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「中央日報日本語版」 2020.08.14 13:49
■<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族1>「父の棺には水だけがあふれていた」80歳の息子のサハリン悲劇
【写真】兄弟に代わって日帝に連れて行かれたサハリンの朝鮮人徴用工は光復(解放)後には無国籍者になった。このようにして祖国に戻ってこれなかった故イ・ソクドンさんは別れてから36年ぶりに手紙を通じて再開できた息子のイ・ヒグォンさんに、若い頃におしゃれをして撮った写真を送った。「ひょっとしてサハリンに私の異母兄弟はいるのではないか」と尋ねる息子に、イ・ソクドンさんは「ここで家族を作ったら一生故郷へ戻ることができないと考え、一生独身だった」と話した。イム・ヒョンドン記者
今年で光復(解放)75年。日帝の収奪に飢えた家族と故郷を後にして連行されるほかなかった日帝強占期の強制動員780万人。初々しく活力みなぎる20歳前後の朝鮮の若者たちは暗鬱だった韓国現代史の闇を通り過ぎながら、死ぬかけがをするか生きて帰ってきた。そして75年の歳月が流れた。やっとよちよち歩きを始めた1歳の息子が、母親のお腹の中で遺腹子として生まれて顔も知らない父親を描いて生きてきた娘が、今や白髪が目立つようになり歳を取り老いていく。
父親不在のまま生き抜かなければならなかった遺族の家族史75年。彼らはどのように生き、どのように生き残ったのか。乾いた涙の告白ではない。生涯会うことができなかった父親の空席を意識して生きなければならなかった彼らにとっては痛切な苦難、最後の最後に成し遂げた人間勝利の壮厳さが混在する。父親の遺体を遠く海外から迎え、遺族賠償運動に身を捧げて戦ってきたが老年にやってきたのは貧困だけで手元には何も残っていない。「慰安婦おばあさんにも娘はいます」と涙で絡まる回想もある。父親が倒れていった南洋諸島の広々とした海に花を手向ける彼らのしわだらけの横顔は私たちの歴史の鏡だ。
日帝強占期被害者遺族、彼らが生きてきた人生の物語を聞く。彼らはどのように歳月を耐え抜き、生き残ったのか。波乱の韓国史、その空間の横糸と時代の縦糸の中を通り過ぎてきた遺族の至難極まる人生の軌跡を作家のハン・スサンが訪ねていく。
「父は5人兄弟姉妹の3番目でした。兄弟の中から誰か一人は行かなくてはならないというから、『お前がいって苦労してこい』と言われて連れて行かれたそうです。私が4歳のときのことなのでどこに行ったのか分からないまま『北海道からも3000里離れた遠方』に行ったと、そうとばかり思って大きくなりました」。
サハリン強制動員被害者の故イ・ソクドンさんの息子、イ・ヒグォンさん(80)の回想は淡々と続いた。
解放を迎えたが夫は帰ってこなかった。年若い妻は月が明るい夜になると、幼い息子を連れて川辺に来て、白い容器に水を汲み夫が戻ってくるように祈った。幼い息子のイ・ヒグォンさんの胸に刻印されたこの姿だけは歳月が流れても錆つかない記憶として残った。
その後、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、伯父と一緒に先に避難していた息子と母親は運命が交錯して互いの所在が分からなくなった。親子はもう二度と会えない生き別れとなった。戦争は終わったが、一日にして孤独な人間になった息子は伯父の家に住み込み育った。
「どうして学校に行かせてくれなかったのか分からない。国民学校も中退し、農作業だけしていたので勉強できなかったことが恨(ハン)となった」。
1965年10月に陸軍を満期除隊して戻ってきた彼は誰にも言わずに家を出た。持って行くカバンさえなく、除隊するときに担いできた軍用鞄に荷物を入れてソウル駅に降り立ち、野宿でしのいだ。
