満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

3-18 関東国造の系図

2012-05-25 | 記紀解読
前回も書いたが、先代旧事本紀の国造本紀の系図は、記紀などの他の資料で確認できるものが多い。
今回はかなり長くなるが、関東の国造に関する情報を、まとめてみる事にする。


先ず、先代旧事本紀の国造本紀の中で、関東の国造がどのように書かれているか、系統ごとに整理してみよう。

无邪志  武蔵 成務 出雲臣の祖の二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命を国造に定めた
胸刺   武蔵    岐閉国造の祖の兄多毛比命の子の伊狭知直を国造に定めた
菊麻   上総 成務 无邪志国造の祖の兄多毛比命の子の大鹿国直を国造に定めた
相武   相模 成務 武刺国造の祖の伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命を国造に定めた

上海上  上総 成務 天穂日命の八世孫の忍立化多比命を国造に定めた
下海上  下総 応神 上海上国造の祖の孫の久都伎直を国造に定めた

阿波   安房 成務 天穂日命の八世孫の弥都侶岐命の孫の大伴直大瀧を国造に定めた
伊甚   上総 成務 安房国造の祖の伊許保止命の孫の伊己侶止直を国造に定めた
新治   常陸 成務 美都呂岐命の子の比奈羅布命を国造に定めた
高    常陸 成務 弥都侶岐命の孫の弥佐比命を国造に定めた

茨城   常陸 応神 天津彦根命の孫の筑紫刀祢を国造に定めた
師長   相模 成務 茨城国造の祖の建許呂命の子の意富鷲意弥命を国造に定めた
須恵   上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の大布日意弥命を国造に定めた
馬来田  上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の深河意弥命を国造に定めた
道口岐閉 常陸 応神 建許侶命の子の宇佐比刀祢を国造に定めた
筑波   常陸 成務 忍凝見命の孫の阿閉色命を国造に定めた

上毛野  上野    崇神天皇の皇子の豊城入彦命の孫の彦狭嶋命は、東の十二国を平らげ国造に封ぜられた
下毛野  下野 仁徳 毛野国を分けて上毛野・下毛野とし、豊城命の四世孫の奈良別を国造に定めた
那須   下野 景行 建沼河命の孫の大臣命を国造に定めた
久自   常陸 成務 物部連の祖の伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼を国造に定めた

武社   上総 成務 和邇臣の祖の彦意祁都命の孫の彦忍人命を国造に定めた
印波   下総 応神 神八井耳命の八世孫の伊都許利命を国造に定めた
仲    常陸 成務 伊予国造と同祖の建借馬命を国造に定めた(伊余国造は印幡国造と同祖とある)
知々夫  武蔵 崇神 八意思金命の十世孫の知々夫命を国造に定め、大神をお祀りした

関東以外でも、兄多毛比の子孫は「波伯(伯耆)・大嶋」で国造になっている。
同様に、建許呂自身が「石城」で、建許呂の子孫が「道奥菊多・石背・周防」で、国造になっている。


次に、記紀や風土記に、関東の国造について、どのような情報があるのかみてみよう。

古事記で、関東の国造について書かれているのは、次の10カ国である。(上毛野君のように国造という言葉が無いものも含む)
天穂日の子孫    无邪志・上菟上(上海上)・下菟上(下海上)・伊自牟(伊甚)
天津彦根の子孫   馬来田・道尻岐閇(道口岐閉)
神八井耳の子孫   常道仲(仲)
天押帯日子の子孫  牟邪(武社)
豊城入彦の子孫   上毛野・下毛野

日本書紀には、全30巻の他に、現在では失われた系図1巻があったとされる。そのためか、古事記に比べ子孫の記載が少ない。
日本書紀で確認できるのは、上毛野・下毛野ぐらいである。

