天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第百十一号 新編寺門天台宗学読本(1) ―第一編 ―

2013年07月14日 20時18分09秒 | 新編寺門天台宗学読本

第一章 序 章

寺門天台学の定義

宗学は時代の思潮によつて絶えず表現の方法なり、説明が異なり名目(なまへ)が違ふのであることは勿論でありますが、そのたて方を見ますと大体次の通りです。即ち如来真実の教は法華・大日両経にありとして、その理は阿字実相体大(あじじつさうだいだい)であつて、円密一致(ゑんみいつち)を旨とする。而して圓頓菩薩(ゑんどんぼさつ)の大戒(だいかい)を生活の規矩(きく)とし、止観遮那(しかんしやな)をその内容として、修験によつて実行の菩薩となつて圓(ゑん)の三学完成(さんがくかんせい)を期するのであります。その所詮(しはせん)は国民の道心を啓発して護国利人(ごこくりじん)の実を挙げ、自他共に此土(このせかい)に於て一向大乗(いつこうだいぜう)の浄仏国土建設(ぜうぶつこくどけんせつ)の本願を成就して、こゝに鎮護国家(ちんごこくか)の素懐(そかい)を果し得るのである。されば寺門天台とは何ぞと問はれたら「智證大師(ちせうだいし)の教格(けうかく)を指南に仰ぎ、圓の三学を解行(げげう)して鎮護国家する宗旨(しうし)である」と答ふればよい。この三十数字の僅少(きんせう)な言葉によつて、極めて粗雑ではありますが、寺門天台の定義(ていぎ)と致します。何れの宗旨でも成仏(ぜうぶつ)が最高目的であると強調しますが、一家に於ては「鎮護国家する」ことが「成仏」することで、「鎮護国家」を除いては「成仏」はあり得ない、つまり名実共に具(そな)はつた好箇(こうこ)の日本人となり真理に目覚めて国家と生死を共にすることを本義とするからであります。