前野曜子 - 愛のテーマ
ー「エッセイ・その1」ー
「職人」
働いて居た20代の頃。ある年長の社員が私を連れて来いと言っている、スナックの主人が居ると言うので、その社員の車に乗ってその店まで出掛けたのだが。その当時私はまだ若く体重も58kgぐらいしか無くて。今、思えばそんなに食べ物を食べなかったのですね。少食で食べるとすぐにお腹が一杯に成ってしまい。やはり30代の終わり頃から太って来たと言うか、でも50代になると痩せ出して、まあ40代の終わり頃に毎回書いて居る様に、一気に28kg近くも痩せまして。まあ、何遍も言う様に30kgある一斗缶を両手で100缶トラックに積むと言うことを毎日2ヵ月夏の炎天下にやったら、スクワットの要領ですよね、トレーニングジムで炎天下トレーニングした様な感じで痩せたのです。何遍も言うけど病的に痩せたので社員の人たちは心配してくれたのですが。かしろう、ゆきかず、けんじは3人で見に来て笑いながら「痩せられて良かったじゃない」と言うのですよ。でもまあ、かしろうはとっくに死んだし、ゆきかずは70歳に成ったし、けんじは、もはや痴呆だしね。でもね、一度受けた仕打ちは私が生きている限り消え無いのです。話はまた元に戻りますが、それで、そのスナックに連れられて行くと。そこの73歳の主人が、「まあ、座れ」と言って。「ねえちゃん、ええとな、ハンバーグに、カレーライス、うどんにな、ピラフにな、スパゲッティ、それからなホットドックに、サンドイッチ、そしてアイスコーヒー作ってくれや」と言うのですよ。私は私以外に誰か人が結構来るのかと思っていたら、その料理がテーブルにヅラっと並べられて、そうしたら、「おめえはまだ若えんだ、全部食え」と言うのです。
私は「あのぅ、12時に昼食べて来たので、それに食べて無いにしても、こんな量一辺には食べられませんよ。何かすみませんけど、このアイスコーヒーだけ飲ませて頂きます。」と言ってアイスコーヒーを飲んだら。「おめえは若えくせにこんなものも喰ねえのか?」と言うので「せっかくのご厚意ですが頂けませんので、すみません」と言ったら、「勿体ねぇ、俺が喰う」とガツガツ食べ始めた。しかし自分も食べられずハンバーグにスパゲッテイ喰べたら、フーフー言っている。そして「此れからはな学問は要らねぇ、おりゃ〜小学校しか出てねえけれども、こうやってな、スナックを5店舗も持っているんだ」と言うので「それは凄いですね」と言うと「おめえ、これからは大学なんて行っても何にもならねえぞ!!」と言うので流石に「いやぁ、大学出たからってどうにもならない事も確かにあるけど勉強は大切ですよ」と言ったら。「大学出て俺みたいに、スナック、5店舗も持てるか?」と言うのだ。弱ってしまっていたら電話が掛かって来て、「何、そんなか、今すぐ3号店に向かう、待ってろ!!」と言って「せっかく呼んで悪いがな、急用が出来たそれじゃあな!」と居なくなった。
そこへ会社の年長の社員がやって来て、「あれ社長は?」と言うので「今、急に用事が出来た様で出て行きましたよ?」と言うと「なら、俺の得意先のパン屋に寄ってから帰るぞ」と言うので「そうですか」と言ってそのパン屋に行くと。そこの主人も何だか「あんたに聞きたい事があるのだがね?」と言うので「何ですか?」と言ったら。奥さんが出てきて「あなた、大学行ったって聞いたから聞くのですが、息子は今、中学生だけども、どこか大学に入れた方がいいかねぇ?」と聞くのだ。私ははっきり言った「奥さん、大学行くのもいいけど、お父さんはフランス料理店銀座に3店舗あって、その他ブティック、リサイクルショップが青山に5店舗あってそして此処麻布でケーキ屋とパン屋経営していて、有名なホテルなりのレストランにケーキ入れて居るのでしょう?」と言ったら、「まあそうだけども」と言うので、「息子さんは大学行くより、お父さんの跡を継いだ方がいいのではないですか?」と先ほどの老人ではないが私はそう思うと言った。