常陸国風土記には、次の5カ国について、国造の由来が書かれている。

新治    崇神天皇の時、東夷の荒賊を討つため、新治国造の祖の比奈良珠命を遣わした。
筑波    筑波の県は古くは紀の国といった。崇神天皇の時、采女臣の友属の筑箪(つくは)命を紀の国造として派遣した。
      筑箪命は「自分の名を国につけて、後代に伝へたい」といって、国名を筑波と改めた。
茨城    茨城国造初祖の多祁許呂命は、神功皇后朝に応神天皇誕生の時まで仕えた。
      多祁許呂命には8人の子がいた。中男の筑波使主は、茨城郡湯坐連等の初祖である。
那賀(仲) 崇神天皇の時、東垂の荒賊を平らげようと、建借間命を遣わした。これは那賀国造の初祖である。
多珂(高) 成務天皇の時、建御狭日命を多珂国造に任じた。・・・建御狭日命は出雲臣と同属である。

この内の、新治・茨城・仲・高の4カ国は、漢字表記などの違いはあるが、国造本紀の内容と合致する。
また、下に示す「筑箪ー忍凝見ー建許呂」という系図も伝わっており、これが正しければ、筑波も、国造本紀と矛盾しない。


このような古い文献だけでなく、現代に伝わる系図からも、国造本紀の内容を確かめる事が出来る。

武蔵国の一宮だった氷川神社には、現在三つの社家がある。下の系図はその内の1つの西角井家に伝わるものである。
(途中で娘婿が跡を継いだり、養子を取ったりしており、天穂日から男系で現在まで続いている訳ではない。)
「埼玉叢書(第3巻)」という本の中で、明治初期までの西角井家の詳しい系図を見る事ができる。


天穂日 ー 天夷鳥 ーーー 伊佐我(出雲国造等祖)
           l
           lー 出雲建子 ー 神狭 ー 身狭耳 ー 五十根彦 ー 天速古 ー 天日古曽乃已呂 →→
             (伊勢都彦)

  →→ 忍兄多毛比 ー 若伊志治 ーーー 兄多毛比(成務朝に无邪志国造・氷川の神の祭主)
                   l
                   lー 乙多毛比(別名:弟多気彦・成務朝に相武国造)


この系図では、无邪志国造と相武国造が同祖とする国造本紀の記述を確認する事ができる。
ただし、「二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命」「伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命」という世代数とは、ズレがある。
また、注書きに、「出雲建子の別名は伊勢都彦で、始め伊勢国の度会にいたが神武天皇の時に東国へ来た」と書かれている。


他にも、関東国造に関する系図は、いろいろな所に伝わっているようだが、系図の専門家でなければ調べ上げる事はできない。
そこで、1つ1つの生の系図ではなく、複数の系図をまとめて出来たものを紹介する事にする。

系図の収集・編纂の分野では、江戸末期から明治時代の鈴木眞年氏の功績が大きいようである。
鈴木眞年氏の著書としては、「諸系譜」「百家系図稿」が代表的なようだが、どちらも非常に古くて簡単には見られない。

そこで、ここでは「古代氏族系譜集成」(宝賀寿男)という本を利用する事にする。
この本では、「諸系譜」「百家系図稿」やその他の系図を、さらにまとめて1つにしたものを載せている。
以下に示す3つの系図は、「古代氏族系譜集成」記載の系図から、国造に関係する部分を抜き出したものである。

また、名前が似ていてややこしいが、「古代豪族系図集覧」(近藤敏喬 )という本もある。
「古代氏族系譜集成」等から、系図の重要な部分を集めたものであり、こちらの方が入手しやすいかも知れない。
下の1つ目の系図は、「古代豪族系図集覧」でも、建御狭日の子以外は見る事ができる。
また、3つ目の系図も「筑箪ー忍凝見ー建許呂」までは、「古代豪族系図集覧」に書かれている。


先ずは、「関東の天穂日の子孫の系図」を紹介しよう。
この系図では、国造本紀に書かれた、関東の10カ国全てが確認できる。また、国造本紀にはない、千葉国造の名前も見られる。


