三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「全斗煥の末裔たち、今も既得権益を守り…中途半端な反省よりも過去の清算が先」

2021年11月27日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/41824.html
「The Hankyoreh」 2021-11-27 04:53
 [全斗煥死亡――謝罪を受けられなかった人たち]
 
 キム・ギュボク牧師、大田で再審開かれる 
 80年5月にデモを主導し投獄 
 「当時受けた処罰、恥ずかしくない 
 いつでもそのような状況なら立ち上がる」

【写真】キム・ギュボク牧師=カン・ミング大田文化連帯代表提供//ハンギョレ新聞社
【写真】全斗煥死亡―謝罪を受けられなかった人たち//ハンギョレ新聞社

 「数日前に死亡した全斗煥(チョン・ドゥファン)氏が、新たな権力として登場するためにいろいろなことを企んでいることを知り、これを暴露するためにデモを主導しました」。
 被告人席に座ったキム・ギュボク牧師(69)の声が法廷に響いた。震える声とは違い、目は淡々と正面を見つめていた彼が言葉を続けた。「(当時受けた処罰は)恥ずかしくありません。いつでもそのような状況に陥れば同じことをするでしょう」。
 大田(テジョン)地裁刑事8単独のチャ・ジュヒ部長判事は25日午前、大田荒野(ビンドゥル)教会のキム・ギュボク元担任牧師の戒厳法・布告令違反罪の再審公判を開いた。
 キム牧師は1971年、延世大学に入学し学生運動を主導して逮捕され、激しい拷問を受けた後、強制徴集された。1979年12月に復学した彼は、翌年5月にソウルで「全斗煥が軍部を掌握し、現政権を踏みにじって新しい権力として登場しようとしている。全斗煥は退け」という内容の「国民に送る言葉」が書かれた印刷物を約1万部作り、延世大学生約1千人のデモを率いた。指名手配されたキムさんは6月、遅れて光州5・18民主化運動のニュースを聞き、各大学の指導部と都心デモを計画したが実現せず、10月に警察に検挙された。1981年1月24日、軍法会議で戒厳法・布告令違反などの疑いで懲役3年、執行猶予5年の宣告を受けた。
 キム牧師は出所後、大田にわたって大田神学大学と長老教神学大学で勉強し、大田大和工業団地の真ん中で産業宣教に携わった。その後、荒野教会を設立。貧民と移住労働者、環境・平和運動に献身してきた歳月は約30年となった。
 今年3月、大田地検は職権で「5・18民主化運動等に関する特別法」に定められた特別再審条項に基づき、キム牧師の再審を請求し、10月21日、大田地裁は「5・18民主化運動等に関する特別法による再審事由に該当する」として再審を決定した。

【写真】24日にハンギョレと会い、1980年5月の状況について説明しているキム・ギュボク牧師=ソン・インゴル記者//ハンギョレ新聞社

 この日の再審公判で、淡々と「後悔のなかった日」を語ったキム牧師は、10年ほど前からパーキンソン病を患っている。朴正煕(パク・チョンヒ)軍部独裁に対抗して警察に捕まって受けた拷問の後遺症だ。
 キム牧師にとっても全斗煥氏の死は、心の傷を再びえぐる大きな衝撃だった。
 「反省しない全氏の末裔たちが今も勢力を伸ばし、既得権益を守ろうとねばっていて、新しい時代を望む人々の意志をくじいています。全氏が死んだから残存勢力もこれからは力を失うと思います」。
 この日の裁判後、本紙と会ったキム牧師は「80年5月の光州の現場を共にすることができなかった悔しさと申し訳なさで、生涯を光州市民に借りがある気持ちで生きてきた」と言い、「全氏の死は、中途半端な反省よりも真の過去清算が私たちの使命であることを気づかせてくれたようだ」と述べた。キム牧師の再審宣告公判は、12月9日に開かれる。
チェ・イェリン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/chungcheong/1020852.html
韓国語原文入力:2021-11-26 02:33


http://japan.hani.co.kr/arti/culture/41818.html
「The Hankyoreh」 2021-11-27 07:53
■虐殺を覆い隠そうとした「全斗換の3S政策」…大衆は「愚民化」しなかった
 クーデターと虐殺で政権掌握した全斗換 
 愚民化を目的に3S政策を展開したが 
 在野の民族文学・映画・広場劇の洪水

