浄土真宗親鸞会 伏木桜の集い

富山で親鸞聖人の教えを学ぶ仲間たちのブログです

「九十里は、百里の半ばなり」

2009-08-30 19:14:22 | Weblog


■今日のおすすめの本です。
 『こころの道』(1万年堂出版)。
 その中の一節を紹介しましょう。

 「過ちは、難しい時ではなく、易しい時に起きる」のタイトルで、
 『徒然草』の高名の木のぼりが紹介されていました。

 「木登りの名人」といわれている人が、高い木に一人の男を登らせ、剪定作業を
 させた。無事に終え、家の軒の高さくらいまで、その男が下りてきた時に初めて、
 「危ないぞ。気をつけろ」
 と、言葉をかけたという話です。

 『こころの道』には、次のように書かれています。

 兼好は、名人に尋ねた。
「これくらいになれば、飛び下りることもできる。なぜ、今になって注意するのか」
「ここが大切なのでございます。目が回るほど高い所で、今にも折れそうな枝に
つかまって作業している時は、本人が十分注意していますから、あえて言う必要が
ありません。
 過ちというものは、易しい所に来て、もう大丈夫と、心に油断ができた時に、
必ず起きるものなのです」
 『こころの道』(1万年堂出版)


■ちょっと前の『毎日新聞』(090731)にも、この『徒然草』の「高名の木登り」が
紹介された後に、次のような話が続いていました。
(転ばぬ先の智恵 武藤芳照氏)

 東京消防庁の皆さんとともに、さまざまな調査研究をした縁で、現在も同庁の
永井秀明・救急指導課長や、岡部綱好・成城消防署長をはじめ、消防行政の
方々と親しくしています。彼らの経験によると、
「火災現場では、懸命に消火活動をしているときは、はしごに登っていても
不思議にけがをする消防士はいない。しかし、鎮火してほっとした空気が
流れる中、はしごの最後の一段を踏みはずして転んだり、片付けの途中で
地面に横たわるホースにつまずいて転び、けがをする例が少なくない」
とのことです。
 日ごろ厳しい訓練を続けて体を鍛え、修羅場をくぐり抜けて経験を積み上げた
消防士でさえ、ふと気がゆるんだときに足元が揺らぐ、というのです。

■これは、何も、木登りとか、消防士だけに限った話ではなく、全てのことに
 通じる教訓ではないでしょうか。

 私にも、あります。

 中学時代に陸上競技をしていて、中距離を走っていた時、顧問の先生に
 言われた言葉が、
 「ゴールのテープが見えても、スピードを緩めるな。テープの先がゴールだと
 思って、駆け抜けろ」
 でした。
 最後になると、どうしても力が抜けることを知ってのアドバイスだったと
 いえます。


■何事も、いかに最後まで気を抜かずに求めることが大切か、分かります。

 まして、未来永遠の幸福を求めている私たちは、最後まで全力疾走ですね。

 『白道燃ゆ』(高森顕徹先生著)には、次のように教えてくださっています。

「九十里は、百里の半ばなり」
という言葉がある。多分、唐の顔真卿の言葉だと記憶しているが、人間は誰でも、
初めは騎虎の勢いで元気よく出発する。ところが次第に、その勢いが衰えて、
初めの気持ちは何処へやら、今少しというところで気をゆるめて、折角の大事を
挫折させてしまう者が多い。それをいましめた金言である。
「初心、忘るべからず」と能楽の完成者、観世流の第二祖、世阿弥元清は常に
弟子達に戒めている。芸道を学ぶに一番大切なことは、初入門の時の心を、
一生忘れてはならないというのである。厳しい芸道に挫折する者が多かったからで
あろう。
 これは、総ての職業人にも通ずることではあるが、特に、真実の仏法を求め、
絶対の幸福を目的としている、我々真宗人にとっては、最も大切な心がけと
いわねばならぬ。
 中でも青年は、熱し易くさめ易い。真実一杯を聞かされた当初は、一切を
なげうっても一生この真実にかけようと、火の玉に燃え上がる。しかし一生参学の
大事は一朝一夕で解決のできるものではない。
 その道はけわしく、しかも遠いことに驚く。しかも「この道や、行く人なしに
秋の暮れ」で、真実一路は孤独なのである。
「仏道を求むることは、大千世界を持ちあぐるよりも重し」
と軟心の菩薩を叱りとばした龍樹菩薩の言葉も、今更のように身に沁みてくる。