天穂日 ー 天夷鳥 ーーー 伊佐我(出雲国造家の本流)
           l
           lー 出雲建子 ー 神狭 ー 身狭耳 ー 五十根彦 ー 美都呂岐 →→

  →→ ーーーー 比古曽乃凝 ーーー 建御狭日(高国造)  ーーー 兄狭日直(多珂国造)
      l                          lー 伊已侶止直(伊甚国造)
      l                          lー 大滝直(安房国造)
      l
      lーー 忍立化多比 ーーー 兄多毛比(武蔵国造) ーーー 荒田比乃宿禰(武刺国造) →→(武蔵国造本流)
      l          l               lー 大鹿国直(菊麻国造)
      l          l               lー 穴倭古直(大島国造)
      l          l               lー 大八木直(伯岐国造)
      l          l
      l          lー 忍立毛比(上海上国造)ー 五十狭茅宿禰 ーーー 長止古直(上海上国造)
      l          l                       lー 久都伎直(下海上国造)
      l          l                       lー 武多乃直(千葉国造)
      l          lー 弟武彦(相武国造)
      l
      lーー 比奈良珠(新治国造)


この系図は、複数の系図を、何段階かの作業を経て、1つにまとめたものである。
「古代氏族系譜集成」の注釈にもあるが、元となった系図ごとに、部分的な違いがある。
その中でも特に重要なのが、国造本紀にも名前が登場する「美都呂岐」までの部分である。
上の系図では、美都呂岐は出雲建子の子孫となっているが、美都呂岐が出雲の本流の子とされている系図もある。


それが、次に示す、「出雲国造家の本流の系図」である。美都呂岐の名が、出雲振根や飯入根と近い所にある。
(瓱という字は、瓦へんに長)


天穂日 ー 天夷鳥 ーーー 伊佐我 ー 都我利 ー 櫛瓱前 ー 櫛月 ー 櫛瓱鳥海 ー 櫛田 →→
           l
           lー 出雲建子 

  →→ 知理 ー 世毛呂須 ーーー 阿多   ーーー 出雲振根
                l        lー 飯入根 →→(出雲国造家の本流)
                l        lー 甘美乾飯根 ー 野見宿禰(土師氏・菅原氏等祖)
                l
                lー 美都呂岐 ーーー 比古曽乃凝
                         lー 忍立化多比
                         lー 比奈良珠


最後は、「天津彦根の子孫の系図」である。
この系図の注書きには、「建許呂が、日本武尊が東夷を征する時に随従した」とある。


天津彦根 ー 天御影 ー 意富伊我都 ーーー 彦伊賀都 ー 天夷沙比止 ー 川枯彦 →→
                    lー 阿多根(山背国造祖)
                    lー 彦己曽根(凡河内国造等祖)

  →→ 坂戸毘古 ーーー 国忍冨 ーーー 大加賀美 ーーー 鳥鳴海 ー 八倉田 →→(近江の三上氏の本流)
           l       l        l
           l       l        lー 速都鳥(穴門国造)
           l       lー 水穂真若
           l       l
           l       lー 筑箪 ー 忍凝見 ーーー 建許呂 ーーー 意冨鷲意弥(師長国造)
           l       l            l       lー 大布日意弥(須恵国造)
           l       lー 加志岐弥      l       lー 深川意弥(馬久田国造)
           l                    l       lー 建弥依米(石背国造)
           l                    l       lー 筑波使主(茨城国造)
           l                    l       lー 屋主刀祢(菊多国造)
           l                    l       lー 宇佐比刀祢(道口岐閉国造)
           l                    l       lー 加米乃意美(周防国造)
           l                    l
           l                    lー 阿閉色(筑波国造)
           l
           lー 建勝日 ー 意美津奴彦(甲斐国造)