そうしたら「大学って矢張り難しいのか?」と聞いて来るので。「そこそこの処なら私も行ったぐらいですから行けるけど。よしんば一流校に行って、何になるのですか?」と言ったら黙って聞いている。「私が息子さんだったらお父さんの跡を継ぎますよ」と言ったら。二人とも黙って居るので「お父さんの仕事を継ぐのには高校卒業してから修行しないといけないんでしょう?」と聞くと「まあな・・・」と言うのでそしたら会社の社員が「中学卒業してからですよね社長!!」と言うので、「それで私に聞いてきたのですか?」と言ったら、「まあ、そうなんだ」と言うので、「大学行くのも時と場合がありますよ、職人の道は厳しいんでしょうから、でも、これだけの仕事を息子さんが継がなくってどうするんですか?」と言ったら旦那と奥さんが笑顔になって「ありがとうね、大学行った人に聞いてみたかったのよね」と行ってフランスパンを3本とケーキをくれて、帰って来る途中で年取った社員が「〇〇ちゃん、高卒はみんなコンプレックスがあるんだから、大学に行かせろと言えば良かったのに」と言うので「〇〇さん、それは時と場合によりますよ。あの旦那さん月どのくらい収入あるのですか?」と聞いたら「月に数千万稼いでる。」と言うので。「大学行ったってそれだけ稼げませんよ」と言ったら「でもねぇ、〇〇ちゃんは俺ら高卒の苦労が解らないんだ」とか言っていたけども、それから8年経ってその年長の社員に、「あの時の息子さん今どうしていますか?」と聞いたら「親父と事業をさらに発展させて凄い金持ちになったよ。〇〇ちゃんの言った通りになったよ」と言って居た。人間、学問が幾ら出来ても貧乏していたんじゃ、どうしようもない。私はそう聞いて安堵した。幾つになっても学問の勉強は出来る。あの場合、ああ言うしか無かった。
ー「エッセイ・その2」ー。
「本当のブルース」
私のバンド活動は1980年代も始めになって居た。その日私は自宅に居た。そして自宅で寝て居た。私は暫くして映画が観たくなった。それで隣町にレンタルビデオを借りに行く事にした。隣町に行くと見慣れないレンタル屋が一軒出来て居た。私はその店に入って行った。店内では、お婆さんが一人で店番をして居た。そして私を見るとそのお婆さんは、私を椅子に座らせてコーヒーを入れてくれた。私は恐縮しながらコーヒーを飲んでお婆さんに言った。「新しく出来た店ですね。」するとそのお婆さんは言った。「ええ、最近出来たんですよ。この店は私が作った店なので。他の店より余り品揃いが良くは無いけど。」私はコーヒを飲みながらビデオが置いてある棚をつらつら観て居た。するとその年に公開されたばかりの「ダーティーハリー4」が置いてあった。私はまだビデオ化は早いんじゃ無いかなと思ってよくパッケージを見て見ると、なんと海賊版だった。私は「海賊版か...。」と呟いたが、「ダーティハリー4」は見たかったから手に取ると、また棚を見始めた。よく見て見ると。どうやら劇場公開したばかりの作品が並んで居る。
勿論違法だ。だが、この頃はまだ規制は無かった。だから海賊版が結構レンタル屋には並んで居たものだ。だが此処の様に全部海賊版の店と言うのは珍しかった。私は見て居るうちに、或るアダルト・ビデオが目に付いた。それは何とあの官能劇画で有名なダーティ松本が監修をしたアダルト・ビデオだった。私は内心興味があった。しかし店主はお婆さんと言えども女性だ。私は、何かこんなビデオまであるのかと思い棚に戻した。そしてまた見て行くと。今度は安彦良和監督作の「ビーナス戦記」と「アリオン」が置いてあった。この作品も海賊版だった。私はおばあさんに言った。「此処は新作のビデオが多いですね。」するとお婆さんは「息子が商品を持って来てくれるんですよ。」と言って微笑んだ。私はこのビデオとさっきの「ダーティハリー4」を借りた。料金は安く、当時、レンタルビデオは1泊2日で1本5百円はして居た頃だったが。そこは3百円だった。私は構わず借りて来た。
