三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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沙土の福留村で 2

2014年04月06日 | 海南島史研究
 3月21日に続いて、4月1日に、ふたたび沙土の福留村を訪問し、村長の温成育さんが温天芬さん、温天遠さん、温天川さんなどと話し合いながら作成した手書きの福留村の犠牲者の名簿をもらいました。
 温成育さんは、「この名簿は、未完成なので、これからさらに聞きとりを続けて、より正確なものにしていく」と言いました。
 この名簿には、86人の記録が記されていました。名前がなく、「昌鶴家 孩子共5人」とだけ記されている場合もありました。
 これまで、海南島政府も、澄邁県政府も、橋頭政府も、犠牲者の名前や犠牲者の正確な人数を調査・記録しにきたことはないそうです。

 温成育さんが作成した名簿に、「温春花 受傷后尚生存」と書かれてあったので、訊ねると、温春花さんは橋頭鎮の市内に住んでいるとのことでした。
 すぐに、橋頭鎮に行き、温春花さんの家を訪ねました。
 突然訪問したわたしたちに、温春花さん(85歳)は、静かな口調で、つぎのように話しました。
   「父は、あのとき村長だった。日本兵は父をつかまえて、祠堂のある大きな樹の下につれていった。
    樹の下に村人が集められ、たくさんの人が日本兵に殺された。
    わたしの父、祖母、姉2人、弟2人、叔父(父の3番目党との弟)、叔父の妻、叔父の息子2人、叔父の娘2人が殺された。
    わたした母に抱かれていたが、日本兵は母の背中に銃剣を突き刺した。
    銃剣は抱かれていたわたしの脇腹に達した。
    母は、そのときは生きていたが、まもなく死んだ。
    父の名は温際達、殺された叔父の名は温際政だ。  
    生まれて1か月ほどの弟をゆりかごに入れて家にのこしていたが、家に戻ってみると日本兵に殺されていた。
    両親が殺されてしまい、たべるものもなく、苦しい生活をした。学校にも行けなかった。昔のことを思い出すと涙がとまらない」。

 温春花さんは、左脇腹に残っている傷跡を見せてくれました。6センチほどの深い傷跡でした。
                                    佐藤正人
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