3-17 先代旧事本紀

2012-05-16 | 記紀解読
国造本紀の系図が正しければ、崇神以前の関東は天穂日の子孫達の支配地と言えるだろう。問題は、国造本紀の信頼性である。


そもそも、「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」自体が、江戸時代に偽書と判定されている。

江戸時代まで、先代旧事本紀は、日本書紀・古事記とともに「三部の本書」と呼ばれ、古代日本の歴史書として尊重されてきた。
「神代・人代」のタイトルこそ無いものの、その構成は記紀とよく似ている。また、内容も、記紀と共通するものが多い。
序文には、「聖徳太子が編纂していた歴史書を、死後、蘇我馬子がまとめた」とあり、完成の年も推古三十年と書かれている。
聖徳太子との関連から、先代旧事本紀は、古事記よりも尊ばれ、日本書紀に次ぐ評価を受けていた。

ところが、江戸時代になると、序文に聖徳太子の撰とあるのに、それ以降の歴史も記されている事から、偽書との判定を受ける。
また、同じ頃、本居宣長が、古い時代の日本を知るには古事記が第一と説いたため、それ以降は、あまり注目されなくなった。
現在では、先代旧事本紀の内容だけでなく、その名前や存在を知る人も少なくなっている。

「偽書」という言葉を聞くと、ありもしない架空の歴史を書き連ねたもの、という印象を受ける。
しかし、江戸時代の「偽書」という判定は、あくまでも、それまで信じられていた「聖徳太子の撰」ではないという意味である。
先代旧事本紀に書かれている事がデタラメという意味ではない。

現在では、先代旧事本紀はオリジナルな歴史書でなく、記紀や古語拾遺などの寄せ集めだというのが定説となっている。
本居宣長も書いているが、文体や固有名詞の表記法の違いから、どの部分がどの歴史書からの引用か、はっきり分かるらしい。
様々な歴史書の「つぎはぎ」であるから、その内容の正しさは、記紀などの引用元で、一つ一つ判断するべきである。
先代旧事本紀を一括して、信用できるか出来ないか議論しても意味がない。また、「偽書」との判定も根拠にならない。
そして、半分以上が記紀の引用である事から、記紀を信用する立場ならば、先代旧事本紀も信じていいという事になる。


正しいか正しくないか、見極めが難しいのが、他の歴史書にはなく、先代旧事本紀のみに見られる部分である。

先代旧事本紀には、物部氏の始祖である饒速日(ニギハヤヒ)に関する、他の歴史書にはない記述がある。
(このため、先代旧事本紀は物部系の人が書いたと推定されており、作者の候補として何人かの名前が挙がっている。)

他の歴史書では別人とされる饒速日と天火明が、先代旧事本紀では同一人物とされている。
また、ニニギの兄とされている「饒速日=天火明」が多くの神々を連れ、高天原から大和へ天降る話も書かれている。
さらに、他の文献では、饒速日の子とされる宇摩志麻治と、天火明の子とされる天香語山の、それぞれの子孫達の系図もある。

天降りの話には明らかにおかしな所がある。しかしその一方で、宇摩志麻治や天香語山の系図は他の文献と一致する。
饒速日に関する伝承は、先代旧事本紀の中でも、真偽の判断が特に難しい部分であり、ここで簡単に答えを出せるものではない。


もう1つ、他の歴史書に見られないのが、問題となっている「国造本紀」である。
現在名前が分かっている国造の、ほぼ全ての祖先が1つの資料にまとまっているのは、先代旧事本紀の国造本紀だけである。

ただし、記紀などの他の文献で、祖先が分かる国造も、少なからずいる。
古事記には、「沙本毘古王は、日下部連・甲斐国造の祖である」「豊国別王は、日向国造の祖である」のような記述が多い。
また、神社等に伝わる系図に、国造とその祖先が書かれている事もある。

重要なのは、これらの系図から分かる祖先と、国造本紀に書かれている祖先が、ほとんどの場合一致している点である。
また、先代旧事本紀の作者と推定される物部氏にとって、国造本紀の内容は特に有利になっていない。
このため、先代旧事本紀の他の部分の評価は別として、国造本紀だけは資料として信頼できる、と考える人が多いのである。