帰って来てビデオを再生して見ると少し画像が荒かったが、鑑賞する分には差し障りは無かった。私は喜んで見て居た。「ビーナス戦記」はアニメだが、オリジナル作品で少しエッチだった。そして2本目の「ダーティハリー4」を見てみた。画像は矢張り少し荒いがこれも鑑賞するのに何ら支障はない。私は「ゴー・ア・ヘッド・メイク・マイ・ディ。(撃て、望む処だ!!)」と言う台詞でハリーがマグナム弾を連射して撃てる自動小銃の、オートマグで悪党を射殺するシーンを見て喜んで居たらチャイムが鳴った。出て見ると若い男で、「ギターマガジン」のメンバー募集の広告を見て、やって来たと言う。私は少し困って仕舞ったが、その人は熱心に聞いて来る。歌いたいらしい。しかし私はその男を見て一緒には悪いがやれないと思った。
しかしそう、あからさまに断る訳には行かずに、相手がどんな生活をして居るか確かめてから断ろうと思ったので、その男の家に行く事にした。その男もそれを望んだ。私は電車に乗り込んで座ると言った。「あんた、大学生?」と。相手が「何故?」と聞くから、「いや歳が若いと思って」と言った。すると相手も聞いて来た。「あんたは大学生か」だから言った「いや大学はもう卒業したよ」と言ったら「どこの大学」と言うので「拓大だよ」と言ったら。声を荒げて言った「拓大なんて卒業してもドカタにも慣れねえよ!!」話は怒らず冷静に聞いた「仕事何して居るの?」すると「俺は高校中退で今はテレビのドラマや歌謡番組の裏方をして居る。言っちゃあ何だが、あんたより給料はいいぜ」と言う。私は成程と思って聞いて居た。私は「うちはブルースバンドだよ」と言ったが。その男はその問いには答えずに「太田裕美や榊原郁恵は一見お嬢様っぽいけど、とんだあばづれだ」と言った。
その人が住んで居るのは新大久保だった。昔から、コリアンタウンとして有名で、世界中の果物やら野菜などが手に入る八百屋や、格安で商品を取り揃えて居る24時間営業のスーパなどがある。町にはベトナム人やらタイ人。そして韓国人が多い。その駅前から少し離れた処にその男のアパートがあった。その男は八百屋で、ジャガイモとモヤシを買うと私を連れて部屋に入って行った。部屋は7畳と6畳のお勝手の2部屋で少し大きかったが、風呂は無くシャワーだけがあった。トイレは共同トイレだった。私は部屋に上がって部屋の様子を見て居た。安い型崩れのステレオが置いてあった。後14型のテレビが置いてあった。その男はちょうど夕食どきと言う事もあって、鍋にインスタントラーメンを2玉入れるとモヤシとスープを入れて煮出した。そして煮詰まって麺がほぐれる頃を見計らって、卵を二つ入れてまた煮込んだ。出来上がると丼に半分写し、私に割り箸と共に渡した。自分は鍋に入れた侭で食べ始めた。
私がゆっくり食べて居ると、ジャガイモを底が深い鍋に入れて、鶏ガラのスープを加えてとろ火で煮始めた。そして、棚の上に置いてあったトランペットをラソシド、ラソシドと吹いて得意げに言った「マイルス何か簡単だぜ」そして古びたギターを持ち出すと弾いて歌い出した。自作の歌だと言う。私は歌声を聞いて、「矢張りな・・・」と思った。下手なのだ。だから私はギターを貸してくれと言ってブルースのフレーズを弾いて見た。しかし何か音が変なのだ。待てよと思ってギターの裏を見たら、大きな穴が開いて居る。そうしたらその男が言った。「ギターはそこそこ弾けるじゃねえか...。」私はギターを置いて言った。「悪いけど今ギターの方は弾いて居ないよ、ブルースハープを吹いて居るから」と言った。すると彼は間を置いてから言った。「ハープでブルース何かやるのか?」私は勘違いして居るなと思い言った。「いや、あのハープじゃなくてハーモニカの事だよ」と説明した「ハーモニカ?」彼は訳が分からない顔をして居た。だから腰から下げて居たマリンバンドを見せて吹いて見た。その男は黙って居た。
