜ン、ケッ!!バカヤロ〜!!」で始まって「フ〜〜ン、ケッ!!バカヤロ〜!!」で終わる。何時か親父が言って居たが。私が会社を辞めた後。余りにけんじがデタラメな事を言うので、親父が「けんちゃん、其れは違うだろう?こう言う事だろう」と言って訂正をしたら「フ、フ、フン、ケ〜!!。」と言うので「なんだ!!」と言ったら「フン、ケ〜〜!!」と喚いて居なくなったそうだ。はっきり言ってこの人は、昔は、山一証券で働いて居たんですよ。その時に部長とゴルフに行って。部長の打ったゴルフボールがけんじの頭を直撃してから此の様にバカになってしまった。彼は昔は明治大学を卒業して居て。頭も切れて、私の弟さえ小学校時代は「けんちゃん見たいになりたいな」と言って居た頃もあったのですが。私が知って居るけんじは「痴呆のけんじ」しか知りませんよ。
けんじが働いて居た当時、野村證券、大和証券、日興證券(現・SMBC日興証券)と共に、「四大証券」のひとつであった山一證券。その中でも企業の法人関連業務に強みを持って居た為、「法人の山一」の異名を持つ大手證券会社でした。しかし、そんな大手證券会社が突然、1997年に廃業。1990年代のバブル崩壊後、平成の不況のシンボルとして、多くの人に記憶されて居る出来事です。
発端は、1980年代末から行われた政府による、バブル経済の抑制を目的とした「金融引き締め策」。
公定歩合の引き上げ、総量規制など、異常に膨れ上がったバブル経済を抑止するため、大蔵省(現在の財務省)や日本銀行によって、さまざまな金融政策が実施されました。放漫な営業や経営などを行って居た金融企業は、此処で“大転換”を余儀なくされます。山一證券は、是等の金融政策により「営業特金」と呼ばれる法人向けの資産運用方法が、多大な損失を生み出しました。
バブル崩壊、そして祭りのあと
東京都中央区の茅場町タワー、かつての山一證券本社
営業特金は通称「ニギリ」とも呼ばれ、法人から資産運用を丸投げしてもらい、一定の利益を保証すると言うスタイルです。莫大な金額が動くため、証券会社に取っては高い手数料が期待出来ます。今では営業特金は法律で禁止されて居ますが、当時、山一證券は、相当な額の営業特金を抱えて居たと言われており、1987~1990年の山一證券は毎年1000億円を超える経常利益を上げて居ました。それが、1989年から始まった数回にわたる公定歩合の引き上げにより、株価は暴落。 法人に確約して居た利益が運用によって補填出来なくなって行きます。ついには、法人に対する利益を支払う為、逆に証券会社が損失を被って行く様な事が増えて行きました。さらに、この優遇された法人に向けての損失補填が社会的にも問題になり、1990年には営業特金自体が大蔵省により禁止されてしまいました。
今日の夕食。。。ガストから五百円の丼弁当を取った、、
「怒りのエッセイ」
私は、バカ親父と父方の親戚は全員大っ嫌いだ。こう言うコラムを書く事は自分の恥を晒す事に成るのは解っては居るが、言わずに居られない。私は物凄く頭に来て居るのですよ。何であんな男が私の父親だったのだろうかと思う。それはいい時も一時はほんの少しはあったが。たとえばこう言う事があった。私は小学校低学年の頃に野球が好きだった。だから親父にキャッチボールがしたいと言ったのだ。すると親父はミット2つと軟式ボール一個を購入して来た。そして家に前の道路っぱたで、キャッチボールを始めた。しかし、同級生の女の子が「何だよぉ〜〜〇〇が野球なんてするのかよ?」と言って通って行ったら。もう次の日からはキャッチボールをしなくなった。また、こう言う事があった。私は小学校3年生の時に扁桃腺の手術をした。どう言う手術かと言うと。