寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

緊急記事・アントニオ猪木 死去 ・・・・・。

 

追悼・燃える闘魂 アントニオ猪木 追悼VTR

 

かつて飛行機に乗って地球の裏側のブラジルと日本を日常のように往復していた時代の猪木を知る人ならば、「青森なんてほんの数時間の距離でしょう」と言いたくもなるだろう。

 だが、自由に動かなくなった体という事実は、そんな言葉さえ打ち消してしまう。

かつて猪木が語っていた死生観「砂漠に消えるのがいい」・・・・。

 蔦温泉旅館に入ると、壁に額が掛かって居る。「つたえ歩きで」と言う名の詩だ。

 
 
 
猪木直筆の詩「つたえ歩きで」
 
蔦温泉旅館にあるアントニオ猪木が書いた詩。。。

 

猪木が詠んで自ら書いたものだ。

 波乱万丈の人生を歩んできた猪木もまた此処に辿り着いたのか、と思ってしまった。

かつて猪木は死を語るとき、「足跡を消したい。砂漠の砂の中に消えるのがいいな」と言っていたが、こうして「アントニオ猪木家」の墓を作ってしまった。それも青森の山中だ。

しかし、猪木家ではなく「アントニオ猪木家」と言うのが猪木らしいかな、とも思った。お墓が好きな人はそんなに居ないだろうが、ある年齢を迎えると、そう言う事を考える様になるのだろう。

蔦温泉から車で30分ほど離れたところにある八甲田山中の温泉宿・ホテルがある。この宿の廊下にも猪木の書いた文があり、また前の敷地にはズッコさん(奥さん)の記念碑がある。

そこには「鶴」と言う大きな文字とズッコさんが使って居た小さな手鏡がレイアウトされて居て、猪木の言葉が続いて居た。

「花に嵐のたとえがあるように さくらの花のように散っていた ズッコ いつまでもいつまでも 皆んな心の中で生きてるよ」

モニュメント

青森県八甲田山中、ホテル城ヶ倉の敷地内にある猪木田鶴子さんの記念碑。。。

 

 

アントニオ猪木が自身の引退式で読んだ詩です。。。

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ。」

 

 

|アントニオ猪木「最期の言葉」

 

 

アントニオ猪木(本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉、1943〈昭和18年〉2月20日生まれ - 2022、10月1日死去。日本のプロレスラー、実業家、政治家。享年79歳、、

 

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神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(4回結婚して居る)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人居る。後年離婚をしたが、おしどり夫婦だった。何しろ、猪木の誕生日に自分にリボンを掛けて私を上げると言って猪木に抱き付いた程、夫婦仲が良かった。プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党、国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。

 

猪木さんの経歴を上げるとこんな処でしょうか・・・・・・。

 

アントニオ猪木の最初の奥さんリンダさんと子供、、

ありし日の、アントニオ猪木と倍賞美津子、、

1971年3月に笑顔で婚約を発表した猪木さんと賠償(共同通信社)

アントニオ猪木の三番目の奥さん尚美さんとの写真、、

猪木の最後の奥さん”ズッコ"さんと、、

 

 

前に私のところに来て居た訪問看護師の30代の女がこう言いました「あの赤いタオルって〜〜!!何よ。なんかおかしいわよ猪木って。頭ないんじゃない?」その女は猪木が如何に凄いレスラーだったのかを知らない。勿論、猪木の試合なぞ一つも見ては居ないのだろう。議員だった事も知らない。私はこんなバカな女は無視をした。「頭ないんじゃない?」とは自分の事だろと言いたかった。比較する訳では無いが。昨日の午前中に猪木氏の訃報を知らせてくれたのは、妹だった。彼女は「今朝、アントニオ猪木さんが亡くなったって、、お兄ちゃん、、、」と知らせてくれた。彼女もまだ若い、猪木氏の全般期のレスラー時代の試合は見ては居まい。ただ優しい子だから。私に教えてくれたのだ。もちろん猪木氏をバカにはしては居ない。晩年の猪木氏はコメディー路線で売っては居たが、言うことは正しかった「元気ですかー!!元気があれば何でも出来る!!」「1、2、3、、ダー!!」晩年の猪木の言葉だ。往年の彼を知って居る人は、彼に闘魂注入を頼んで自らビンタをして貰う人が後を立たなかった・・・・・・・。

 

アントニオ猪木 最後の闘魂注入(見納め)

 