kiyasumeのハーモニカで吹くブルース
すると本棚から一冊の本を取り出すとそれを私に寄越した。そして言った。「此のブルースの本あんたにやるよ」私はその本を見て言った。「この本は図書館のマークがあるじゃない」すると言った。「それは前に借りて居た本で、前の場所からは引っ越したので返して居ないがもう3年にもなるんだ」私は「いや、要らないから持って居なよ。返す様になるかも知れないよ」と言った。彼はステレオにレコードをセットして言う。「このレコードはオーティシュ・ラッシュだぞ!!」私はガッカリした、そのレコードはブルースではなくて、ディスコ音楽のレコードだったからだ。私は言った。「オーティス・ラッシュのコブラ・セッション盤を持って居るよ」そして続けて聞いた。「処で、あんたのそのしゃくれ返った顎の事だけど、どうしたんですか?」すると彼が言った。「まだフリーになる前にテレビ局の裏方同士で喧嘩になって相手をぶん殴ったら、そいつに丁度、改築中で置いてあった、角材で顔をぶん殴られた、血反吐を吐いて40度の熱が出て。ひと月寝て居たがもう治った」私は言った「医者には行かなかったの?」そいつは言った「治ったからいいんだ」続けて私が聞いた「1ヶ月の寝たきりって食事とかどうして居たの?」その男は「メイク係の女の子がホッカホカ亭の弁当を差し入れてくれた」と言った。私はどうしようもないなぁと思って口を噤んだ。色々と話して、夜も遅くなった。するとその男は押し入れを開けて私に、敷布団と毛布をよこして、自分は冬用の掛け布団にくるまって寝始めた。私は慌てて言った「咥えタバコだよ。火が布団に燃え移るよ。」すると「何、火が燃え移ったら水を掛ければいいさ」と言う。だから私は言った、鍋もあれから4時間ぐらい煮て居るけどいいのですか?」すると一言こう言った。「俺はこれでもフランス料理を勉強して居るんだ、大丈夫だよ」そしてタバコの灰は畳に落ちて消えて仕舞った。私は冷えるなと思い毛布を頭から被り、そして呟いた、「俺は最近、何か嫌なものしか見て居ないな...。」そして眠りに着いた。
朝になって、私は今、何時だと思って目を覚ました。朝の7時だった、あの男はすでに起きて居て。料理を作って居た。成程、豪勢な料理だった。それをバックに詰めると言った。「顔を洗えよ。」私は歯ブラシが2つあったのを見て、「あれ...。」と思った。するとその男が言った。「ちょっとこの料理持って来てくれないか」私は何だと思ったが、「どこに行くの」と聞いた。すると「彼女の家だよ」と言った、そして私を連れて近所のアパートに行くと扉を叩いた。すると、頭にカールを巻いた女の人が出て来た。歳は少し行って居たが、若く思えた。多分水商売をして居るのだろう。彼は「これ、差し入れです」と言って私の手から鞄を受け取るとその女の人に渡して言った。「綾子の様子はどうですか?」その女の人は気怠そうに言った。「相変わらずよ。でももういいみたいだよ」私は意味が解らず黙って居た。帰りに聞いた。「あの人が彼女ではないでしょ。誰ですか」すると言った「綾子のお姉さん」そして続けて言った「綾子は産婦人科で体調が悪くて入院して居る」私は「産婦人科?」と聞き返した。するとその男は「あんたも男だから解るだろ。」と言う。私は「ああ・・・」と思った。子供が出来て下ろしたのだ。それから体調が悪いのだ。男は言った「あんた朝飯はどこで食べる?」そして「俺は此処で食べるから」と言って、食堂を指さした。そして言った。「これでお別れだ.....。」そして最後に言った、「あんたお坊ちゃん育ちだな、俺はあんたより年下だけども、まあ、色々あらあな、、」私はその男の年齢を聞いて見た。まだ21歳だった。私よりも2歳歳下だ。しかし、確かに私より物事を知って居そうだった。そして、最後の最後に言った。「あんたバンド頑張りな。安心していいよ。俺はバンドには入らないから」そして「昨夜は楽しかったよ。じゃあな」と言った。私は電車に乗った。そして考え込んだ「ブルースとはああ言う人たちの歌だよ・・・」そう呟くと家路に着いたのだった。。。
