満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

2-11 豊城入彦

2010-03-26 | 記紀解読
菅原道真・徳川家康のように時代を代表する人物が神となるのは理解できる。
しかし、現在各地の神社で祀られている神の中には、それほど有名とは思われない地方豪族のようなものが結構多い。
こうした人物はどのような経緯で神となったのだろうか。


こうした疑問は、豊城入彦(とよきいりひこ)という人物について考えると分かりやすい。

豊城入彦は崇神天皇(10代天皇)の子であり、垂仁天皇(11代天皇)の異母兄でもある。
現在、栃木県宇都宮市には、豊城入彦を主祭神とする二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)がある。
また、群馬県内にはいくつもの赤城神社があるが、その祭神は赤城山の西では豊城入彦、東では大国主が多いらしい。

現在の群馬・栃木に当たる地域は、古くは毛野(けぬ)と呼ばれた。
それが後に、都に近い現在の群馬県に当たる上毛野(かみつけぬ)と、都から遠い栃木県の下毛野(しもつけぬ)に分けられた。
さらに律令の時代に各国が漢字2字で表されるようになると、「毛」の字が抜け「上野」「下野」と書かれるようになり、
後に、読み方も「こうずけ(こうづけ)」「しもつけ」となった。


豊城入彦に関しては、次のような話が日本書紀に書かれている。

崇神天皇は自分の跡継ぎを決めるために、豊城入彦と活目(後の垂仁天皇)の2人に夢占いをさせた。
兄の豊城入彦は「三輪山に登り東に向って槍や刀を振り回しました」と答えた。
弟の活目は「三輪山に登り四方に縄を張り粟を食べる雀を追い払いました」と答えた。
2人の答えを聞いた崇神天皇は、活目を跡継ぎに決め、豊城入彦には東国を治めさせた。

この夢占いの話が本当かどうかは分からない。
また、日本書紀にはひ孫の御諸別が東国に行ったという話があり、豊城入彦自身は関東に行かなかった可能性もある。
しかし、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)という書の中の国造本紀では、
上毛野国・下毛野国の国造(くにのみやつこ)が豊城入彦の子孫とされている。
記紀でも豊城入彦は上毛野君・下毛野君の祖とされている。
また、上に書いたように、この2つの国では現在でも豊城入彦を祀る有力な神社が残っている。
こうした事から考えて、豊城入彦自身が関東に行ったかどうかは別として、
その子孫が代々、上毛野国・下毛野国の国造となったのは事実と考えてもいいだろう。


地方に国造が置かれていた時代、氏姓制度という言葉が示すように、氏(うじ)というものが非常に重要だった。
氏とは共通の先祖と男系で繋がっている血縁的集団を指す言葉である。
また、他の集団と区別するため、一族の者が共通に名乗った「物部・大伴・蘇我」などの呼び名を指す言葉でもある。
どこかの氏に属する事、つまり、氏を名乗る事が、この時代、政治への参加の条件であった。
この事は、渡来人が朝廷から「秦・東漢」などの氏をもらい、子孫達が代々その氏を名乗っていた事からもうかがえる。

氏が重視されていた時代、豊城入彦の子孫達が毛野の地で特別な存在であったのは言うまでもない。
在地系の豪族達もいくつかの氏に分かれていただろうが、都から来た皇子の血を引く彼らは他の氏とは明確な差があっただろう。
このような状況の下で、彼らが共通の先祖である豊城入彦を神のように崇めるのは、ごく自然の事である。

このように、現在栃木県や群馬県で豊城入彦を祀っている二荒山神社や赤城神社は、
子孫達が始祖である豊城入彦を彼らの氏神として祀った事から始まったと考えられるのである。

2-10 実在の人物

2010-03-22 | 記紀解読
実在の人物が神となり神社に祀られている。この事に疑問を感じる人が多いのではないだろうか。

神話に登場する神が神社に祀られているのは、当然だと思う。
火の神・山の神などが祀られているのも、何となく理解できる。
しかし、実在の人物が神となり神社に祀られているのは、どことなくしっくりこない。
こう感じる人が結構いるのではないだろうか。


