三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会で展示する写真パネル

2015年08月20日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、23日の海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会の会場に展示する新しい写真パネルの目録です。

1、三亜市紅沙の「慰安所」の瓦(1998年6月25日)+解説
2、石碌鉱山の鉱石積み出し鉄道(1998年6月29日)
3、后石村の起龍義さん(2000年3月28日)
4、王永祥さん(94歳)
  昌江黎族自治県昌化鎮光田村で(2013年3月28日)
5、楊必森さん(1922年生)。東閣镇新群村委会鳌頭村で(2014年10月30日)
    「父はタイにはたらきに行っていた。母は殺された。兄と自分はつかまって、
    火のなかに放り込まれた。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。わたしより
    4歳上。当時は19歳だった。
     (1943年)3月6日の朝、日本軍は村の入り口を封鎖した。
     このころはサツマイモの収穫時期で、母はその日の朝、サツマイモを薄く切っ
    たものを乾燥させるために村の外に行こうとしていた。日本軍と出会って、日本
    軍は母のはらを突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られその場で死ん
    だ。
     日本軍が来たときに隠れるために、家には地下に穴を掘っていた。村ではみん
    なそうしていた。日本軍が来たので兄と自分はそこに隠れた。日本軍は家に誰も
    いないのを見て火をつけたが、煙がひどくて隠れていられず出てきた。兄とわた
    しはつかまって、えりくびをつかまれ、火のなかにけり込まれた。
     兄は足をやけどし、わたしは火の中で手をついたので、両手をやけどした。腕
    の皮膚が焼け落ちた。日本軍がいなくなって火から逃げ出した。日本兵は4、5
    人だった。稲がらや炊事のときに使う木などにガソリンをかけて火をつけたとこ
    ろにけり込まれたのだ。
     母は、邢氏。兄の名前は、楊必雄。
     孤児となってあちこち放浪して暮らした。そのご、村に帰って、よその家の放
    牛をしたり、伯爸の楊必番の家で、かゆや大根、干した小魚などをもらった。隣
    りの楊の姓がおおぜいいる村で、めぐんでもらったり……。寝るところは、コメ
    のカラを取る小屋があって、そこで板を敷いて寝台にして寝た。
     日本軍が引き揚げたあと、収穫後の残ったイモを拾って食べたりもした。
     父は5歳のとき一度タイから戻ってきたが、そのあとは戻ってこなかった。
     左足、太ももの皮膚を移植した。10何年前のこと。日本軍がいなくなったあと、
    解放軍によってはじめて治療を受けた」
6、符祝霞さん(75歳)+解説
  文昌東閣镇南文村で(2014年11月1日)
7、林鴻明さん(1925年生)
  文教鎮渓西村(2014年11月1日)
8、陵水黎族自治県英州镇九尾吊村(現、九尾村)(2014年11月4日)+解説
9、万寧市月塘村(2014年11月5日) +解説
10、旦場村の「旦場村抗日遇難同胞記念碑」除幕式(2015年3月29日)
    昌化江河口の中洲の旦場村を横須賀第4特別陸戦隊の日本軍が襲い、90人を越す
   村人を殺害したのは、1939年11月4日(農歴9月23日)だった。
    その75年6か月後の2015年3月29日、旦場村の人びとは追悼碑を除幕した。除幕式
   の日、「幸存者」と遺族たちは、焼香のあと碑の回りを歩いた。
   旦場村では、そのときの虐殺のようすが「日寇惨殺旦場同胞長恨歌」で歌い継がれ
   てきた。この「長恨歌」は、日本の敗退後の1947年、民話の唄い手だった文天性さん
   が、日本軍の蛮行を忘れないようにと、つくったという。
    旦場村では、日本軍は毒ガスを何回か使用した。そのときのことを、虐殺ののち
   児童団に入って抗日活動をした文玉方さん(87歳、1929年生)はこう話す。
      「毒ガスは、2回。間隔は覚えていないが、1回は学校のところで、1回は祠
      堂で。祠堂は文氏の祠堂で、今はなくなった。2回とも村にいなかった。山に、
      草とか木とか炊事用の焚き木を取りに行っていた。戻ってきてから聞いた。
       1回目のときは、だれも知らなかった。何かわからなかった。2回目のとき
      は、みんな水で濡らしたタオルを用意していて、口と鼻をふさいだ」。
    夫、文成美さん(当時、26歳) を殺された許瑞勤さん(94歳)は、こう話した。
      「日本軍に学校に集められたとき、村長が、“みんな布でも服でも鼻と口をふ
     さげ。でないと死ぬ。早く水で濡らして口と鼻をふさぎなさい ナヤー タチャ
     クアイ、ナヤー タチャ クアイ”というので、みんなそうした。日本軍の通訳
     かだれかが教えてくれた。村長は、文天和の父、文ネロイ。(毒ガスの「道具」の
     形は?)機械があって、どこかを押すと、上に飛び出して煙がたくさん出てきた。
      みんなせきをいっぱいした。日本兵はそのあと、すぐに引き揚げた。日本兵は
     100人くらい。各家を捜索して、学校に集めた。日本兵は草で頭を覆っていた。
     マスクはしていなかった」。
11、陳有左さん(92歳)+解説
  瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮新林郷榕木墟村内尖石村で(2015年4月1日)
12、屯昌県屯城镇大同村で(2015年4月2日)
  韩玉花さん(84歳) +黄蘇芳さん(80歳、1937年生?)+解説
13、屯昌県南坤鎮(2015年4月1日)
14、南坤鎮「慰安所」跡 赤レンガの家(2015年4月1日)
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