【写真】始球する全斗換。大統領記録館のウェブサイトよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社
【写真】1981年に汝矣島広場で開かれた「国風81」/聯合ニュース

 全斗換(チョン・ドゥファン)にとっては、5月の虐殺は必ず消さなければならない記憶だった。当時のホ・ムンド大統領府公報秘書官が企画したことで知られる「国風81」を、光州(クァンジュ)民主化運動1周忌の10日後に開催したのは、偶然ではない。「国風81」では、歌謡祭、演劇祭、学術祭や、農楽、仮面劇、国弓などの伝統文化と各国の食事などのイベントが行われた。「チョ・ヨンピルと偉大な誕生」、「シン・ジュンヒョンとミュージックパワー」、ソン・チャンシク、キム・チャンワンなど最高のミュージシャンを呼び、大学生が参加した歌謡祭では、ソウル大学のバンドに大賞を与えた。全国197大学の250のサークルから約6000人の大学生が参加したという記録もある。大衆の関心を政治から他の方向にまわし、建国以来最高の祭典を開いたという記録を残すための官制イベントだった。
 政権の正当性どころか虐殺で始まった全斗換は、皮肉なことに「文化」では多彩な変化をもたらした。プロスポーツの開始、政治を除く分野での検閲緩和、夜間通行禁止の解除など、いわゆる3S(Sex、Screen、Sports)政策を通じて大衆を魅惑させようとする意図があったが、結果は少しゆがんだ。緩和された抑圧は、大衆を愚民化させるのではなく、民主主義に対する熱望と自由意識を鼓吹する方向に流れた。大衆は政権が望む方向に無条件で流れるほどまぬけではなく、かと言って、常に正しい選択をする賢明な集団でもない。右往左往するが、時には重要な選択をして歴史を作っていく。一時後退して、自ら滅亡したりはするが。

【写真】1981年に汝矣島広場で開かれた「国風81」/聯合ニュース

 全斗換により緩和された文化政策が可視化されたのは、1982年1月の夜間通行禁止の解除だった。通行禁止の解除は深夜という新しい空間を作りだした。深夜劇場と深夜喫茶店、街頭の屋台、深夜観光などが生まれた。そして、12月11日にはプロ野球が発足した。以後、プロサッカーのスーパーリーグ、バスケットボール祭り、民俗シルム(韓国相撲)などが続いた。初代体育部長官として盧泰愚(ノ・テウ)が任命され、1986年のアジア大会と1988年の五輪を開催するための準備が周到に進められた。ヒトラーが1936年にベルリン五輪を開催し、虚飾の国民統合と独裁体制の狡猾な宣伝を試みたように、プロスポーツの活性化を通じて、プロ野球とバスケットボールなどは瞬く間に国民全体の娯楽として定着した。熱狂的なサッカーファンである全斗換の好みが、スポーツ活性化につながったともいえる。
 映画界にもある程度の自由が与えられた。小規模劇場の開館が可能になり、検閲が比較的緩和された。朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代は、映画会社は許可制だった。維新憲法が出された後の1973年に改定された映画法を通じて、映画会社の設立には保証金が必要になった。既存の許可を無視し、再登録した12社の映画会社だけを許可した。映画を3作品製作すれば1作品の外国映画を輸入できる権利を与えた。当時の映画法は、映画の振興のための法律ではなく、映画会社を徹底的に統制するための手段だった。検閲も厳しく、政治的な題材はもちろん、社会的な問題点や現実を見せてくれるすべてのものが禁止された。