ダーティーハリー4
映画『ヴイナス戦記』冒頭10分映像【Blu-ray <特装限定版> 7月26日(金)発売!】
1986年公開「アリオン」劇場予告編
ー「エッセイその3」ー
「可愛い妹」
或る日の夕方、食事を待って居ると電話が鳴った、私が出たら中学時代からの友達で、切羽詰まった声で言う。「今からうちに来てくれないか....。」私は何だと思い聞いて居たら。母親の凄い怒声とバキ!と言う何かを打って居る音が聞こえて来た。私は「何だよ、今から食事だよ!!」と言ったが、どうしても来てくれと言う。私は、仕方が無くその友人の家に出向いた 。チャイムを鳴らすと母親が出て来た。私は「直斗君に呼ばれたのですが。」と言った。すると少し考え込んでから私を家に上げて友人の部屋に通した。私は誰も居ない部屋を見て言った。「直斗君は、居ないのですか?」すると「直人は今風呂に入って居ます。だから此処の部屋で待って居て下さいね。」そう言うと引き戸を閉めて居なくなった。直斗の家は平家の一軒家だった。そこに母親と妹そして直斗の3人で暮らして居る。母子家庭なのだ。私は直斗の部屋の本棚にあった、「ミュージックライフ」と「ビックコミック・スペリオール」を見て時間を潰して居た。しかしどうも、お母さんの怒る声と何かを引っ叩く音が聞こえて来る。私は暫く聞いて居たが、なんか様子がおかしい。私は声がする反対側の引き戸を開けた。するとお母さんが直斗の妹をぶん殴って居る。妹の顔は紫色になって来て居る。私は慌てて、お母さんの腕を掴んで言った。「辞めて下さい、、」すると母親は「どうしようもないね!!」と言ってお勝手に行って仕舞った。
私は吃驚して居たが。妹は放心状態だった。するとそこに兄で有る直斗がバス・ローブを纏って現れた。そうしたら、叩かれて居た妹が、タンスから下着とパジャマを出してやって居た。私は「何なんだ、一体どうしたの」と妹に聞いた。すると妹は俯いて言った。「私が悪いんです」だから直斗の方を見て見たら。彼は涙を浮かべて居る。そうしたら、妹が何か気がついたように言った「お兄ちゃん、〇〇君を呼んだのは・・・」と言って私を見た。私は何が何だか分からずに突っ立って居た。私は直斗の妹には気があった。直斗はハンサムな男だ。妹も兄に似て、美しく可愛かった。私を見る妹の顔を見て、何と言ったらいいか分からなかったが。口からは反対の言葉が飛び出した。直斗に「お前なぁ、俺は夕食、食って居ないんだぞ!!」と怒って言った。すると妹がサッと居なくなった。私は悪かったかなと思って黙った。それから30分もすると妹が生麺にほうれん草とシナチク、半熟のゆで卵に焼き豚を入れたラーメンを持って来た。そして私に「食べて下さい」と言った。私が遠慮して居ると直斗が言った。「妹が作ったんだよ。美味いぞ食べろよ。」すると妹は「食べて下さいね」と言って自分の部屋に入って行った。妹は高校2年生だ、私は可愛い子には弱い。「妹、顔にアザ出来るんじゃないか?」そう言うと彼は、要約口を開いて言い出した。母親は教育に煩くて。俗に言う教育ママだと言う。そして彼女はテストの点が60点だったと言う。赤点では無いがまずい点だ。私は言った「それで怒ったのか。しかしやり過ぎだな。」すると直斗が言った。「最近の母は様子がおかしんだよ。いつも苛立って居る。」そして私が「成る程、それで俺が来れば辞めると思ったのか。」と言ったら頷いて居る。
