満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

6-33 田植えと乾田化

2015-01-14 | 記紀解読
前々回と前回に、弥生時代の田植えと乾田化の効果についてまとめた。どちらも、雑草対策での労働量削減の効果があった。
乾田化された水田で田植えを行うと、それぞれ単独の時とは違う効果が生まれる。今回は、田植えと乾田化の相乗効果について。


田植えで使う苗をどこで育てたか、今まで触れてこなかったが、先ずは、この点について考えよう。

「苗半作」(苗で米作りの半分が決まる)という言葉が示すように、江戸時代から現代まで、良い苗を作る事が重視されてきた。
水量・温度・肥料などの管理がしやすいように、少し前までは苗代で、現在ではビニールハウスなどで、苗は育てられる。
現代農法では、面積当たりの収穫高がなるべく多くなるよう、田植え前も、その後も、苗は非常に丁寧に育てられる。

弥生時代の水稲は、これとは対照的である。岡山県の百間川遺跡では、現在の約7倍もの密度で、田植えされていた。
これでは、草取りのために水田に入れないので、イネの苗は雑草との競争にさらされ、全てが秋まで成長できる訳ではない。

このような弥生水稲で、田植えで植える苗を、苗代などの特別な場所を設け、手間ひま掛けて育てたとは考えられないのである。
では、苗はどこでどのように育てていたのか。


弥生時代の水稲では、雑草が増えた水田は何年間か休耕する。田植えの苗は、こうした休耕地で育てるのが合理的である。

田植えまでの作業は、次のようなものだったと推測できる。
田植えの少し前に、休耕田の一画を、水を入れて耕し平らにならす。この水を張った休耕田に、種籾を撒く。
田植えをされる本田も、水を入れて耕され、平らにならされる。その後、休耕田から、苗が植え替えられる。

重要なのは、休耕田ではイネとほぼ同時に水田雑草も発芽する点である。そしてこの時、乾田と湿田とでは大きな違いが生じる。

雑草とともに発芽したイネは、ある程度成長すると、本田に移し替えられる。
この後の休耕田では、湿田の場合、水田雑草が成長を続けるが、乾田では、水が抜かれるので、ほとんどの水田雑草が枯れる。
この発芽して枯れるという過程が大きな意味を持つ。地下にある、水田雑草の種子や発芽可能な根・茎の数が大きく減る。


弥生式の水稲で休耕する目的は、雑草を減らす事である。雑草を、競争力の高いヨシ1種類だけにして、ヨシを人間が除去する。
前回も書いたように、この時に特に苦労するのが、ヨシの地下茎の除去なのだが、地下茎は毎年毎年増えていく。
このため、地下にある水田雑草の種子などが速く減るほど、水稲再開までの年数も減り、ヨシの除去作業が楽になるのである。

湿田では、水を抜けないので、休耕後の何年かは、水田雑草が夏・秋まで成長し、新たな種子などを作る。
また、乾田でも、春に水を入れない場合、水田雑草が発芽しないので、種子などが大きくは減らない。
(ただし、地下で何もしなくても、発芽能力を徐々に失っていく。特に、根や茎は、3~5年で、ほぼ発芽能力がなくなる。)
地下の種子などが最も速く減るのは、乾田で、春に水を入れて耕し、水田雑草が発芽した後に水を抜く場合である。

もちろん、田植えをしなくても、休耕中の乾田で春に水を入れて耕せば、同じような効果が得られる。
しかし、そうした農法を弥生時代に行うには、かなりの「ひらめき」が必要だと考えられる。
田植えをしていれば、何も考えなくても、地下の種子が速く減る効果が得られるのである。


乾田で田植えをする。そのための苗は、休耕田で作る。すると、休耕田の地下の雑草の種子などが速く減る。
その結果、ヨシの地下茎の成長が少ない内に、水稲を再開できるようになり、地下茎の除去に必要な労働量が大きく減る。
少しややこしいが、これが、田植えと乾田化との相乗効果である。