【写真】1982年3月27日のプロ野球開幕戦=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 全斗換が1984年に「映画芸術の育成」を指示し、1985年に映画法が改正された。映画会社の許可制が登録制に変わり、小規模プロダクションの設立も可能になった。本紙1989年9月23日付の記事によると、1988年までに69社、1989年には18社のプロダクションが作られた。引き続き検閲の問題はあったが、多くの人々が様々な映画を製作できる合法的な手段が生じたのだ。1980年代中頃から、独立映画団体と作品が徐々に登場するようになった。
 しかし、全斗換時代の1980年代の韓国映画といえば、「エロ映画」がまず思い浮かぶ。全斗換の3S政策を受けエロ映画が生まれたともみなせる。しかし、検閲が激しくなると、メジャー文化で扱える領域は狭くなる。社会的な批判や告発は可能な限り隠喩にまわし、私的な隠密さに集中する流れが生じる。1982年に『愛麻夫人』が韓国社会を揺るがす前の1970年代にも、『星たちの故郷』(1974)、『ヨンジャの全盛時代』(1975)、『冬の女』(1977)など、いわゆる「ホステス映画」は人気だった。本質的に朴正煕の維新時代は、すべてのものを暴圧的に撮っていく暗黒期だった。
 歌が少し憂うつだったり悲しくても、退廃的で社会風紀を乱すという理由を持ちだし、禁止曲を作り、性と暴力を激しく描写するすべてのものを禁止した。朴正煕をはじめとする支配層は、料亭で非倫理的な享楽を楽しみ、中央情報部で罪のない人々にあらゆる暴力を振りまわしていても、国民は道徳的に倹約し暮らさなければならないとして、偽善を装った。
 そのような点で、全斗換は露骨であり幼稚だった。スポーツと遊興を許しながらも、政治権力への脅威となれば、無慈悲な暴力を行使した。世界的な1980年代の軽薄でだらけた時代精神に合った政策が3Sでもある。維新体制と比較すると、全斗換は、スポーツと娯楽を少し自由に放った。成人映画は、『愛麻夫人』以後、韓国映画界を揺るがした。1982年の韓国映画56作品のうち35作品、1985年に製作の韓国映画80作品のうち60作品以上が成人映画だった。しかし、『膝と膝の間』(1984)、『桑の葉』(1985)、『於宇同』(1985)、『かんかん照り』(1985)などを考えてみると、成人映画にも秀作は登場した。検閲が緩和されれば、それだけ想像力と思考の幅は広がるはずだ。当時、成人映画が増えることになったのには、ビデオ市場の拡大とも関連がある。『野いちご』『赤いさくらんぼ』『夜市』などの成人シリーズがビデオ市場を席巻した。

【写真】映画『於宇同』のポスター//ハンギョレ新聞社

 全斗換政権は、スポーツと大衆文化で息の根を少し広げ、官制民族文化を注入する政策を試みた。すべては矛盾的にならざるを得なかった。自由を与えながらも一定の線を超えられないようにして、民族文化を主張しながらも、大学と在野の「民族文化」は弾圧した。『愛麻夫人』のタイトルに「馬」の字を使えないようにして「麻」の字を用いたのは、有名なコメディだ。馬の代わりに大麻を愛した女性は、よりいっそう危険ではないのだろうか。民主化を要求する運動圏でも、民族文学、民族映画、広場劇など、私たちの現実を反映し民族情緒を強調する文化を志向した。自由や民族についても、同じ言葉を使いながらも、互いに志向と領域は異ならざるを得なかった。
 しかし、全斗換政権の文化政策は、基本的には愚民化を目的とした。政治に対する関心を他の方向にまわそうとした目的があからさまに示されたためだ。維新に対する大衆の怒りのため、同じ手法で政権を維持することが負担だったことも、理由としてあったのだろう。クーデターと虐殺で樹立した政権を維持するためならば、いかなる手段でも動員したのであろう。しかし、基本的に3S政策を維持したとしても、大衆は必ずしも彼らの目的どおりにはついて行かない。ついに1987年の6月抗争が起き、さらに10年が経過し政権の交替があり、制度的な民主主義も成立した。ならば、大衆の意識の変化と要求に応じ、政策も世界も変わったと言うべきではないだろうか。現在の韓国文化が世界を揺るがす理由も、やはり民主主義の成就に根源があるはずだ。
キム・ボンソク|大衆文化評論家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1020817.html
韓国語原文入力:2021-11-25 20:44