実在の人物が神になれる事は、菅原道真を考えれば納得できると思う。

菅原道真が平安時代の実在の人物である事は言うまでもない。
また、道真が死後、神として祀られているのも周知の通りである。

道真が太宰府で死んだ後、京都では道真の左遷に関係したと思われる人物の死が続き、祟りだと怖れられた。
そのうちの1人は、内裏の清涼殿に落ちた雷によって死んだため、道真は雷神と同一視されたりもした。
怨霊を鎮めるため、朝廷は道真を京都の北野に祀り、後にそこは北野天満宮となった。
祟りの記憶が薄れてからは、菅原道真は学問の神様と考えられるようになり、
北野天満宮・太宰府天満宮・湯島天神などは、現在でも多くの参拝客を集めている。

もっと後の時代でも、死後、神として祀られた例はいくつもある。
最も有名なのは、日光東照宮に祀られている徳川家康だろう。
その他にも現在、楠木正成、豊臣秀吉、乃木希典などが、神として神社に祀られている。

これらの例のように、日本では、比較的新しい時代の人物でさえ、神となるのである。
特に乃木大将などは死んでからまだ100年も経っていない。
従って、大和朝廷が出来た頃に実在した人物が神となっていても、決して不自然な事ではない。
また、こうした神を祀った神社に、その人物が生きていた時の様子が伝承されていても、おかしな事ではないのである。

2-9 神社の祭神

2010-03-18 | 記紀解読
風土記と並んで、大和朝廷成立の時代の歴史を伝えるものとして、神社の伝承がある。
日本各地には多くの神社があり、これらの中には、記紀にも風土記にも載っていない歴史を現在まで伝えているものがある。

何故神社にはるか昔の歴史が伝わっているのか、それはどの程度信用できるのか、疑問に思うかも知れない。

この事を理解するには、神社には何が祀られているかを知る必要がある。


八百万(やおよろず)の神という言葉が表すように、日本には非常に多くの神がいる。
もちろん、800万もの神がいる訳ではないが、ネット上で「日本の神の一覧」を見ても数百の名前が並んでいる。
このように、他国の宗教とは桁違いの神がいる事が日本の神道の特徴である。

1つの神社がこれら全ての神を祀っているわけではない。
それぞれの神社では、その神社で祀る神(祭神)が決まっている。
主祭神の他に複数の神を祀るのも一般的である。
XXX稲荷にはウガノミタマが、氷川神社にはスサノオが祀られているといったように、
神社の名前と祭神には一定の関係があるものもある。


これらの神々は、いくつかのタイプに分ける事ができる。

「万物に宿る神」
火の神・雷の神・山の神・海の神などが代表的である。
また、鉱山の神・土の神・港の神のような変わったものもある。
このタイプは、あらゆる物に精霊が宿るとした縄文時代のアニミズムを受け継いでいると考えられる。

「神話のために創られた架空の人物」
日本に限らず、歴史の初めに神話があり、そこに想像上の人物が登場するのはめずらしくない。
旧約聖書のアダムとイブなどがこれに当たると言える。
日本の神話でも、イザナギ・イザナミ、天照大神が記紀の初めに登場するが、これらはこのタイプの神と考えられる。
アダムとイブは崇拝の対象になっていないかも知れないが、日本では神話に登場する人物が神として神社に祀られている。
ただし、このタイプの神は数としてはそれほど多くない。

「実在の人物」
知らない人は驚くかも知れないが、実在の人物が神になれるのが、日本の神道の大きな特徴である。
そして、このタイプの神は非常に数が多い。

上のような分類は、決して一般的なものではない。このブログのオリジナルなものである。
もちろん、わざわざこのような分類をしたのには理由がある。
それは、歴史を伝承している神社の祭神の多くが、上の分類の中の「実在の人物」と考えられるからである。

2-8 風土記

2010-03-16 | 記紀解読
前回、考古学的証拠を取り上げたので、今回からは文献的証拠について。
初めに、大和朝廷成立の頃の歴史を書いた文献としてどのようなものがあるか考えてみることにする。

先ずは、風土記から。


風土記は律令制度の国ごとに書かれた地理書である。
書かれたのは、記紀と同時期、8世紀前半の奈良時代初頭と考えられている。
もともとは全国で作られたとされているが、現存しているのは次の5カ国だけである。
出雲風土記はほぼ全部が、常陸・播磨・豊後・肥前の風土記は一部が書けているものの大部分が残っている。
その他の国も、後の時代の引用の形で一部を現在でも読む事が出来る(これを風土記逸文と呼ぶ)。