猪木さんだけども、前にあるイベントで彼の人生相談という時間があって、、20分ぐらい話した事があるんだけども、「加藤諦三と親鸞の書物を読んで見たら良いよ」と言われました。しかし私が、話した後で高校性の不良の番になって、、そのバカが、「な〜にが、猪木だ!!八百長じゃねえかお前の試合はよう!!」と喰って掛かられたら、、突然、あの大きな手でそいつを思いっきりビンタして、、

そしたら、そいつは4メーターはぶっ飛んで居ました。その不良はあまりのビンタの凄さ痛さに起き上がれずにタジタジに成って仕舞い、恐れ慄いて居ましたよ。猪木さんは、力道山に拾われて「日本プロレス」入りして、レスラーとして試合を粉して居ましたが、、ある時に、力道山がヤクザに刺されて死んで仕舞い。ジャイアント馬場と共に、その後、日本プロレスを支えて居ましたが....。「日本プロレス」の幹部連中が毎晩、彼らの血と汗のファイトマネーを持ってキャバレーに行き一晩で100万円近くも使って居て、それを知った猪木さんは外国遠征から帰って来たレスラーたちと共に、新しく「東京プロレス」と言う団体を立ち上げ様として居ましたが・・・・・。

 

Inoki Bom-Ba-Ye (Theme of Antonio Inoki) アントニオ猪木

 

何故か、日本プロレスの幹部に解って仕舞い、「何故なんだ?」と思って居たら。一緒に東京プロレスを立ち上げようと言って居た。ジャイアント馬場が金を掴まされて裏切って居た事を知り、それ以来、馬場を恨んで、、何故なら馬場は金を貰い、猪木さんはプロレス界から永久追放になって仕舞ったからです・・・・・。でも彼はめげませんでした。それから暫くして日本プロレスは崩壊し、猪木さんは「新日本プロレス」を旗揚げしたのですよね。しかし、ジャイアント馬場に、裏切られた事は尾を引き、、その後、馬場とは仲が悪くなりました。漫画「タイガーマスク」ではジャイアント馬場はタイガーマスク事、伊達直人を助ける善人でしたが、実際は猪木さんの事を裏切りました・・・・・・。

アントニオ猪木さんは、、「先天性アミロイドーシス」と言う難病だったから、、頑張って貰いたかったけど、、猪木さんには、何時も勇気を貰って居ました。プロレスの試合を通して、人として生きる意味。そんな事を彼の試合から学びました。彼の著書も何冊も読んで、ある意味、彼の本は思想書でしたね僕に取っては、、イラク戦争の時にはフセインに直談判をして人間の盾にされて居た人質の日本人を解放させて救って来たし、、拉致被害者の救出の為に、自分のレスラーと言う看板を武器にして北朝鮮に入り込み。北朝鮮とのパイプを作っても居ました。。。イラクの人質解放を猪木がしたら、慌てて、あの中曽根さんが「私にも武士道はある!!」とイラクに行ったのが思い出されます。

 

 

いつも一緒に(炎のファイター)倍賞美津子

アントニオ猪木さん追悼写真館【平成・令和編】

 

 

「アントニオ猪木」の「アントン・ハイセル」の解説、、

ブラジル政府を巻き込んだ国家的プロジェクト「アントン・ハイセル」(1980年昭和55年に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの搾りかす(バガス)の有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は石油の代わりにサトウキビから生成したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、バイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けだった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ、逆にブラジル情勢を危惧し止める様に説得されるが、猪木はこの事業に傾倒していった。

この一代プロジィクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。サトウキビからアルコールを搾り出した後に出来る。アルコール廃液と搾りかすの弊害、公害問題である。そこで家畜に肥料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの障害が生じる結果になってしまう。 それでも猪木は世界の食糧危機問題に対応すべく、バガスの再生肥料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い打ちを掛ける様に、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。 これらの原因により、経営は数年で破壌した。マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、、、

テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清佐川急便会長に債権を移動)して貰うがそれだけでは補えず、継いには新日本プロレスの収入の大半を補填してしまう。しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13人名もの選手が大量離脱など当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展した。山本小鉄などの動義により猪木代表取締役と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数ヶ月後に復帰した。 なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は環境対策や2005年(平成17年)以降の原油価格高騰などから、内容が見直され積極的に行われて居る。 後年、猪木はアントン・ハイセルに対して「ブラジルの様々な偉い人から騙されて居た」とコメントしていた。猪木さん、お疲れ様でした、、どうか安らかに眠って下さい。合掌......。

 

