福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

10月27日(土)のつぶやき

2018-10-28 02:12:36 | 0 話題& ひろい読み &つぶやき

金沢城 界隈

2018-10-28 01:00:14 | 金沢の旅
兼六園を一回りして
金沢城へ向かう
桂坂口 辺りから石川門を望む 西陽を受けている
松の木がメチャ多い


石川門口




橋爪門続櫓を望む


50間長屋 右端→菱櫓 左端→橋爪門続櫓

河北門


土塀

30間長屋へ


高台なので町が見える

きた道を帰る
夕陽を浴びる菱櫓

旧陸軍の軍施設 トンネル


★土塀



石垣について









河北門から菱櫓西陽



pm17:00 閉門 早めに夕食

帰りに



2018.10.21. 金沢城周辺にて

ホテルまで徒歩、歩道は真っ暗ですね〜人も歩いていない。近い所だけど方向を間違えて思わぬ時間。
真っ暗闇でGoogle 地図 役に立ちませんでしたわ
大笑いの巻でした


余談

★金沢城概要

金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。
なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られている[2]が、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている[3][4]。
城址は明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていた。

加賀藩


10月26日(金)のつぶやき

2018-10-27 02:09:33 | 0 話題& ひろい読み &つぶやき

ひがし茶屋街界隈にて

2018-10-27 01:00:28 | 金沢の旅
金沢駅からバスで移動 揚場町下車
浅野川大橋を渡る


とんびが多いのにびっくり

浅野川大橋を渡り

ぶらぶらして見る

文政3年 1820年 加賀藩の政策によりこの地を浅野川茶屋町として町割りした。格子戸と2階の階高の建物が軒を連ねた特有の街並みは藩政時代のままに残されている。

歩きながら
極一部です
スナップ写真






路地に 着物姿

正面 紅い建物 金沢しつらえ

右折し



志磨 国指定 重要文化財 見学に荷物は全て預けるのでカメラもダメです。スマOK です








金箔の蔵





路地は人気もない













ぐるり一回り


★ 木虫籠と書いて「キムスコ」または「キムシコ」と読みます。金沢の町家の特徴である格子の割付が細かい出格子を指す言葉で、インドのベンガル地方の赤色顔料を用いたことから「弁柄(紅殻)格子」とも呼ばれます。

外から中は見え難いが中から外はよく見える



やはり スイーツ系が多い



歴史を刻む白壁ですね〜
早足で一回り 次のスポットへ

2018.10.21. 金沢 ひがし茶屋町にて 早足スナップです!

★概要
東山ひがし(ひがしやまひがし)は、石川県金沢市の地区名。重要伝統的建造物群保存地区であり、ひがし茶屋街(ひがしちゃやがい)の名称で知られる。南北約130m、東西約180m、約1.8haで、保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物であり、茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残る。金沢の主な観光地の1つになっている
★歴史
天正8年(1580年)に佐久間盛政が金沢御坊を攻略して金沢城を築城したのち、天正11年(1583年)に前田利家が入城し、金沢城下は城下町として栄える。加賀藩では領民にも謡を奨励して多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がった。金沢は「空から謡(うたい)が降ってくる」と言われるほどの町になった。そんな風情が一番残っている町である。
江戸時代、城下町近郊を流れる犀川・浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並んだ。文政3年(1820年)、加賀藩の許可を得、犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が共に開かれ、大いに賑わった。この際、旧来の不整形な町割は改められ、整形な街区が形成された。浅野川をはさんで北西には、茶屋街の1つである主計町がある。
茶屋町創設時の敷地割をよく残し、全国でも希少な茶屋様式の町屋を多く残しているとし、2001年11月14日、種別「茶屋町」で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。二番丁にある茶屋「志摩」は、歴史的価値が高いことから2003年12月25日に国の重要文化財に指定され、一般公開されている。
金沢生まれの作家井上雪の小説『廓のおんな』では物語の舞台(旧「愛宕町」)とされ、伝統的な金沢弁で描写されている。

★志磨




10月25日(木)のつぶやき

2018-10-26 02:10:18 | 0 話題& ひろい読み &つぶやき