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/41808.html
「The Hankyoreh」 2021-11-25 10:13
■「遺骨も探せなかった息子…全斗煥は一言もなく死んでしまって悔しい」
 [全斗煥死亡―謝罪を受けられなかった人たち] 

 「5・18行方不明者」当時17歳のイム・オクファン君の母、キム・ジンドクさん

【写真】5・18民主化運動当時、息子が行方不明になったキム・ジンドクさん=本人提供//ハンギョレ新聞社
【写真】全斗煥死亡―謝罪を受けられなかった人たち//ハンギョレ新聞社

 「死ぬ前に息子の遺骨のかけらでも探さなければならないのに…。全斗煥(チョン・ドゥファン)が一言もなく死んでしまって悔しくもどかしい」。
 全羅南道高興郡(コフングン)に暮らすキム・ジンドクさん(77)は24日、本紙の電話取材に対し、怒りの混じったため息をついた。キムさんの息子のイム・オクファン君(当時17歳、朝鮮大学付属高校2年)は1980年5月、高興の家に向かうために友達と一緒に自炊生活をしていた寺を発ってから今まで行方が確認されていない。
 キムさんは「1980年5月、光州が大騒ぎになっているという知らせを聞いて、毎日オクファンと電話で話した。19日の夕方、『母さん、僕は大丈夫だから心配しないで』とオクファンが言ったが、これが最後の電話だった」と振り返った。
 キムさんはイム君と電話で連絡がつかず、22日に光州を訪れた。バスが通っていなかったので和順(ファスン)から歩いた。イム君が滞在していた寺で、「オクファン君は21日に実家に帰ると言って出ていった」という話を聞き、キムさんはその場に座り込んでしまった。イム君が向かった方向の朝鮮大学の裏山をくまなく探したが、息子の痕跡は見つからなかった。全南大学病院や朝鮮大学病院など、光州全域を足がはれるほど歩き回ったが、息子の姿は見当たらなかった。
 家族はイム君が死んだと思い、6月2日に死装束を用意して再び光州を訪れた。故郷の村の人たちもイム君探しに加わった。市民の遺体が安置された旧全羅南道庁前の尚武館を訪れたが、すでに遺体は片付けられた状態だった。再び朝鮮大学の裏山を捜索した。戒厳軍は入山許可を出さなかったが、警察に事情を説明し、山に登った。戒厳軍が捨てた焼酎の瓶、パンの袋、棒などがあるだけで、息子の行方は分からなかった。仮埋葬でもされたのかと思い、素手で地面を掘り回ったが、無駄だった。

【写真】5・18民主化運動当時、行方不明になったイム・オクファン君=国立5・18民主墓地管理所提供//ハンギョレ新聞社

 後日、イム君と一緒に自炊部屋を発った友人は、山を越える途中で銃声が聞こえてきて、皆散らばって逃げたのがイム君との最後だったと話した。
 父親のイム・ジュンベさんは5・18行方不明者家族会の会長を務め、キムさん家族は他の5・18犠牲者遺族とともに「息子を捜し出せ」と光州、ソウルなどを回りながら闘争をはじめた。そのたびにキムさん家族を監視していた町役場の職員は「行くな」と止めた。キムさんには、町役場の職員も全斗煥も同じく悪者に見えた。
 5・18研究者らはイム君失踪を、鎮圧軍として光州に来ていた第7空輸旅団と関連がある可能性があるとみている。戒厳軍は1980年5月21日の旧全羅南道庁前の集団発砲後、市民の抵抗が激しくなると、光州外郭の遮断作戦を展開して光州を孤立させた。朝鮮大学に駐屯していた第7空輸旅団(将校含め872人)はこの日午後、朝鮮大学の裏山に沿って光州~和順の境界地域であるノリッジェ峠に移動した。歩いて和順の方へ向かおうとしたイム君の動線と一致する。
 せめて息子の遺骨でも見つけて日の当たる場所に埋めてあげたいという思いだけだというキムさんは「夫は『生きている間にオクファンの骨も探せないまま死んでしまうだろうな』という言葉をよく口にしていた。私たちのように力のない人々は苦痛の中で生きているのに、全斗煥は安らかに死んだと思うと、怒りで胸が張り裂けそうだ」と話した。
 一方、光州市が認めた5・18当時の行方不明者は計84人で、このうち6人は2001年に墓地を移転する過程で身元を確認したが、残り78人は以前として不明だ。特に、無縁故の行方不明者は正確な現状すら分かっていない。

キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1020709.html
韓国語原文入力:2021-11-25 07:37


http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/41802.html
「The Hankyoreh」 2021-11-25 08:38
■[コラム]全斗煥が労働に残していった課題

【写真】全斗煥氏が1995年12月2日、ソウル西大門区延禧洞の路上で、検察の召喚方針に真っ向から反論する2ページ分の対国民声明を発表している。全氏は「(12・12と5・18)事件の真相究明のために最善を尽くしたが、政府が政治的な理由で特別法まで制定して再調査することなど、応じる理由はない。法を尊重するため、司法の措置だけは受け入れる」とする内容の声明を発表した後、故郷の慶尚南道陜川で逮捕、拘束された/聯合ニュース

 90年前の1931年5月29日早朝、植民地朝鮮の平壌(ピョンヤン)。乙密台(ウルミルテ。三国時代の望楼)の前に平壌市民が集まっていた。屋根の上にはか細い体格の女性が一人しゃがんでいた。2年前に襲った世界大恐慌の影響で、賃金を17%も削減するという社長の通知に抗議して、48人の女性労組員とともにストライキを行いハンストに突入したその日の未明に解雇通知を受けたピョンウォンゴム工場の30歳の労働者、カン・ジュリョンだ。彼女は語り出した。
 「我々は、49人の我々スト団の賃金削減は大したことだとは考えていません。このことが結局は、平壌の2300人のゴム職工の賃金削減の原因になるからこそ、我々は死を覚悟で反対するのです。私は、ピョンウォンゴムの社長がこの前に来て、賃金削減宣言を取り消すまでは決して下りて行きません」。
 韓国の労働運動史上初の高空座り込みとして記録されたこの出来事で「滞空女」と名づけられたカン・ジュリョンは、決起の大義名分として同じ仕事をする他工場の労働者の賃金削減に反対する考えを明らかにした。彼女が高所座り込みを行う1年前には、平壌市内の15のゴム工場の1800人の労働者が賃金削減に反対する同盟ストを行っている。
 個別の労働組合の活動が目立つ現在とは異なり、日帝強占期における労働組合運動は業種レベルでの対応が珍しくなかった。実際には、使用者団体と本格的な産業別交渉は行われなかったが、労働組合の結成形態は地域別労組または産別労組などの企業単位を越えた労組に近かったという。解放後の米軍政時代、大韓労総(韓国労働組合総連盟(韓国労総)の前身)を抜いて全国の組合員の80%以上を占めた全国労働組合評議会は産別形態であり、1961年の軍事クーデターで権力を掌握した朴正煕(パク・チョンヒ)の時代も、韓国労総所属の労組はほとんどが産別労組だった。
 こうした流れに最も大きな亀裂が生じたのは、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部が1979年の12・12軍事反乱に続き、1980年5月に光州を血で染め権力を奪った後だ。全斗煥政権の掌中にあった国家保衛非常対策委員会は、「労働組合浄化指針」を下し、韓国労総の産別労組の12人の委員長級上層幹部を解雇させ、105の地域支部を解散させるなど、産別労組の解体に乗り出した。民主労組運動を行っている幹部たちには現場復帰を指示した。同年12月には労働法改悪を強行した。事実上、その事業所の労働者でなければ労組を作ったり、争議行為に介入したりすることを原則的に禁止する「第三者介入禁止」条項を導入するなど、産別労組と労学連帯を無力化することを内容としていた。第三者介入禁止条項は、人権弁護士の盧武鉉(ノ・ムヒョン)だけでなく、チョン・テイル烈士の母親のイ・ソソンを拘束する道具として徹底的に利用された。韓国では、欧州では御用労組と呼ばれる企業別労組だけが許された。
 強いられた企業別労組は、個別事業所の賃上げと労働条件の改善闘争のみに没頭し、労働現場で大企業と中小企業、元請けと下請けの労働の両極化が深化する契機となった。これこそ、産別交渉という制度的枠組みで賃金格差を縮めるとともに、労働者階級の連帯を成し遂げたスウェーデンやドイツなどの西欧社会の経験を、韓国社会が持てなくなった背景だ。現在、韓国社会が直面している最大の問題、不平等と不公正が生じたわけだ。
 労組の活動家を拘束し、ブラックリストによって就業を妨害するなど、国家暴力が猛威を振るった全斗煥時代、労働者の団結権は絶えず萎縮し続けた。1979年には24.4%だった労組組織率は、1980年に21.0%に急落したのを皮切りに下落を続け、1986年には16.8%で底を打った。翌年の6月抗争に続く「労働者大闘争」が起きてようやく少しずつ回復を見せた。第三者介入禁止は2007年に労働法から消え去ったが、労働現場では依然として企業別交渉という慣行が主流となっており、交渉窓口の一本化制度などで、大多数の産別労組は「外見だけ」という評価を脱せずにいる。
 5・18虐殺、三清教育隊、兄弟福祉園の被害者、解雇労働者やジャーナリストなどを残し、謝罪もなく全斗煥は世を去った。いまだに全斗煥が残した企業別労組、「御用労組」という枠組みにとらわれ、低賃金不安定労働におとしめられている非正規労働者問題を無視しているのは誰なのか、問うべき時に来ている。
チョン・ジョンフィ|社会エディター (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1020680.html
韓国語原文入力:2021-11-24 18:21


