
2023年4月/角川書店
宮部みゆきは2012年に倉坂鬼一郎の『怖い俳句』(幻冬舎文庫)で出合い俳句に興味を持ったという。これをきっかけに一句を章立てにしてそこから発想する物語を書くことを思いついた。それが本書である。
作者とほぼ同年齢の人たちと「ボケ防止カラオケ会」を趣旨にした「BBK」の仲間がいる。彼らに章立て俳句をお願いしたところ全員が乗り気になった。メンバーの中には本格的に俳句をやる人もいるらしい。結果、以下の12章の俳句となったのであるが、正直いって、出来はいまいち。〇△×の評価をしながら句についてうんぬんする。
枯れ向日葵呼んで振り向く奴がいる
〇「枯れ向日葵」を詠んだ例があまりなくユニーク。「呼んで振り向く奴がいる」はいろいろな想像がふくらみどんな奴か知りたくなる。作家の想像力を誘うだろう。
鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす
鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす
〇「利し」は「利する」の連用形か。やや硬いから「鋏もて」でいいのだが鶏頭が切られている様子が見えていい。
プレゼントコートマフラームートンブーツ
プレゼントコートマフラームートンブーツ
×何を言いたいのだ。小生が「ブロークンイングリッシュ」と酷評する種類のもの。「プレゼント」は誰かが誰かにそうしたというのか。その品目をだらだら並べたのか。文法というシステムに乗せないと言葉は働かないという見本のような悪例。
散ることは実るためなり桃の花
散ることは実るためなり桃の花
△理屈っぽいのが俳句として劣るが言いたいことはわかる。
異国より訪れし婿墓洗う
異国より訪れし婿墓洗う
〇娘の婿が外国人。墓を洗っているのが新鮮。話がふくらむだろう。
月隠るついさっきまで人だった
月隠るついさっきまで人だった
〇では今その者はどうなっていいるのだ。想像させて怖くおもしろい。
窓際のゴーヤカーテン実は二つ
△嫌味はないが深みがない。宮部さんはいつまでも枯れないゴーヤをある意味でおそろしいものとして書いている。最後の二つの実は赤いといういう記述をしている。俳句ももうすこし頑張れなかったか。薄味である。
窓際のゴーヤカーテン実は二つ
△嫌味はないが深みがない。宮部さんはいつまでも枯れないゴーヤをある意味でおそろしいものとして書いている。最後の二つの実は赤いといういう記述をしている。俳句ももうすこし頑張れなかったか。薄味である。
山降りる旅駅ごとに花ひらき
△「山降りる旅」は妙な言い方である。ふつうそうは言わない。「駅ごとに花ひらき」も妙な言い方。全体が言葉として落ち着かない。
薄闇や苔むす墓石に蜥蜴の子
薄闇や苔むす墓石に蜥蜴の子
△句の作り方とはいいが「苔むす墓石に」は字余り。ここは「苔むす墓に蜥蜴の子」でいいのでは。墓石のイメージは薄らぐが定型を重んずべきところ。
薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ
薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ
〇12句の中で一番いいのでは。「誰ぞいぬ」は「誰ぞ去ぬ」であろう。誰かが消えた、死んだ、ということ。不気味であり不可思議である。言葉に力がある。
冬晴れの遠出の先の野辺送り
冬晴れの遠出の先の野辺送り
△宮部さんは野辺送りにくっついてきた少女を描いている。そこまで展開するには原句がつたない。少女から見れば「遠出して葬列に遭ふ冬うらら」ではないか。こうだとイメージがはっきりする。
同じ飯同じ菜を食ふ春日和
同じ飯同じ菜を食ふ春日和
△鳩の食餌か。「同じ飯同じ菜を食ふ」は作者だけわかっていてほかはついていけない。
章立てに俳句を使うという発想はおもしろいのだがそのためには俳句はもっとキレがないといけない。角川書店は俳句文芸の老舗であるから作家の見識を補うべく編集者が知恵を発揮すべきでは。
章立て俳句も絶品を見たいのである。







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