8世紀の地理書なのに何故歴史が分かるか不思議に思うかも知れないので、風土記の内容について簡単に説明しておこう。
地理書といっても地図があるわけではない。全てを文字だけで(漢字で)説明している。
律令では、各地方は国・郡・里(郷)に分けられていた。
従って、各国の風土記はその国の郡と里の紹介が中心であり、量的には里の記述が大半である。
その中でも目立つのが、郡や里の名前の由来であり、そこから奈良時代よりはるか昔の歴史を窺い知る事が出来るのである。

出雲国・意宇郡・楯縫郷
フツヌシの天石楯を縫い直し給う。故に楯縫という。

豊後国・日田郡
昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇のこと)が熊曽(くまそ)を討った。
帰る時に、筑後国の行宮(かりみや)を発ってこの郡に来たところ、神がいた。名を久津媛(ひさつひめ)という。
・・・・(中略)・・・・ これにより、久津媛の郡という。今、日田(ひだ)の郡というのは、訛ったのである。


風土記は朝廷が各国に作らせた公の文書であるため、何らかの検閲のようなものを受けたと考えられる。
言い換えると、記紀と同じ嘘をつくような圧力が加わったと考えられる。

そのため、記紀の記述と風土記が一致したからといって、それだけで記紀の正しさが証明されたと考える事は出来ない。

また、記紀で隠された真実が、風土記に載っている訳でもない。
つまり、出雲の風土記を読んでも、出雲の真の歴史が簡単に分かる訳ではない。
風土記を読む意義は、何か秘密を探す事ではなく、記紀に載っていない細かな事実を知る事にある。


ただし、一部に、こうした検閲をかいくぐったと考えられる記述も見られる。

播磨の風土記では、天火明が大国主の子として書かれている。
日本書紀では天火明はニニギの子、古事記ではニニギの兄とされている。いずれにせよ、天照大神の子孫(天孫)である。
もし、天火明が本当に大国主の子であるならば、これは絶対に公の文書に載せてはならない隠すべき事である。
もし、間違いならば、訂正して書くべきである。
つまり、どちらにしても、載せるべきでない内容が記載されているのである。

こうした検閲漏れと思われる内容から、真実のヒントを得られる可能性がない訳ではない。

2-7 考古学的証拠

2010-03-12 | 記紀解読
証拠の種類としては、大きく考古学的証拠と文献的証拠の2種類のものが考えられるが、
今回は考古学的証拠を取り上げる事にする。


考古学的証拠にも、いろいろなタイプのものがある。

纏向遺跡や吉野ヶ里遺跡のように、遺跡の存在そのものが意味を持つものもある。
出雲の荒神谷遺跡の銅剣のように、出土品が重要なものもある。
淡路島の垣内(かいと)遺跡は鉄の鏃(やじり)の製造を行っていた事が、
鳥取県青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、戦争の証拠となる殺傷痕のある人骨が出土した事が、
それぞれ、当時の歴史を知る上で重要な役割を果たす。
四隅突出型墳丘墓では、出雲を中心に広く日本海側に分布する点、及び、吉備の特殊器台・特殊壺が出土する点といった、
他地域との関係性が重要な意味を持つ。


考古学的証拠の長所は、嘘が含まれていない点である。

日本の古代史では、記紀のみならず他の文献にも、嘘が含まれている可能性が常につきまとう。
そのため、文献の正しさを嘘のない考古学的証拠で確かめる事は非常に重要な意味を持つ。

その一方で、具体的で細かい事までは分からないという短所も持つ。

考古学的証拠だけでは、人の名前、どのような戦争があったか等は分からない。
そのため、歴史を細部まで解き明かすには、どうしても文献的証拠が必要となる。

このように、考古学的証拠と文献的証拠は、互いに補い合う関係にある。


注意しなくてはならないのが、考古学的証拠は現在までに発見された物が全てではないという点である。

つい二十数年前まで、出雲では大きな考古学的発見がなく、記紀の出雲の記述は架空と考えられていた。
また、上に挙げた垣内遺跡での鉄の鏃の製造も2009年に発表されたものである。

こうした事を考えると、今後も歴史を大きく塗り替えるような新たな遺跡の発見がないとは言えない。
また、永遠に発見されない遺跡もあるだろう。

従って、我々は、まだ知られていない遺跡が存在する可能性を、常に頭の中に入れておかなくてはならないのである。