猪木vsアリ戦の真実!~総合格闘技の原点・20世紀最大のスーパファイトの全貌と舞台裏を徹底解説!#12

Muhammad Ali vs. Antonio Inoki 1976: MMA Begins

コメント一覧

kiyasume
suisenさん、書き込みどうも有難う御座いました、、

動画見てくれましたか・・・・・・・・。

猪木さんは、自分の顔にコンプレックスを持って居たそうですが、、
リングに上がってアントニオ猪木になると、精悍な顔が、ハンサム
でしたよ、、顔つきが良かったです・・・・・・・・。

私も猪木さんは善人だったと思います、、

また来て下さいね、、宜しく・・・。( ´∀`)
1948219suisen
ビデオ、見せてもらいました。

猪木さんは美男ではありませんが、良い顔をされていますね。

それは心が良い証拠だと思います。
kiyasume
suisenさん、コメントどうも有難う御座いました、、

そうですか、、あまりプロレスは見なかったのですね、、
猪木さんの試合はまさに千両役者と言うべきものでしたよ。

惜しむ楽は、彼の訃報の報道で、過去の試合を少しでも
テレビで流して欲しかったですけど、、権利問題で駄目だった
見たいですね。それから、猪木さんは晩年よく詩を詠みました・・・・・。

確か、猪木詩集と言う本も、出して居たんじゃ無いかな???
昭和が、また一つ遠のきました。。。合掌です。。。。。(๑>◡<๑)

書き込み有難う御座いました。また来て下さいね、、、、( ◠‿◠ )
1948219suisen
こんにちは

私はプロレスを観ないからアントニオ猪木のことは過去倍賞美津子さんと結婚したことぐらいしか知りませんでした。

が、この記事を読ませていただくと心に沁み入るような詩を書く詩人だったんですね。

ご紹介いただいた詩は何度も読ませてもらいたいような詩ですね。
kiyasume
くりまんじゅうさん、書き込みどうも有難う御座いました、、
そうですね「最後の言葉」は、死ぬ数日前に撮った映像ですね。

モハメド•アリ戦は、公にはされて居ませんでしたが、、
アリが猪木さんに突き付けて来たルールは、投げ技、関節技、、
「ロープに触れた相手への攻撃は禁止」「立った状態でのキックは禁止」
「頭突き、ひじ打ちは禁止」と厳しいルールを突きつけられて居ました。

猪木さんは「立った状態でのキックが禁止されて居るから、寝て蹴るしかない。観客の反応がどうだったか、全く覚えていない。観客のことを考える余裕などなかった。今でこそ、あのようなグラウンドの戦いは認知されているが、あの当時は、立って戦っているアリの方が優位に見えたかも知れない」と語りました。

だから猪木さんは手も足も出なかったんですよ、、
文字通り寝て蹴るしかなかったのです、、

私は馬場さんと猪木さんがタックを組んで戦って居た時期のことは、、
朧げにしか記憶がありません。矢張りアントニオ猪木と言ったら、、
新日本プロレス時代の猪木さんかな・・・・・・・・。

ストロング小林戦とか、、ラッシャー木村のはぐれ国際軍団との攻防など
でしょうか、、高度成長期にプロレスは勇気を見んなに与えてくれました。

私に取ってのプロレスはあの時代で完結しています。
今のプロレスは好きではありません・・・・・・・・。

昭和がまた、ひとつ遠ざかりました。。。
合掌・・・・・。

また来て下さいね。宜しく......。
くりまんじゅう
kiyasumeさまへ
猪木さん亡くなりましたね。↑の『最期の言葉』は今年の9月の終りの動画ですから
この映像の数日後に亡くなった事になりますね。

猪木さんとアリの 当時は異種格闘技といわれたと思いますが あの一戦からすでに50年近くが経ちました。
当時20代の私はあの試合を楽しみにしていましたが TVに映る中継は猪木は寝てばかり それをアリが
立てよ!と何度も促し 結局だれもが期待した試合にはならず終わり あちこちから酷評されました。

猪木さんはやはり 馬場さんとタッグを組んだプロレスが印象に残ります。
放映時間終盤にちゃんと 馬場・猪木組が勝つパターンでしたからショーの要素はありましたが
当時中学生の私は 白黒TVで興奮しつつ観ていました。

高度成長期にだれの心にも希望をくれた猪木さんの死は 一つの時代が終わり
懐かしい昭和がまた一つ 消えた思いがします。
ご冥福をお祈りします。 
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