先の尖った器具を口の中に入れて扁桃腺を掴み捩り取るのだ。取って見たら扁桃腺はゴルフボールぐらいの大きさに腫れて居た。手術を終えて家に帰って来たら。会社の社員があれ喉を切った後が、無いじゃないかと丸ばかな事を言う。私は家に帰って来てから高熱が出て半年も寝てしまう事になった。お陰で勉強が出来ない。周りの生徒たちからはどんどん遅れて行く。困った私は親父に勉強を教えてくれと言った。すると1日は教えたが次の日からは。朝、私が幾ら起こしに行っても、起きて来ないのだ。私は孤立した。それ以来私は学校に復帰しても勉強は何も解らなくなって行ったのです。子供を助けるのは親しか居ない。私の親は駄目でした・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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最近、親戚の事で嫌な話を思い出した。まず父方の親戚の話だが、、父方の祖父は身体障碍者だった。そして何時も親父が、羽田空港まで飛行機を毎週日曜日に見せに行くのが日課だった、祖父は中風で腕が効かない。初めは、うちだけが祖父を連れて行ったのだが。そのうちに親戚の従兄弟たちも一緒に行くと言って車で着いて来る様になった。達吉の息子、まさおやら。親父の妹よしこの娘の、香織などだ、私たちは丁度、幼稚園児で5歳ぐらいだった。私は空港内のレストランのウインドウに飾ってあった「鳥の唐揚げ」を初めて見て、どんな肉料理なのか一度も生まれてから食べた事が無いので。食べたくなったので母に食べたいと言ったのだが、母も「まあねぇ、最近は鳥の唐揚げも食べて居ないからねぇ」と言ってレストランに入ろうとしたら、「何食べるの???私たちも食べたい」と達吉とよしこが入って来てちゃっかり席に座って居る、そして、彼らの子供たちも陣取って居るのですよ。母はものすごく嫌な顔をして居たら。「何食べんの、鳥の唐揚げ?ウエイトレスさ〜ん」と勝手に呼んで6人前の唐揚げを注文して居る。そしてがっついて食べて居た。勿論、料金は母持ちだ、、そして皆んなが「う〜〜。腹が一杯だ」と出て行った後で、母は「お前は解らない子だねえ、何時もこうなるだろう?お金幾らかかったと思う!!」と私の頭を拳骨で殴った。
私が小学校6年ぐらいの頃だ。親父の妹よしこが家に来た。私はテストが近いので勉強をして居ると、娘の、香織とうちで話して居る。私はこの2人の会話が煩くて勉強が出来ない、そうしたら、何だかお勝手から椅子をぶん投げる音が仕出した。理由を聞いて見ると、親父の妹のよしこがうちに来てやりたい放題なのを、批判した娘の、香織が暴れたと言うのだ。「お母さんは何時も、叔母さんに迷惑しか掛けないじゃないのよ」そう言って暴れたのだ。よしこさんは「香織ちゃん、勘弁してね、勘弁してね!!」と床に頭をつけて謝って居た。私はその頃は自分の部屋は無かったから廊下の出っぱったところに椅子を持って来て、そこで勉強をして居た。ただ学生の部屋の入り口付近だった事もあり、勉強をして居るのに「〇〇ちゃん、コーラとファンタとポテトチップ買って来てくれない」とよく言われた。私は嫌々ながらも買って来て渡して居た。その日もそうだった。私は「こんなんじゃ勉強どころじゃないよ」と思って居たら、何とよしこさんが何を思ったのか、「今日、此れからうちに遊びに来なさい」と言うのだ?私は「テストですから」と言ったら、自分が教えると言うのだ、私は、まただと思って再び断ったが、どうしても連れて行くと言うので仕方がないと思って。近所にある彼女らの自宅まで着いて行った。もう夜の9時になるのだ、、確かによしこさんは教えはしたが、独りよがりで10分も教えはしなかった。私は彼女らと一緒に寝ながら。侘しくなったのと悔しくなって涙を零した。するとよしこは「あら、〇〇ちゃんは、何故泣いて居るのかしらねぇ(笑)」と言うのだ。翌日、私は朝方帰って来た。要するに自分がうちで恥をかいた腹いせに私に仕返しをしたのだ。翌日学校に行ってテストを受けたが赤点だった。こんな、ど畜生ばかりが親戚だったのです。
