■今日のおすすめの本です。
『こころの道』(1万年堂出版)。
その中の一節を紹介しましょう。
「過ちは、難しい時ではなく、易しい時に起きる」のタイトルで、
『徒然草』の高名の木のぼりが紹介されていました。
「木登りの名人」といわれている人が、高い木に一人の男を登らせ、剪定作業を
させた。無事に終え、家の軒の高さくらいまで、その男が下りてきた時に初めて、
「危ないぞ。気をつけろ」
と、言葉をかけたという話です。
『こころの道』には、次のように書かれています。
兼好は、名人に尋ねた。
「これくらいになれば、飛び下りることもできる。なぜ、今になって注意するのか」
「ここが大切なのでございます。目が回るほど高い所で、今にも折れそうな枝に
つかまって作業している時は、本人が十分注意していますから、あえて言う必要が
ありません。
過ちというものは、易しい所に来て、もう大丈夫と、心に油断ができた時に、
必ず起きるものなのです」
『こころの道』(1万年堂出版)
■ちょっと前の『毎日新聞』(090731)にも、この『徒然草』の「高名の木登り」が
紹介された後に、次のような話が続いていました。
(転ばぬ先の智恵 武藤芳照氏)
東京消防庁の皆さんとともに、さまざまな調査研究をした縁で、現在も同庁の
永井秀明・救急指導課長や、岡部綱好・成城消防署長をはじめ、消防行政の
方々と親しくしています。彼らの経験によると、
「火災現場では、懸命に消火活動をしているときは、はしごに登っていても
不思議にけがをする消防士はいない。しかし、鎮火してほっとした空気が
流れる中、はしごの最後の一段を踏みはずして転んだり、片付けの途中で
地面に横たわるホースにつまずいて転び、けがをする例が少なくない」
とのことです。
日ごろ厳しい訓練を続けて体を鍛え、修羅場をくぐり抜けて経験を積み上げた
消防士でさえ、ふと気がゆるんだときに足元が揺らぐ、というのです。
■これは、何も、木登りとか、消防士だけに限った話ではなく、全てのことに
通じる教訓ではないでしょうか。
私にも、あります。
中学時代に陸上競技をしていて、中距離を走っていた時、顧問の先生に
言われた言葉が、
「ゴールのテープが見えても、スピードを緩めるな。テープの先がゴールだと
思って、駆け抜けろ」
でした。
最後になると、どうしても力が抜けることを知ってのアドバイスだったと
いえます。
■何事も、いかに最後まで気を抜かずに求めることが大切か、分かります。
まして、未来永遠の幸福を求めている私たちは、最後まで全力疾走ですね。
『白道燃ゆ』(高森顕徹先生著)には、次のように教えてくださっています。
「九十里は、百里の半ばなり」
という言葉がある。多分、唐の顔真卿の言葉だと記憶しているが、人間は誰でも、
初めは騎虎の勢いで元気よく出発する。ところが次第に、その勢いが衰えて、
初めの気持ちは何処へやら、今少しというところで気をゆるめて、折角の大事を
挫折させてしまう者が多い。それをいましめた金言である。
「初心、忘るべからず」と能楽の完成者、観世流の第二祖、世阿弥元清は常に
弟子達に戒めている。芸道を学ぶに一番大切なことは、初入門の時の心を、
一生忘れてはならないというのである。厳しい芸道に挫折する者が多かったからで
あろう。
これは、総ての職業人にも通ずることではあるが、特に、真実の仏法を求め、
絶対の幸福を目的としている、我々真宗人にとっては、最も大切な心がけと
いわねばならぬ。
中でも青年は、熱し易くさめ易い。真実一杯を聞かされた当初は、一切を
なげうっても一生この真実にかけようと、火の玉に燃え上がる。しかし一生参学の
大事は一朝一夕で解決のできるものではない。
その道はけわしく、しかも遠いことに驚く。しかも「この道や、行く人なしに
秋の暮れ」で、真実一路は孤独なのである。
「仏道を求むることは、大千世界を持ちあぐるよりも重し」
と軟心の菩薩を叱りとばした龍樹菩薩の言葉も、今更のように身に沁みてくる。
最後まで、あきらめずに、光に向かって進ませていただきたいと思います。