仕事を探し回った末、漢江(ハンガン)の近くの九宜洞(クイドン)のレンガ工場で一人立ちが始まった。レンガを背負う肩と背中はただれる苦痛に耐え、冷凍食品輸出会社プンヤン産業に入社し、会社で出会った女子社員のイ・ヨンファさんとの間に芽生えた愛が結婚まで続いた。いつのまにか彼は29歳になり、花より美しい花嫁は22歳だった。結婚式で新郎・新婦のチョル(韓国の伝統的な挨拶)を受けたのが叔母だった。両親がいないという喪失感と自分は一人なんだという佗びしさが押し寄せてきた。
「なぜこの人がチョルを受けなければならないか考えると胸が張り裂けそうですが、これほど悲しいことはありません。父や母のことがこれほどまでに思い出されるのに…。どれほど悲しかったか」。
雨が降った地面もいつかは乾くだろうと信じていた。長男に続き第二子にも恵まれ、少しずつ暮ら向きも良くなっていった。
稼ぐために大林(テリム)建設のサウジアラビア海外建設現場にも行ってきたし、帰国後はヨンイン輸送の座席バスの運転手になった。家長として「ただ、正しく、ひたすら一生懸命に生きよう」、そう固く思うばかりだった。
ある日、六親等の甥から驚くような連絡をもらった。父がサハリンで生きているというのだ。月刊誌『マダン(広場)』1980年4月号でチョ・ヤンウク記者が書いた記事だった。京畿道坡州(キョンギド・パジュ)出身のイ・ソクドンさん。故郷を離れて38年、4歳の時に別れた息子の消息を尋ねていた。
「ヒグォンはしっかり育って成人になっただろうか。成長していたら今42歳になっているだろう。ヒグォンよ、母親も生きているか」。
40歳になった息子の年齢さえ42歳と記憶している父と息子の手紙のやりとりが遠い海を挟んで始まった。未修交国のソ連から日本に手紙を送ると、それが再び大邱(テグ)の中小離散家族会を通じて息子に配達された。数カ月かかる時もあった。
「私は一人暮しをしながら寂しくはあるが、日常生活では何の心配もないので幸いだと思ってほしい」「私は瑞山(ソサン)に沈む太陽と同じだ。遠からず80になるが、この無念を誰に話すというのか。全くあきれることこの上ない」。手紙を読もうとすると、嬉しさよりも先に離散の悲しみで胸が痛んだ。
父が生きているなら、いつか迎えて一緒に暮らすことができるだろうという希望の日々が流れた。いつのまにか長男は大学を卒業して米国に留学し、初孫の誕生を知らせてきた。次男も結婚して年子で2人の孫を抱かれてくれた。年が変わり、長男がニューヨークの大学で教授になったという喜びの便りが飛び込んできた。
しかし、喜びと悲しみは隣り合わせだ。1987年、サハリンから悲報が飛び込んできた。友人のイ・ヨンハさんが送った手紙だった。
「ヒグォン。その間、元気だったかい。君に悲しい知らせがある。君の父が亡くなった…。死亡日は陽暦5月24日朝6時ごろ、葬式は29日にした」。サハリンから送られた手紙が日本を経て伝えられるまで2カ月以上かかり、ようやく息子は父の死を知った。
兄弟に代わって日帝の徴用で連れて行かれた。解放を迎えたが、未修交国で帰国の道が閉ざされた彼に祖国はなかった。冬ならマイナス40度を上下する凍りついた土地サハリンで無国籍者として生きた。妻と子供がいる家へ帰るという一念で独身として生きた一人の男の人生はそのようにして幕を下ろした。忘れないで大事に持っていた故郷の住所も、寝床を涙で濡らした故郷の道も、握りしめた手から砂のようにこぼれて彼は土に戻った。息子と手紙のやりとりを始めてから5年目の離別だった。
【写真】無縁故者として処理され、事実上放置されていたイ・ソクトンさんのサハリンの墓地。 父の棺の中に水があふれるように入っていたのを見たイ・ヒグォンさんは、改めて心が張り裂ける思いだったと語った。
