北村タカトシ(旧ブログ)

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JCの主張・福祉について~創立40周年記念誌~

1999年10月01日 | 原稿等
「社会変化に対応したまちづくりを」

時代の移り変わりの中で年配者から子供たちへ色々な風習が受け継がれていた事が少しずつ無くなっています。
これからの少子高齢化社会を考えても地域での世代間交流の機会を数多く持ち、いろんな世代の人達が自然に優しく仲良い関係で、活き活きと快適に生活できるまちづくりがもっと必要と考えました。
高齢者介護を取り上げても、これから介護保険制度が導入されますが、労力や金銭的負担が増えてくる事に伴い、自分のほんの一部の時間をボランティアに費やす等、支え合っていく助け合いの心がさらに求められてきます。
そのためにはNPO法が施行された今、活動に意識のある方が気軽に参加できる受け皿づくりがまず必要ではないでしょうか。

=クオリティ・オブ・ライフ=

近年盛んに「クオリティ・オブ・ライフ(QOL)」について議論がなされています。

・寿命だけで福祉や医療の良しあしを語る時代の終わり
少しでも長く生きることが最優先の課題だった時代には、ある地域や国の福祉・保健・医療状況の良しあしを図る指標として「寿命」が手ごろな指標として用いられてきました。
しかし、わが国をはじめ平均寿命が飛躍的に延びた先進国では、高齢化社会に突入し、寿命が延びた分だけ人々は何らかの病を患い、病床にある期間も長くなりました。
このような状況に変化するなか、福祉や医療の良しあしを寿命で測ってみたところで指標になりにくいのではないかという議論がおこってきました。

・QOLが問われる時代の幕開け
そこで約10年前から「人々が生前にいかなる質をもって幸せに生きたか」、つまりQOL(人生の質)が、人生の長さと同様に重視されるべきであるといった意見が広まってきました。
現在では、福祉や医療状況の良しあしを測る指標として「QOL」が当たり前の時代になり、福祉や医療の現場でも「どうすればQOLを高く保ったまま人生を過ごせるか」という課題に力が注がれています。

・我々大村青年会議所は・・・
日本はかつてない高齢化社会を迎えます。1960年代まで5%前後で推移していた65歳以上の高齢人口は2000年には20%を越え、未だ経験したことのない新たな社会が到来します。
我々大村青年会議所は、「高齢化社会=円熟社会」の到来と考え、過去40年に培った「まちづくり・ひとづくり」のノウハウを生かし、自然・お年寄り・若者が共存できる街づくりを目指しています。
また、毎日を健康で活き活きと過ごせるようなQOLの向上を目指して、福祉、医療、健康増進、コミニュティ、住宅、まちづくりなど、いろいろな切り口から高齢化社会と取り組み、議論・実践していきたいと思います。

=心のバリアフリー=

近年ようやく定着してきた「バリアフリー」この言葉から皆さんが連想することは何でしょうか?
車椅子用のスロープやトイレ、入り口から段差が無いフルフラットの建物など、いろいろな「物」「ハード」を連想しがちだと思います。
しかし、我々の心の中にも「心の垣根=こころのバリア」があるのではないでしょうか?
私たちがハンディを背負った人を見かけると、先ず、「かわいそう」「憐れ」といった感情が生まれてくるのではないでしょうか。
それは、ややもすれば「自分とは違う」といった感情・特別視・区別・差別していることにつながってくることにもなりかねません。そこで、こう考えてみてはどうでしょうか?「みんな何らかのハンディを背負っている」と。

近視・腰痛・心臓病・力が弱い・足が遅い・記憶力が弱い・声が小さい・臆病・・・etc
これらは一般の病気や特徴、個性という言葉で片付けられてしまうものです。
近視には眼鏡・コンタクトを。力が弱い人には頭を使う仕事を。病気の人には適切な治療を・・・。
等々現在あるもので補えてしまう、生活に特に困ることもない、とても一般的で見かけることが多い「ハンディ」だと思います。しかし、歩けない、目が見えない、声が出ない、といったハンディになれば、社会のなかでの絶対数が少ないこともあってか、とたんに特別視されがちです。
また、そのようなハンディを背負っている人の生活の大変さ、困難さは想像を絶する苦労があることと思います。
それは歩道や建物といった公共の物、市民みんなのものであるはずのものが(現在は改善されてきたとはいえ)、重いハンディを背負った人の事を忘れて作られてきた。
最大公約数をもとめるあまり少数派は置き去りにされてきたことに原因があると考えます。
かといって、すぐにインフラの整備をと呼び掛け、物はハードの面で補おうとしても、費用や様々な問題が絡んできて、なかなか思うように行かないのが現状ではないでしょうか。