この、よしこさんには色々と話がある。ある日、突然一家で夕方になるとやって来て、旦那も会社からうちに直接帰って来て、夕食を食べておまけに風呂まで、一家全員で入って帰る様になったのだ。幾ら図々しくても何かがおかしいと私たちは思った。だから「何故うちに来るの?」と聞いても、、「あら、、いいじゃない。あなたたちお金沢山持ってるのだから💢」と言うのですよね。これは幾ら何でもおかしいと、踏んだ母が。よしこさんと、よくよく二人っきりで話して見たら。何と、あのバカ親父が競馬に注ぎ込む為に、60万円の金を借りて居た事が解った。あのバカ親父はそうなのだ、よく私の占いを見て「今日は、お前のツキがいいから俺に2万寄越せ」だとか。姉さんの家に言って「今日は、お前の占いがいいから2万円俺に寄越せ!!」と言って手を出してせびって怒鳴られて居たほどだ。母はバカ親父と妹のよしこさんと3人で話して、お金に都合を付けて60万円を全額返済した。そして付き合いを絶った。あのバカ親父は言って居た「妹から金借りたんだろう。いいじゃないか!?」私はあの世でバカ親父とあったら、ボコボコになるまでぶん殴ってやろうと思って居る。あんな男最低な人間だろ。反吐が出る。親父の親戚も大っ嫌いだ。。。
或日、バカ親父がテレビを見て居たらしい、するとテレビの奥からボンボンと低音が聞こえて来たと言う。バカ親父は「おい、あいつが、また大きな音で音楽でも、聴いて居るんだろうから。お前があいつの部屋に行って怒鳴りつけて来い!!」と母に言ったそうだ。母は訝しながらも私の部屋に来たら。私は薬の副作用で寝てしまって居た。母は寝室に戻ると「あなた、何言ってるの?あの子は、今寝て居るわよ?」と言っても、「だってテレビの奥からボンボンと音が聞こえて来るだろ」と言う。貧乏人の浅はかさだ。その音は当時、私が母と親父用に選んだ高性能スピーカーが付いて居る、ブラウン管テレビから流れて来る音だった。低音が出て居るのは自分が見て居るテレビのスピーカーから流れてくる音だったのだ。母は怒って居たが。あの馬鹿野郎は最後まで「いやこの音は、あいつの部屋から聞こえて来るんだ」と言って居たと言う・・・・・・・・・。
愛猫、ドラゴンちゃんと戯れる、青木志貴ちゃんです。彼女は、声優で、モデルで、舞台女優で、歌手で、コラムニスト、YouTuberです、、皆さんも応援して下さいね。宜しく・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
子供の頃の話だ、私の母親は腎盂炎で入院して居た。その間、見たい映画があった。怪獣映画のと言うかモンスター映画の「サンダ対ガイラ」だ。少しホラーがかったモンスター映画だった。なんと善良な山のフランケンシュタイン・サンダと凶暴な海のフランケンシュタイン・ガイラが対決すると言う大映の特撮映画だった。しかもこのガイラは人間を捕まえると頭からバリバリ食べるのだ。そして、このガイラはサンダから細胞分裂した怪物だった。この映画で特出すべき点は、話の中で女性の下着会社の社員がパンティー・ストッキングを使って隣のマンションから隣のマンションに飛び移るシーンがあった事だ。そしてこう言って居た「見てくれたかい、百合子さん、このパンティー・ストッキングは丈夫だろう。最近のパンティー・ストッキングは、此れ程までに丈夫に出来て居るんだよ」と言って居た。1967年ごろの話です。私は何時も映画を見るときにはパンフレットも買うのだが、入院中の母にお金をくれと言ったら「見に連れて行く叔父さんの覚治さんが買ってくれるわよ」と言って居たが。私が買ってくれと言っても彼は「買わない」と言い張るのだ。私は映画券は此方が出したものだし、映画を見た後の食事代だってこっち持ちだったのにだ。私はまたしても父方の親戚が大嫌いになって行った。。。