時間が流れて1990年、ソ連との国交が正常化する。そして政府が日帝強制動員被害真相調査を進めながら、考えもしなかったあきれたことが起きた。
「2007年11月、国から父『イ・ソクドンを特別法第17条に基づいて日帝強制動員被害者として決定する』という通知書を受けました。江西(カンソ)区庁に行って補償申請をするよう言われて訪ねて行くと、1945年8月以前の死亡者に限って補償するとのことでした。一体このような国がどこにあるのか、背を向けるよりほかありませんでした。その後も期限を延長し、もう一度機会があったとのことでしたが、それさえ通知してくれないので知らずに過ぎてしまいました。国の補償のようなものは忘れて生きました」。
2011年夏、韓国政府はサハリンの韓人墓に対する全数調査に着手した。この実態調査を通じて父親がサハリン・ホルムスク地区の墓地に安置されていることが確認される。墓地番号027-02-070、故人の名前リ・ソクドン、性別未詳。
2018年秋、イ・ヒグォンさんは息子と共にサハリンに発った。初めて踏む土地、サハリンはすでに秋が深まり空を覆うように立ち並ぶシラカバが黄色に染まっていた。空港に降りるとすぐに車を走らせて3時間、墓地に到着した。腰よりも高く生えていた雑草を除去し、酒を供えて2回のチョルをし終わった時だった。いつの間にそれほど多くの涙が流れていたのか。心の奥底から湧きあがり出てくる涙が自身もどうすることもできず、あふれるままに任せた。案内してくれた韓人会の海外同胞まで共に涙を流した。
お父さん、と呼ぶだけでなぜ涙が流れるのか。手の甲で目の下を拭うイ・ヒグォンさんの声が震えていた。
「私も分かりません。母と別れたのが11歳、母には殴られ叱られたことしか覚えていません。父親のいない子だからと思って厳しく育てようと思ってそうしたのかもしれません。でも顔も知らない父はなぜこれほどまで懐かしく、会いたいと思ったのか分かりません」。
昨年10月、14人の遺骸を迎える第7回サハリン遺骸奉還事業の一環として、イ・ヒグォン氏は現地に出発した。翌日、墓を掘り返していたときだった。サハリンは寒いので深く埋めると聞いていたが、いくら掘っても遺骸が見当たらないので、ひょっとして父親を見つけられないのではないかとの不安がよぎった。さらに地面を掘り進め、ドロドロした水の中から棺が姿を現した。水に濡れてぬれてふにゃふにゃの衣服に包まれていた遺骸は収拾する骨もあまりなく腐っていたが、棺桶の中の姿は平常時の身なりそのままだった。靴も履いたままだった。財布とカミソリひとつ、また一足の靴が遺品として埋められていた。
太極旗に包まれた父親の帰還は祖国の丁重な儀典の中で国立「望郷の丘」に続いた。骨になって帰ってくるまで、故郷を離れて80年余り。気が遠くなるような長い歳月が流れ、ソウル加陽洞(カヤンドン)の息子のアパートに入った父親は、曽孫子まで家族全員一緒に初めての夜を送った。そして翌日、祖先の墓に埋められた。息子は墓碑に、どこにいるのか分からない母「孺人碧珍李氏」の横に「全州李公錫東」とし、2人の名前を刻んだ。
「確かに非常に残念ではありますが、国や政府を恨んだりしません。私は父の遺骸を迎えることができた人ではないですか。再びこうしたことが起きてはなりません。今ですか? 孫と幸せに暮らしています」。
決して、そして最後まで、人間の尊厳を失わないで生きた父親とその息子の生き様。歴史に踏みにじられ、時代に忘れられても、最後には立ち上がるこの民衆の人生は高潔だ。息子から孫に流れる人生の波が、自身の後が壮厳に受け継がれていることを故人は知っているはずだ。どうか安らかに眠ってください。
※編集者の言葉
「あっちが朝鮮だ」
作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。