3-16 関東の国造

2012-05-10 | 記紀解読

前回書いたように、国譲りは、出雲だけでの話ではない。平和的でもない。日本の広い範囲で戦いがあったのである。
文字による記録はないが、次のような事が起こったと想像できる。

大国主は葦原中国と呼ばれる国を作ったとされる。その領域ははっきりしないが、記紀や風土記では越との交流が書かれている。
出雲が陥落しただけでは戦いが終わらず、建御名方と供に、日本海を東へ逃げた人が大勢いたとしても不思議はない。
建御名方は途中でそれて諏訪へ向かったが、日本海ー千曲川ー碓氷峠という当時の幹線に沿って、関東に逃げた人もいただろう。
どちらかと言えば、名前は伝わっていないが関東へ入った方が主力であり、建御名方の方が別働隊だった可能性が高い。

経津主と武甕槌も、本隊の方を追って碓氷峠を越える。そして、それ以上逃げ場のない関東で、敵を滅ぼす。
この時の勝利を記念して、何らかのモニュメントが作られ、それが後に香取神宮と鹿島神宮になったと思われる。
彼らは、自分達の意志で関東を目指したのではない。逃げる敵を追いかけた結果、最果ての地にたどり着いたのである。
しかしながら、追っ手の中には、引き続きその地にとどまり、弥生日本で最も遅れた地域の開発に力を注ぐ者も現れた。

意外かも知れないが、関東の土台を築いたのは、遠い出雲の地での国譲りに関係のあった高天原の人達なのである。
そして、その証拠の1つが、今回取り上げる関東の「国造」である。


律令の時代になると、地方は国・郡・里(郷)に整理され、公地公民が原則となり、国司が中央から派遣されるようになった。
しかし、それ以前は、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)という地位を、地方の有力豪族が世襲していた。
国造の正確な数は不明だが、現在140前後の名が伝わっており、その数は律令制の国より多い。
古事記には、成務天皇の時に国造と県主を定めたとある。日本書紀にも、国造・県主の言葉はないが、同じような話がある。
ただし、国の下に県があったという説、国造と県主は同列だったという説等があり、律令以前の地方制度には不確かな所も多い。

国造に選ばれる氏族には、いくつかのタイプがある。

1つは、崇神天皇の時代と考えられる日本の統一以降に、中央から派遣された人物の子孫である。
関東では、崇神天皇の子の豊城入彦の子孫が、上毛野・下毛野の国造になっているが、彼らがこのタイプの典型である。
他には、四道将軍として東海道に派遣された建沼河の子孫が那須の国造になっている。建沼河は孝元天皇の子の大彦の子である。

別のタイプとしては、日本統一以前からいた豪族が、大和に従う代わりに、その地の支配を許されたものがある。
そして、関東では、この種の国造に大きな特徴があるのである。


先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)という歴史書があり、その中の国造本紀には、130以上の国造の出自が書かれている。
いくつか例を挙げよう。

无邪志国造 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖の二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命を国造に定めた。
知々夫国造 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に、八意思金命の十世孫の知々夫命を国造に定めた。
茨城国造  軽嶋豊明朝(応神天皇)の御世に、天津彦根命の孫の筑紫刀祢を国造に定めた。
馬来田国造 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、茨城国造の祖の建許侶命の子の深河意弥命を国造に定めた。

茨城と馬来田の例のように、1つ国造の家系から、兄弟達が分家を作る事により、複数の国造が生まれるのも珍しくはない。
そのため、国造本紀に書かれている24の関東の国造も、次のように、系統別に整理できる。


                     相模  武蔵    安房  上総    下総  常陸    上野  下野

天照大神の子 天穂日の子孫  兄多毛比      无邪志 胸刺    菊麻
       天穂日の子孫  弟武彦   相武
       天穂日の八世  弥都侶岐            阿波  伊甚        新治 高
       天穂日の八世  忍立化多比               上海上   下海上