私が子供の頃、小学校5年生ぐらいに、コダックの6千円のポケットカメラを持つ事が、小学生のステータス・シンボルとなって居た。私はカメラが皆んな見たいに欲しかった。だから親に買ってくれと言ったが、親からは、何故贅沢な事を言うのだと偉く怒られた。学校と言う処は皆んなが持って居るものを持って居ないと仲間外れにされる処だ。私は困って仕舞ったが、同級生の女の子のカメラ屋にコバルト・フィルムで撮影する2千円のカメラが売って居る事を知って、なけなしのお金の2千円を持って買いに行ったのだった。店に入ると同級生の女の子のお父さんが出て来て。「坊主もコダックのカメラが欲しいのかい?」と聞いて来たが、私は「いえ、お金が無いので、そのコバルト・フィルムで撮影する2千円のカメラを下さい」と言った。すると同級生のよしみちゃんが、「お父さん?」と部屋から出て来て何か言って居る。私は「何かあるのかな?」と思って居たら。彼女のお父さんが突然、「坊主、そのカメラ1千円でいいから」と言ってくれた。私は喜んで家に帰って来てカメラを飾って喜んで居た。そうしたらそこにバカ親父が帰って来た。そしてカメラを見るなりこう言った。「お前、こんな高価なカメラをどうしたんだ!!」私は言った「これ高価なカメラじゃないよ」するとこう言う。「幾らで買ったんだ!!」私は「それ1千円だよ」と言った。親父はすると私の指をねじり上げてこう言った「盗んで来んだろう!!」私は指が痛かったが「違うよ」と言った。
あのバカ親父は「このカメラは見た処、1万8千円はして居るはずだ」と言い張る。そして「どこのカメラ屋から盗んで来たのだ!!」とがなる。私は殆嫌になって居たら。今からカメラを返しに行くと言うのだ。私は「ああ、そう、行けば」と言った。そして同級生の父親が経営するカメラ屋までバカ親父と一緒に行った。ドアを開くとバカ親父は同級生の父親に「この度はすみませんでした。うちの馬鹿息子が。お宅の高価なカメラを盗んだ見たいです」と言った。そうしたら、相手はびっくりして「何を言って居るのですか、お父さん。この子は買って行ったのですよ」そう言った。するとバカ親父は今度は私に言った「1万幾らの金をどう都合付けた、金を盗んだのか?」すると店主が言いました「お父さん、このコバルト・カメラはね。構造も簡単でおもちゃみたいなカメラなんですよね」そうしたら同級生のよしみちゃんが出て来て。「そのカメラは2千円でしたけど。私がお父さんに言って1千円に負けさしたのですけど」そう言ってくれた。そう言われたら。それまで怒って居たバカ親父の顔が急に温和になり「なんだ。〇〇そうならそうと言えばいいのに」と言って。店を二人で出て来た。私は怒り心頭だったがバカ親父は蕎麦屋に入ろうと言って。帰りに蕎麦屋に入りざるそばを食べて「おりゃあなぁ、汁を弾き飛ばして食べるんだよく見て居ろ」と言ってつゆを弾き飛ばして食べ始めた。私は、こんな男が自分の父親かと思ったらムカついて来て蕎麦の味もよく解らなかった.....。