 
 最後まで、あきらめずに、光に向かって進ませていただきたいと思います。


「埼玉県の人で、仏法を聞きたいという人があったよ」と川口さん

2009-08-28 19:50:31 | Weblog


■クリーニング店をしている川口さんの目標は、毎日法施をすることです。
 (4月8日のこのブログに紹介しているので、読んで下さいネ)

 お客さんに話をする、話できる相手がいない時はハガキを書くと、毎日
 法施を実践しておられます。

■先日のこと。
 「埼玉県の人で、仏法を聞きたいという人があったよ」と言われます。


 (とっさの状況判断ができず、愚問だと知りつつも)

 「えぇ、埼玉県?まさか埼玉まで行ってこられたんですかぁ!!」
 (ここは富山県です、念のため)


■「なぁ~ん、違うわいね」(やや、険しい口調・・)


 (まだ状況判断ができずに)
 「埼玉に親戚の人がおられるとか・・?」


 (さらに険しい口調で)
 「違う違う!!今日話した人が、埼玉県出身の人で、今仕事で伏木に来て
 いるということや。その人がご縁がありそうやったの」

 

■よくよく聞かないとわからない埼玉県でしたが
 (これは私が鈍いからですが)、

 わかったことは、川口さんは、常にいろいろな人に仏法の話をして
 おられるということでした。


80后って、知ってますか?

2009-08-10 19:34:41 | Weblog


■「80后」って、ご存知ですか?
 80人の后??いいえ、違います。

 中国出身のJさん(富山県射水市在住、翻訳業)によると、
 「これは中国で、1980年代に生まれた今の20代を言うのです。私も、80后です!」
 とのことです。

 80后は、それまで中国が経てきた経済的な苦労とか戦争などの経験もなく、
 物質的に恵まれた年代といいます。


■その80后を代表するアーティスト・田原(ティエンユエン)さんが、
 『アエラ』(09.8.3号)に紹介されていました。
 略歴を述べると、16歳でバンドのボーカルとしてデビュー後、作詞作曲もこなす。
 女優としても数々の映画に出演して、香港の映画新人賞も受賞しています。

 さらに、07年には、『水の彼方』(邦題)を出版していて、同世代に支持を受け、
 数カ国で出版へ。日本でも今年6月に出ています。

 非常に多才な彼女です。
 が……、それだけに、
 『アエラ』(09.8.3号)に紹介されていた次の言葉が、印象に残っています。

「お金があっても有名になっても、満たされない思いがある。自分の存在とは何か、答えがない問いをずっと考えている」


■普通なら、これだけ、名誉とか才能に恵まれていれば、将来も明るくて、
 悠々自適に暮らせるのではとの思いが、少なからずあるじゃないですか。
 だから、お金や財産、名誉や地位などを幸せへの条件として、
 追い求めるわけです。

 けど、いざそれらを手にしても、求めていた安心とか満足はないようで。

 成功者の言葉って、往々にして、手放しで「ハッピー」なものは少ないわけです。
 秀吉ほどの成功をおさめた天下人でも、辞世の句はさびしいものが
 あります。


■でも、そうではなくて、たとえ、物に恵まれなくとも、お金がなくても、幸せを
 感じることってあります。
 それは、幸せとか不幸とか感じるのは、「こころ」だからです。
 物が無くても、心が明るければ幸せだし、逆に、どんなに物に恵まれていても、
 心が暗ければ、幸せだとは思えない。

 だから、幸せっていうのは、心からの、「安心、満足」が得られること。
 そのことについて、仏教に、詳しく教えられています。