修論頑張ったし、4月から頑張るんだから今は頑張らなくていいのでは?と思っている今日この頃。元来、頑張るって人間でもなかったし。しかし、ゲームをしないだけでここまでの充実感が得られるとは驚いた。だって、研究室の人と話したりネットサーフィンしただけで終わった日ですら、会話のネタや知識において明日使えるパクリどころが満載なんだもの。いや、ゲームを否定するわけではない。ゲームで得られるものだってプライスレスです。しかし、ゲームの場合は社会人にとってその代償が大きすぎる。中学、高校までは学校でゲームの話をしても盛り上がったし、傍から見ても一般的な光景だった。さらに言えば、最先端をいっている感じすらした。ところが、大学以降ではその状況が一変する。むしろ話が合わない。むしろキモイ。まあ、何が言いたいかというと、他人と共有できないと面白くないということですよ。ゲーム自体の面白さなんてスパイスに過ぎなかったんですよ。最近は周りの人間が誰もゲームをやらないから、ゲームが面白くなくなったんですよ。以上のことに気づいたことは、ゲームで成長した自分にとって衝撃的でした。「人間」って漢字、よくできてるわ。
思えば、物理学科に入った俺は物理の話を共有するために物理の勉強をしたのかな?そう考えると、(人間関係の)環境って最重要なんじゃないか?(人間関係の)環境なんて自由に選べないから、子供に対して親がしてやれることはほとんどないんじゃないか?親にとっては子供の物心のつく前の数年間が勝負なのかな?
思えば、物理学科に入った俺は物理の話を共有するために物理の勉強をしたのかな?そう考えると、(人間関係の)環境って最重要なんじゃないか?(人間関係の)環境なんて自由に選べないから、子供に対して親がしてやれることはほとんどないんじゃないか?親にとっては子供の物心のつく前の数年間が勝負なのかな?