天照大神の子 天津彦根の子孫 建許呂   師長            須恵 馬来田    茨城 道口岐閉
高皇産霊の子 八意思金の十世 知々夫命      知々夫

神武天皇の子 神八井耳の子孫                           印波  仲
孝昭天皇子孫 彦意祁都命の孫 彦忍人                 武社
孝元天皇の孫 建沼河の孫   大臣命                                     那須
崇神天皇の子 豊城入彦の孫  彦狭嶋                                 上毛野 下毛野

物部連    伊香色雄の三世 船瀬足尼                          久自
系統不明   忍凝見命の孫  阿閉色                           筑波

(注)国造本紀では、彦意祁都命は和邇臣の祖となっている。和邇臣は、孝昭天皇の子の天足彦国押人の子孫とされている。


上にも書いたが、「上毛野・下毛野・那須」の国造は、崇神以降に中央から派遣された人物の子孫である。
また、物部系の伊香色雄も、開化天皇・崇神天皇の時代の人物であり、「久自」の国造も日本統一後に生まれたと考えられる。
律令制では、合併して武蔵の国になったが、国造が置かれた頃の「知々夫(秩父)」は、関東に含めずに考えた方がいいだろう。

これらの5つを除くと、残りは19だが、その内の10カ国の国造が天穂日の子孫なのである。
さらに、スサノオとの誓約の時に、天穂日の弟として生まれたとされる天津彦根の子孫の国を合わせると、15カ国にもなる。
ただし、天津彦根やその子孫については、よく分からない事が多く、天穂日や国譲りと結びつけない方がいいかも知れない。

いずれにしろ、国造本紀によれば、日本統一以前の関東は、高天原だらけなのである。



=============  追記  =================
2012/5/13
天津彦根の子孫に関して、投稿後に分かった事があるので、訂正したい。

「古代氏族系譜集成(著者:宝賀寿男)」という本の、天津彦根の系図では、「建許呂が日本武尊の東征に従った」とある。
また、上記の表では系統不明とした忍凝見が、建許呂の父とされている。(ただし、阿閉色は忍凝見の子となっている。)

もし、これが正しければ、「師長・須恵・馬来田・茨城・道口岐閉・筑波」の6カ国の国造も、崇神以降の人物の子孫となる。
そうすると、上記の19カ国から、さらに6カ国を引いた、13カ国中の10カ国が天穂日の子孫の国という事になる。

知々夫(秩父)以外の関東の国造 =23
建沼河の子孫 =1、豊城入彦の子孫 =2、伊香色雄の子孫 =1、建許呂の子孫 =5、阿閉色の子孫 =1
23ー(1+2+1+5+1)=13  その内、天穂日の子孫 =10
まさに、天穂日だらけである。

3-15 香取と鹿島

2012-05-06 | 記紀解読
前回は、建御名方の逃走を伝える神社について書いた。今回取り上げるのは、追撃する側の記録である。


現在の利根川は銚子の辺りで太平洋に注ぐ。その河口付近の両岸にあるのが、香取神宮と鹿島神宮である。
南岸にあるのが経津主を祀る香取神宮で、北岸にあるのが武甕槌を祀る鹿島神宮である。両者は下総・常陸の一宮である。
平安時代の延喜式神名帳で、名前に「神宮」がつく神社は、伊勢・香取・鹿島の3つだけである。これは江戸末まで変わらない。
不思議な事に、何故この2つの神社が特別扱いされるのか、はっきりとした理由は伝わっていない。


現在、関東の中心は、東京の山手線の内部であり、そこから放射状に鉄道も道路も延びている。銚子付近は関東の外れである。
しかし、弥生末期の関東の様子は現在と大きく違う。