私は話を変えたく思い。前から考えて居た事を言った。それは高校最後の学園祭にバンドを組んで出るのだがベースが上手い直斗に是非来て貰いたかったのだ。だから単刀直入に言った。「お前さぁ、今度の学園祭に来てバンドでベース弾いてくれないか?」そう言ったら彼は快く受けてくれた。私は安堵した。そして言った。「良かったよ」直斗はするとグヤトーンのギターアンプにエレキ・ギターをケースから出して繋ぐと私に寄越して、自分ももう一つのジャックにべースギターを繋いで、ブルースを演奏しようと言い出した。私は今、食事したから。ジョージ・ベントンの「スパイダー・イン・マイ・シチュー」をジャムろうと言って演奏し出した。暫く演奏して歌って居たが「あれ」と気が付くと、妹とお母さんが引き戸を開けて聞いて居て。お母さんが「上手いわねぇ」と言った。私は二人を見たが妹の方も笑顔で見て居る。私は何か照れ臭くなって。「もう時間が遅いよ。ここは防音だから、つい長居をして仕舞った」と言って。
「じゃあ学園祭は明後日だから、お前、学校は大丈夫か?時間は多分遅いだろう。出番は午後3時以降だからさ 」と言って時間ももう遅いと帰ろうとして玄関先で靴を履いて居たら。妹がやって来て、「〇〇君、お兄ちゃんとやるの?」と聞いて来たので「うん、学園祭でね」と言ったら微笑んで居た。私は可愛い子の頬笑みに弱い。特に直斗の妹は美人で可愛いのだ。私は照れて仕舞った。ちなみに今でも優しい言葉を掛けてくれる女性は好きだ。此間もCS放送の「ニュース・バード」を見て居て、余りにアナウンサーが可愛いので一目惚れして仕舞った。幾つになっても可愛い子には目が無い。そして学園祭当日、直斗はフェンダーのベースを持ってやって来た。演奏の順番と時間は、まだ、分かっては居なかったが我々は、軽く音合わせをして本番に臨んだ。時間は学園祭の実行委員会の連中が、なんか「ハイファイ・セット」が来るとかで纏めるのに時間が掛かったが、要約自分らは最後の方で持ち時間は15分と決まった。決まれば後は曲順だ。私たちはツイン・ギターでもう一人のギタリストがデュアン・オールマンのスライド・ギターの曲「ステッポロ・ブルース」をやり。私は「ストーミー・マンディ」をやろうと決めた。ベースは上手い直斗だ。任せられる、しかしギターが悩んで居てドラムと話して居る。私が「どうしたんだ」と聞くと。彼はオープン・チューニングで行こうかどうか決めかねて居たのだ、ギターを弾く人間はわかって居ると思いますが。オープン・チューニングは、ブルースギターではよくやるチューニングだ。特にスライドでは、要するに開放弦で和音が出来るので。ブルースギターではよく使うチューニングなのだ。
良く使われるオープンチューニングにはD、E、G、Aの主に4つがあります。
一見チューニングの種類ごとに奏法を覚えるのは大変そうに思いますが、実際には「E」は「D」の各弦を1音づつ上げたもので奏法は全く同じです。
「A」と「G」も同様なので「DとG(あるいはEとA)」の2つのチューニング上での奏法を覚えれば良いのです。
しかもこの2つも奏法的に共通点が多いので、実際にはそれほど多くのことを覚える必要はないのです。 今はカントリー・ブルースで良く使う「オープンG」の奏法を中心に説明します。
(レギュラーチューニングからオープンGへ)
もちろん、チューナーを使ってもいいのですが、簡単なので覚えて置きましょう。
オープンGでは1、5、6弦をレギュラーチューニングから一音下げます。
2弦(B)、3弦(G)、4弦(D)はレギュラーの侭ですね。
- 先ず1、5、6弦を適当に緩めて置きましょう。(チューニングは低い音から巻きながら合わせるのが基本!)