https://www.donga.com/jp/home/article/all/20211124/3053463/1
「東亞日報」 November. 24, 2021 08:29
■5・18団体「死で真実を葬ることはできない」
 「死で真実を葬ることはできない」
 5・18記念財団と5・18民主有功者遺族会、5・18民主化運動負傷者会、5・18拘束負傷者会は、全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の死去を受け、23日に記者会見を開き、このように明らかにした。彼らは「全氏は5・18とは無関係だとし、苦しい言い訳と責任回避で一貫した」とし、「氏は反省と謝罪どころか、回顧録で5・18英霊を冒涜・蔑視し、おぞましい人生を送った」と批判した。
 また、「光州(クァンジュ)市民はこれまで、全氏の告白と懺悔を求めた」とし、「(故チョ・ビオ神父の名誉毀損の)裁判を通じて韓国憲政史を蹂躙し、罪のない市民を虐殺した全氏に厳重な法的責任を問う歴史的審判が出ることを望んだが、全氏の死により、これも期待できなくなった」と悲痛な心境を語った。
 全元大統領は、5・18貢献者のチョ神父の名誉を毀損した罪で起訴され、光州地裁の一審で昨年11月30日、懲役8カ月、執行猶予2年の判決を受けた。しかし、全元大統領は同判決を不服とし、控訴審が行われており、確定判決前に全元大統領が死亡したことを受け、公訴棄却の決定が下されるものと見られる。全元大統領は回顧録で、5・18当時、ヘリ射撃を目撃したと証言したチョ神父を「破廉恥な嘘つき」と非難した罪で起訴された。チョ神父の甥であるチョ・ヨンデ神父は、「全氏は謝罪もせずに去り、われわれは過去に転々としなければならない状況になった。全氏の回顧録に関する刑事裁判は公訴棄却になっても、民事裁判は続くだろう」と語った。
 5月団体などが全元大統領と長男の全宰国(チョン・ジェグク)氏を相手取って起こした損害賠償請求訴訟で、1審裁判部は2018年9月13日、5・18記念財団など5月団体に1500万ウォン、チョ・ヨンデ神父に1000万ウォンを支給する判決を下し、2審はまだ行われている。
       李亨胄 peneye09@donga.com
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