この時代、利根川は途中で流れを南に変えて、東京湾へ注いでおり、現在の東京中心地は、洪水のため利用できなかった。
代わりに関東の中心だったのが、碓氷峠に近い現在の群馬県である。少し時代は下がるが、関東最大の古墳も、この地域にある。
当時の交通手段は水運が中心であり、この群馬県と太平洋を結ぶ現在の利根川のルートが、関東の交通の幹線だった。
ただし、当時の利根川はこのルートを直通しておらず、利根川・渡良瀬川・鬼怒川と川を乗り継ぐ必要があった。

また、河口付近の様子も現在とは大きく異なる。現在の茨城県の南東部は、「香取海」や「古鬼怒湾」と呼ばれる海だった。
現在の霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼などよりも、もっと広い範囲が一つの湾になっており、銚子の辺りがその入り口だった。
香取神宮も鹿島神宮も周囲より高い丘の上にある。当時は今より陸地が少なく、両神宮の間は海だったと考えられている。
2つの神宮は、関東内陸の主要水路が太平洋と接続する交通の拠点に、船からも陸からも目立つように作られていたのである。


香取神宮と鹿島神宮の重要性は、関東だけを見ていては分からない。
日本列島は、直角に近いブーメランのような形をしている。現在の中心地の関東から見ると、日本は西と北に大きく伸びている。
ところが、弥生時代、東北地方は別の世界であり、弥生人にとっての日本は、東西に長く伸びる一直線の形をしていた。
当時の中心は北部九州であり、それに対し、関東地方は開発の遅れた辺境の地だった。
この東西に長い弥生日本の交通幹線は、九州から新潟までの日本海ー千曲川ー碓氷峠ー(現在の)利根川、というルートだった。
碓氷峠以外、ほとんどが水路でつながっている。また、これは、前回書いた建御名方の逃走ルートと、途中まで一致する。

「さいはて」という言葉がある。現在では、北海道の稚内や、沖縄の西の端を、連想する言葉である。
香取神宮と鹿島神宮がある場所は、弥生時代の日本人にとっての「さいはて」の地だったのである。
この最果ての地の、現在で言えば新幹線の終着駅のような場所の両側に、周囲から目立つように建てられている。
それが、香取と鹿島の2つの神宮なのである。


経津主と武甕槌は、武神として有名である。
日本書紀には、大国主が国を譲った後、この二神が諸国を平定したと書かれている。従う者には褒美を与え、逆らう者は殺す。
前回書いたように、善光寺周辺には、武甕槌が建御名方を打ち負かしたという伝承が残っている。
このような経津主と武甕槌を、上記のような場所に祀っている。2つの神宮が重視される理由を想像するのは難しくない。

香取神宮と鹿島神宮は、高天原による葦原中国平定の記念碑的存在なのである。大勝利の記録なのである。

出雲の国譲りというのは、出雲だけでの話ではない。葦原中国というもっと大きな国に関する話なのである。
しかも、記紀に書かれているように、平和的に行われたものでもない。譲られたのではなく、奪ったのである。
大国主が出雲で死んだ後も、日本の広い範囲で戦闘が続いたと考えられる。
その長い戦闘の勝利を記念し、征服した地域の「さいはて」の地に作られたのが、香取神宮と鹿島神宮なのである。
そして、こうした神社が「神宮」と呼ばれ特別視されていた事が、出雲の国譲りが史実だった事の、1つの証拠となるのである。

3-14 建御名方の逃走

2012-05-02 | 記紀解読
前回書いたように、大国主を祭神とする神社は全国に数多くあるが、証拠としてはあまり役に立たない。
大国主の子の建御名方を祀る神社も多数あるが、ほとんどがその死のはるか後にできた物であり、建御名方と直接の関係はない。
しかし、ごく少数ではあるが、出雲から諏訪への逃走の記憶を伝える神社もあり、それらは建御名方が実在した事の証拠となる。


