三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 1

2007年02月08日 | 海南島史研究
 日本侵略期、海南島で、人びとは抗日反日闘争をたたかい続けました。
 1939年2月10日の奇襲上陸から1945年夏の敗北までの6年半に、日本政府・日本軍は、海南島全域を占領することはできませんでした。
 
 日本侵略期(抗日反日闘争期)の海南島の歴史にかんするまとまった叙述は、まだ発表されていません。
 日本政府が、海南島侵略にかんする証拠文書のすべてを開示していないため、この時期の海南島史の追及が容易ではないからでもあります。
 日本政府は、海南島で住民虐殺をおこなったすべての日本軍部隊名と兵士名を公表するとともに、犠牲者の名を明らかにし、謝罪し、賠償しなければなりません。
  住民虐殺は、抗日反日武装部隊の攻撃に対する、日本軍の報復として、あるいは「予防」としておこなわれました。
 佐世保市内にある「東山海軍墓地」には、海南島占領日本海軍の主力部隊のひとつであった佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の死亡者の碑(「海南島忠魂碑」)があります。それは、1974年に建てられたもので、碑文には、「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」と書かれています。その横に1983年に建てられた「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」には、約300人の氏名(そのうち55人は台湾人)が書かれています。
 この碑文に書かれてある「幾多の討伐作戦等」の実態が明らかにされなければなりません。
 海南島に侵入していた佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、呉鎮守府特別陸戦隊(海南警備府第15警備隊、海南警備府第16警備隊)がおこなった、ぼうだいな犯罪のすべてが明らかにされなければなりません。
 それを明らかにする責任は、日本政府にあり、新旧日本軍関係者にあり、犯罪者たちにあります。しかし、これまで、日本敗戦以後に限っても60年余のあいだ、かれらは、ひたすら事実を隠蔽し続けてきました。
 日本政府も日本のマスメディアも、朝鮮民主主義人民共和国への日本人「拉致」問題にかんしては、大量の情報を収集し公開し朝鮮民主主義人民共和国政府・関係者の責任を追及していますが、アジア太平洋での国民国家日本の侵略犯罪に関してはその歴史的事実を明らかにしようとしていません。
 海南島における日本政府・日本軍の侵略犯罪の責任をとらされたのは、最悪の侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトではなく、海南警備府司令長官伍賀啓次郎でもなく、少数の中級将校たちだけでした。1947年7月に、元第15警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、元文昌中隊小隊長望月為吉が、海南島文昌地域で住民虐殺をおこなったとして、広東で処刑されました。  
 1948年6月 香港のオーストラリア軍法廷で、元海南警備府横須賀鎮守府第四特別陸戦隊司令と軍医長に絞首刑判決がだされています。

 わたしたちが、2004年8月と2006年11月に面会した和歌山県に住むAさん((1919年生。本人の希望により、氏名を記載しません)は、第15警備隊所属の海軍警察官として文昌の東坡村や発山村などに侵入しており、兼石績のことを知っていました。
  2004年8月に、Aさんは、緑の濃い山間の村の自宅で、
    「東坡の第1分遣大隊におって、3階建ての望楼で寝泊りした。市場で、豚肉などを徴発した。望楼は村人につくらせた。出てこんやつは、引っ張りにいかなあかん。嫌がったら、けつ、叩かなあかん。痛い目にあう。日当はない。わしらは、監督、指揮、監視。材料も向こう持ち。レンガや木や、貝を焼いた石灰などで作った。
     望楼で寝泊りした。水は、住民に汲んでもらう。炊事場も寝るところもフロもあった。30~40人いた。普段は、便衣を着ていた。
日本軍が東坡で人を殺したことはない。共産党員を探しに行った村で鶏を殺して食った……」
と証言していました。旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして東坡が記載されています。

 2005年9月に、わたしたちは、その東坡村(文昌市昌洒鎮)を訪ねました。日本軍の望楼は壊されていましたが、敷石の一部が残っていました。
 黄循桂さん(1925年生)は、当時の望楼の絵を書きながら、
   「日本軍は、わたしたちの家をこわし、そのレンガをつかい、他からもレンガを奪って運んできて、村人をむりに働かせて望楼をつくった。高さ25メートル、幅20メートルほどだった。日本兵はそのなかに住んでいた。
   共産ゲリラだといって、日本軍は連行してきた人たちをたくさん殺した。場所は、すぐ近くの、いま東坡小学校が建っているところだ」
と話しました。

 民衆による日本侵略期(抗日反日闘争期)の海南島史研究は、まだ初期の段階ですが、こんごさらに、おおくのみなさんとともに追及していきたいと思います。

                                         佐藤正人

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