誰にでも、今すぐに、なにかできる事はないでしょうか?
まず、「かわいそう」「憐れ」といった感情は「自分より・・・」「区別」から生まれているのではないでしょうか。
そうした「こころの垣根・こころのバリア」それを捨ててみましょう。
そんな人が周りにいることが当たり前、と考えてみることは今すぐにでもできるはずです。
完璧な人間などいません。人間は一人では生きられないものです。人は支えあい、補い合って生きているのではないでしょうか。足りない所、手助けが要るときに、補うことは当然のことです。
社会というものは人間の集まりで成り立つものであり、それぞれの役目があって、支えあい、補いあいながら人は生きています。
ハンディが少ない人も多い人も、必ず生きている意味・役目があるはずです。
椅子に座って会議をしたり、アイディアを出したりするときに車椅子はハンディになりません。
ワープロや原稿用紙に向かって文章を書いたり、資料をまとめたりするのには声が出せないのはハンディになりません。
表面的な目に見える「成果」に大小の差はあるかもしれませんが、いなくなっていい人、必要のない人、忘れられていい人などいるはずもないのです。
全ての人に役割があって、この社会を形成している。そこには区別も、上下も存在しないはずです。

なかなか意識しませんが、私たち(健常者・障害者・子供・老人・大人・青年)は既に社会に支えられて、助けられて、生かされている。そして、自分もその支えの一人です。まず、「こころのバリア」をなくしてみましょう。
互いに支えあうのは当然のことと考え、そこに憐れみだとかかわいそうだとか、思わないでほしい。
反射神経的に、すっと支えの手が出る。目の前にいる人が困っていれば、なんの迷うことなく。
それがハンディを持った人であっても、持たない人であっても。
それが「こころのバリアフリーの実現」「助け合いの社会の実現」にむかう第一歩であると大村青年会議所は考えます。

人間は一滴の水のようなものだ。
一滴の水は大海に落ちてしまえば、その存在が分からなくなってしまうほど、ちっぽけなもの。
だが、その大海はその一滴一滴の水から成り立っている。
それは人間も同じ、この世界は人間一人一人で構成されている。
一人一人が価値のある大切な「生命」なのだ。
だが、水と人間との決定的な違いがある。水はどの一滴をとっても同じ水。
だが人間一人一人は「違い」「持ち味」をもっている。
「適材適所」で素晴らしいものができる。

~五体不満足の一節より~

=ボランティア=

全ての人に役割があり、QOL(人生の質)を考えたときに、私たちにできる事はいったいなんでしょうか?
全ての人は支えあいながら、助け合いながら、補いあいながら生きています。
それは意識しなくとも自然となされており、それが現在の人間社会を形作っているのです。
しかし、自然にささえあって形成されている人間社会とはいえ、中には「弱者=助けが必要な人」が必ず存在しています。
それは、障害をもっている人であったり、妊産婦・子供や高齢者。また突発的な災害に見舞われた人々などがあなたのすぐ近くにいるのではないでしょうか?いま、あなたの助けが必要な人がきっといます。
一人一人が持っている「能力・得意なこと」をボランティアコーディネイターの元で組織的に活用する大掛かりなボランティアはその効果も目に見えて大きく、絶大です。
しかし、相応な準備や時間・コストが必要になりますし、行政との連携等も必要になってきます。
そのためのインフラの整備・充実はまだまだである、というのが現状ではないでしょうか。
ボランティア活動を難しく考える事はありません。まず、助けを必要としている人と同じ目線に立ってその環境を見回してみてください。そして、その人になにが必要かを考えてみましょう。きっと何かが見えるはずです。
考えても見つからないときは、その人に直接聞いてみましょう。その人が本当に助けを求めているならば、あなたの申し出をとても喜んでくれることと思います。
ボランティア活動には多くを必要としません。ただ一つ大切なものは「こころ」です。
あなたに福祉の経験が無いとか、ボランティアに慣れていないとかは、重要な事ではありません。
「この人の為に何かしてあげたい」という「奉仕のこころ」さえ持っていればあなたの気持ちは必ず相手に伝わることでしょう。
目に見える「成果」や「結果」がその人を救うのではありません。あなたの「暖かなこころ」がその人を救うのです。