- 1弦と6弦を4弦(D)に合わせます。
- 次に5弦を3弦(G)に合わせます。
オクターブ違いのチューニングが聞き取りにくければ、低い方の弦を12フレットのハーモニクスで鳴らす。
このチューニングをすると3連のコードなどが簡単に弾けるのです。私は「迷わずにオープン・チューニングで行けよ」と言った。時間が来て自分らの出番になった。私が簡単に曲の紹介を言って、まずギターの本間が「ステッポロ・ブルース」を演奏した。完璧だった、非の打ち処が無い。完璧にコピーをして居た。オールマン・ブラザーズ・バンドの「フィルモア・イーストのライブ」を完璧にコピーして居る。ボトルネックが空を駆け巡った。私はサイドギターでスリーコードを弾いた。演奏が終わると。拍手が起こった。上手かった。次は私の番だ曲は「ストーミー・マンディ」Tーボン・ウオーカーの名曲だ、私はこの曲は何時もはロバート・Jr.・ロックウッドのバージョンで演奏して居るが。この日は白人のギタリストのマイケル・ブルームフィールドの感覚で弾いた。私は弾きながら直斗の妹の「ミキちゃん」とお母さんが来て居ないか会場を見た。しかし二人を見つける事は出来なかった。二人は来て居ないのかと内心少し気落ちしたが頑張って弾いた、反応は良かった。コンサートが終わり。出場したバンド皆んなで記念写真を撮ろうとしたら。直斗が女の人と話して居る。そうしたら私に「大変な事になった、すぐに帰る」と言って、タクシーを拾い帰って仕舞った。
私はギターの本間とドラムの小林と他のバンドの連中と写真を撮り。腹が減ったので学園祭の屋台のたこ焼きと、焼きそばを食べ。それにコーヒーを飲んで。高校最後の学園祭を楽しんだ。その日の夜になって。直斗から電話が掛かって来た、お母さんが急死したのだと言う。原因は脳溢血だった。私はそれで、あのお母さんは娘に暴力を奮ったのかと解った気がした。直斗は気丈に泣きはしなかった。考えて見れば彼は早稲田の文学部に受かって居て。これから妹の面倒を見ながら、どうやって生活をして行くか。今考えれば頭が一杯だったのだろう。本当に悲しい目に会うと人間は泣けないものだ。彼は親戚の援助と奨学金と持ち金にアルバイトをしてこの危機を乗り越えた。妹は大学処では無い。高校卒業と共に働いた。二人とも頑張った。
人にはこんな事がと思う事が起きるものだ。直斗はその後、新聞記者になった。以前、直斗の妹から電話が掛かって来て「私に頼みがある」と言われて会った事がある。彼女の頼みは「あの学園祭の演奏を聞きたい」と言う事だった。私は喫茶店で20歳に成って居た彼女と会って録音したカセットテープを渡した。そうしたらミキちゃんは涙目で言った。「お母さんを安心させられなかった事が悔やまれて...。」と。私が「何故テープを今頃聴きたくなったの」と聞くと。彼女は微笑んで言った。「あの日、お母さんと明後日、学園祭に行くのを楽しみにして居た。」と言う。学園祭には行けなかったけど。お母さんは自分と観に行くのを楽しみにして居たと言う。お母さんとの共通の学園祭でのライブを観に行くと言う認識が持てたのだ。だから私は「そのテープは君に挙げるよ」と言った。そう言うと彼女は「ありがとう!!」と言って嬉しそうに、カセットテープを持って、今、働いて居る、会社の寮へと帰って行った。私は帰りは何故か歩いて帰った。そして、煙草屋でマイルドセブンを買い。百円ライターでタバコに火を付けたら何だか涙が出て来た。私は上を向いて歩いた。ミキちゃんの幸せを祈って。
Spider In My Stew
The Allman Brothers Band - Statesboro Blues ( At Fillmore East, 1971 )
kiyasumeの弾く、ストーミーマンディー
〜エッセイ〜