ゆきかずたちと一緒に海水浴に行くと、何時も彼らは自分の食事を持っては来ない。弁当を作っては来ないのだ。そして、母がゆきかずの母親に、「お姉さんたちは食事どうするの?」と聞くと「海の家で何か買うからいいのよ」と言うのだ。母はその都度、「そんな事言ってないで、私たちの弁当を食べなさいよ」と言って居た。すると、「あらそう」と言って毎回食べるのだった。ゆきかずの母親はだらしがなかった。私が子供の頃にゆきかずの家に遊びに行くと。特に冬なんかは、コタツに入ろうとすると。コタツの掛け布団が味噌汁をひっくり返して居たり。ジュース。コーヒーを溢して居て、とてもではないが汚くてこたつに入れなかった。そんな中、けんじとゆきかずはそのコタツに入って居た。私は子供の頃にたまに遊びに行くとお勝手に、蟻が群がって居るのだ。私がどうして?と見て居ると砂糖が溢れて居てそこに蟻が群がって居たのだった。私は「おばさん!!砂糖が溢れて蟻が群がって居るよ?」と言っても「あら、いいのよ。蟻が片付けてくれるから」と言うのだった。私はどうしようもないと何時も思って居た。
ゆきかずが明治学院大学に入学した頃だった。ゆきかずの母親はうちの子が入った大学は大したものよ。豪勢なエレベーターとエスカレーターがついて居るのよと自慢して居たが。1970年当時出来立ての程度の低い大学なら、そのぐらいの設備がなければ学生も来なかったろうにと思うけどね。そう言えば東洋大学もかなり豪勢だったな。結構程度が低い大学は設備が整って居るものですね。学生を集めないと行けないから。私は前に友人が大学受験の時に、桜美林大学に願書を撮りに行くのに付き合ったのだけども。あそこはーーー駄目だった。大体が来て居る学生を見て驚いたのですよ。言い方が悪いようだが、蒙古症みたいな顔をして居る学生が結構居たからだ。大体が桜美林は誰でも入れる大学だった。最近は芸大も宝塚芸術大学とかも出来た。 東京メディア芸術学部はマンガ、イラストレーション、ゲームなどを学べる。今はいい時代ですよ。私の大学時代は駄目だった。私の大学時代は漫画学科などと言う科は大学にはありませんでしたから、前に、訪問看護婦の20歳の若い女の子から言われましたよ。「何で、kiyasumeさんは経済学部なんか出たのよ。今は漫画学科とか色々とあるじゃないのよ?」と・・・・・。彼女は1970年代当時を知りませんからね。あって学校法人では代々木アニメーション学院しかなかったから。当時は選択肢も無かったし、矢張り芸大か美大に行くしか手は無かったのですよ。まあ、今となってはどうしようもないですね。私は18年前までは放送大学をテレビで見て居たのですが。なんかBS放送に切り替わってしまい。しかもケーブルTVには映らないのですよ。だからNHKの放送をよく見て居ます。それにドキュメンタリーだとか。YouTubeだとかをよく見て居ますよ。。時代は変わって行きますね。。。。。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
最近、私は若者に声援を送りたくなる。もうそう言う歳に成ったのだろう。自分の持ち時間は少ない。生きても、後11年で75歳になってしまう。やれる事はもう限られて居るだろうと思う。私は若い頃はバンド関係の頃は、バイトをして居たし。21歳に成って自分が発病してからは、何故か、親は私に働けと言った。私はこんなに体調が悪いのに、何故働かなくては成らないのかと。長年はっきり言って不満だった。従兄弟のゆきかずに嫌がらせはされるし。会社の社員たちも誰一人として好きには成れなかった。私は何時もたった一人だった。親は無理難題を言う。しかし最近に成って思えば、働いたのは正解だったと思っては居る。働く事で給料とボーナスを貰えた。そして。まあ、色々あったがその時に稼いだ金が身を助けて来た。