出雲で大国主が経津主・武甕槌に敗れた後、建御名方は日本海を東へ逃げ、新潟から内陸へ向かい長野市に陣を張ったらしい。
長野市には全国的に有名な善光寺があるが、その創建は仏教伝来の後であり、その前には建御名方を祀る神社があったとされる。
現在、善光寺の東隣には、健御名方富命彦神別神社という神社があるが、これは明治時代の神仏分離まで善光寺の境内にあった。
善光寺周辺には、次のような伝承がある。
「建御名方はこの地で敵を迎え撃ったが武甕槌に敗れた。妻の八坂刀売は建御名方とはぐれ、現在の妻科神社の辺りへ逃げた。」
現在も、善光寺の南西数百メートルの所に、妻科神社という名前の神社がある。

善光寺での敗戦後、建御名方は千曲川を上流へ逃げたようだ。上田市にある生島足島神社には次のような伝承がある。
「建御名方が諏訪の地に下降する途すがら、この地に立ち寄った時、生島大神・足島大神が建御名方に米粥を煮て献じた。」

この後、建御名方は、千曲川を離れ、山道を南西に進んで松本盆地の南に抜け、そこから諏訪へ向かったと推測される。
しかし、諏訪には、縄文系と思われるモリヤ族という先住民がいたため、建御名方との間に戦いが起こった。
諏訪大社の神長官の守矢家には次のような伝承がある。
「モリヤ神を長とする先住民は、天竜川河口に陣取り、建御名方を迎え撃った。
 建御名方は藤の蔓を、モリヤ神は鉄の輪を手にして戦ったが、モリヤ神は負けてしまった。
 その時の、建御名方の陣地が現在の藤島神社であり、モリヤ神の陣地が洩矢神社である。
 先住民は滅ぼされた訳ではなく、モリヤ神の子孫達が、代々、神長官という諏訪氏に次ぐ位に就いた。」
今も、諏訪湖から南に向かう天竜川の東岸には洩矢神社が、西岸には藤島神社がある。(現在、藤島神社は熊野神社内にある)

これらの伝承は、記紀にないものであり、その舞台の場所も細かく現在に伝わる。
また、建御名方の大勝利といった創作にありがちな内容にはなっていない。
そのため、建御名方が諏訪へ逃げてきた事の証拠として、信頼性は低くない。


他にも建御名方の逃走の地として、能登の志乎神社・姫川沿いの大宮諏訪神社・長岡市の平潟神社等の名が挙がる事がある。
ただし、これらの神社が本当に建御名方の逃走と関係があるのか疑問もあり、ここでは詳しい紹介は省く事にする。

建御名方は日本海沿岸でも、どこかを拠点にして戦ったと考えられるが、その候補の1つが志乎神社のある石川県羽咋郡である。

建御名方の逃走ルートに関しては、一部、正確に分からない所がある。
日本海沿岸を現在の新潟県まで来たのはほぼ間違いないと思われるが、そこからどこを通って長野市まで来たかはっきりしない。
次の3つのルートが考えられるが、1つめのルート上にあるのが大宮諏訪神社であり、2つめにあるのが平潟神社である。
普通に考えれば、逃走ルートは1つであり、どちらかの神社は建御名方の逃走とは無関係という事になる。

1:現在の糸魚川市から姫川を遡る。
 姫川の名前の由来は、建御名方の母の奴奈川(ぬなかわ)姫である。また、姫川沿いには、建御名方を祀る神社が多い。
 新潟沿岸部から直接諏訪へ向かったのなら最短のルートだが、長野市へ行くにはやや遠回りである。
2:現在の新潟市から、信濃川(長野県に入ると千曲川と名前が変わる)を遡る。
 このルートは、長野市へ行くにはかなり遠回りだが、他の2ルートとは違い、水路だけで行ける。
 最初から長野市を目指したのではなく、日本海を行ける所まで逃げ、そこから仕方なく川を遡った、と考えれば自然である。
3:現在の上越市から関川に沿って野尻湖まで南下し、そこから千曲川へ抜ける。
 この説は、あまり見かけないものである。しかし、加賀藩の参勤交代や、現代の高速道路はこのルートを通る。
 ルート上に有力な神社や伝承がないため見過ごされがちだが、長野市へ行くには最短のルートである。