私は障害があって働いて居た。しかし、働いた金は全て母に渡して居た。私はそこから小遣い3万円しか貰って居なかった。働いて居た時に貰って居た月給は30万だ。しかし、そこから財形貯蓄だ何だと。引かれるとそんなに金は残らない。そして家は、下宿を辞めて、親父の給料は会社が儲かって居た事もあったが。弟はそんな家庭から医者に成ると言う。私は母に預けて居た自分の預金から、毎月2万円を小遣いだと弟に渡した。実際苦しかった。或る時に余りに苦しいので、私は母に「弟にやる小遣いを5千円減らそうかな」と言った。そうしたら母が言った。「あいつは、この小遣いを頼りにして居るんだから、減らすのはお辞め。」私はだからその後もずっと弟が医大を卒業するまで、小遣いを渡して居た。しかしその事を弟は何と思って居たのか、私が弟に渡した金は親の金だったのだとでも思って居たのだった。そして私が障害が悪化して仕舞ったら、私を蔑んでこう言った。「兄貴からなんか金を一銭たりとも貰った事が無いじゃ無いか!!」私は自分の耳を疑った。そして続けて言った。「大学に行くのに1千万も親から出して貰ってこの体たらく!!貴様は自分の無知を知りなさい!!」そして止めに言われた。「もう兄とは思っても居ない!!家族から精神異常者が出るのは親族の恥だ!!貴様は頭のおかしい唯の他人だ!!」そして兄弟の縁を切られた。精神障害者はこうやって身内からも嫌われるのです。私もそれなら言いたい事があった。自分は兄弟で一番多くの金。入学の時の寄付金だけでも幾ら掛かった。1千万だろ。彼奴は私大の医学部に行った。だから金は毟り取られて居るのです。そして大学の授業料が幾ら掛かった。数千万だ....。私の1千万処での比では無いのだ。一般の家庭では、とてもでは無いが、医者には出来ないのですよ。幾ら頭が良くたって、医者にするには財産が必要だから。貧乏人から医者は輩出はされない。
【医者になりたい人へ】医学部の6年間ってこんな感じです
彼奴は子供の頃から小学校から教育を掛けて貰えた。私立の成蹊小学校に通わせて貰えたでは無いか?そして成蹊中学。成蹊高校と行き。大学は杏林医大に行ったのだ。確かに彼奴は頭が良かった。そして親からの援助が済むと、自分の働いた対価で昭和医大医学部の大学院と順天堂大学の麻酔科も出た。その称号、博士号も得た。しかし私も私立の小学校に行きたかった。公立に行けば訳分からない職種の子供も来るのだ。私は幼稚園の時に周りを見て居て絶望して居たのですよ。よくこう言う事を言う人も居る。「小学校から色んな家の子供と接して世の中の勉強をするのだ、そうする事で立派な大人になる。」しかしこの考え方は私に言わせればトンデモナイ間違えなのです。私が小学校で丁度、三年生の頃だった。足立君と言う子が休み時間に必ず漫画を書いて居た。そして書きながらこう節を立てて歌う様に言うのだ。「マ○コ舐めてる〜。マ○コ舐めてる〜。」教室には同級生の女の子が居るのだ。皆んなは黙って居る。そして体育の授業になって、当時は男女一緒に着替えたのです。すると、女の子の下着を見てこう言うのだ。「パンティー女!!このパンティー女は、パンティーなぞ履いて来るな!!」確かに小学校の低学年とは言え、男女一緒に着替えでは良くないだろうとは思った。「男女七歳にして席をおなじゅうせず。」と言う言葉があるが、、、まさにそうだ。
三上寛 気狂い
その同級生は親父が下半身にだらしが無くて奥さんが居るのに女を家に連れ込んで、いやらしい事をして居たのだ。その様子をその子は多分見て居たんだろう。私はそいつに言った事がある。「お前は何故、女の子の下半身にそんなに興味があるんだ、」すると言う「だってお父さんがマ○コ毎日舐めて居るんだもの!!」要するに小学生にして色ボケなのだ。精神状態が逝かれておかしく成って居るのですよ。そして、その子はついにクラス中の女の子に「パンティーを履いて来たら必ず襲ってやる!!」と脅し出した。だから女の子たちは皆んな、下着の上からブルマーを履いて学校に来て居た。昔は今みたいに、ショーツ型の短パンは無い。ブルマーしかなかった。今は死語だな。今は女の子は恥ずかしいと言ってハイレグのブルマーは履かない物だが、今から50年前はそれが普通だった。ブルマーが廃止に成って行ったのは今の盗撮が流行ってからだ。男は殆々バカだと思う。ブルマー・フェチなどと言う者が居るのだ。ブルマーをとてもエロチックに見て喜んで居たのだ。だから、体操の時間になると着替えてブルマーをロッカーに入れて置くと、盗まれたり。ブルマーを履いて運動して居る処をいやらしく写真に取られたりしたのです。確かに男と女の子の性のあり方は違う。だから、男は女性の下着に異常な執念を持つのです。最近の、盗撮は止まる処を知ら無いでしょう。女性の皆さんは良く知らないだろうけど。パソコンでキーワードを入れて検索すると物凄い量の盗撮画像。写真が出て来る。女の子は今、物凄く狙われて居る。本人たちが気が付か無い間に。何時の間にか盗撮されて居るのだ、ミニ・スカートが流行だが、スカートの下から小型の高性能カメラで下着を盗撮されるし。駅やら公衆トイレやら店のトイレなども危ない。とんでも無い野郎が居て。小型カメラが巧妙に仕掛けられて居る。もはやプライバシーは無いも同然ですよ。その映像がネットに垂れ流しで動画やら写真が掲載されて居る。
これ、絶対盗撮してるよね?
私がこんな事を言うと、お前はそれを見て居るのかドスケベ野郎だな!!と思うでしょうけど。こんな事は皆んな男なら知って居る事だ、女性でも知って居る方も居られるとは思うが、諦めて居るのですか?、誰も女性は声を挙げない....。そして最近では女の子が自分で自分の淫らな様子を撮影して金を払わせて男に見せても居る。私も男だから、たまに、こう言った写真やら画像を見る事もある。本音を言うとね....。だけども酷すぎると思うのですよ、女性を性の奴隷としか思って居ない。男の慰め者にしか見て居ないのです。世の中おかしいと思いますよ。まあ、話が脱線したけど。小学生でも、ロクでも無い家の子はロクでも無いのですよ。私が小学生の頃。50年位前は、風俗業が盛んだった。街を歩けばキャバレーの呼び込みがあり。売春婦は客引きをして居ると言う、世の中だった。成程、今は、規制が表上はされ始めて来て居るが、政府は此処の処。要約ネットなどのワイセツ動画やら写真を取り仕舞う様になり始めた。しかし女性に言いたい。本当に大切な女性。好きな女の子には男は手も足も出ないのですよ。元来、男は単純な生き物なのですよ。だから私はどんな職種の家庭の子でも居る、公立の学校は行きたくは無かった。しかし最近では私立でも現状は似て来て居ると言うが・・・・。私は母に給料、ボーナスを全て渡して居た。それは、生活費の足しになればと思ったからだ。引いては弟の為にも成った。しかし、弟は私が障害が酷く成ったら露骨に私を排除した。でも私は弟は頭が有ったし、いつかは有名な男になってくれるだろうと思って居た。だが弟は若死をした。弟が死んだ時に私は神に言った。「何故、俺ではなく優秀な弟を召されたのですか、、」私は弟を愛して居た。例え私を邪険にして兄弟の縁を切られても弟は弟だった。弟無き今は、姉はもう居ない者だと思って居る。あんな女、姉でもなんでもない!!私にはもう家族が居ない。今は私には恋人が居てくれるだからそれで良いのです。私はどうやら、このアパートに引っ越して来て救われた様です.....。