紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼の場への土地税課税に抗議し糾弾する民衆運動の一環として紀州鉱山の真実を明らかにする会が提訴した訴訟の最初の裁判がきょう(8月4日)におこなわれました。
熊野市を被告とする裁判は午前11時に、三重県を被告とする第1回裁判は午前11時半に開廷しました。
熊野市を被告とする裁判で、原告は、訴状の要点を述べたあと、被告熊野市の答弁書にたいする基本的質問をおこないました。
その質問を文書化した原告の「準備書面(1)求釈明の申し立て」の全文はつぎのとおりです。
佐藤正人
事件番号 2011年(行ウ)第3号 固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件
原告 金靜美 (キム チョンミ)
同 竹本昇 他3名
被告 熊野市
2011年8月4日
原告の訴状にたいする被告の2011年7月14日付けの答弁書が、7月14日に津地方裁判所から原告に郵送されてきたので、原告は被告の答弁書の分析を直ちに開始したが、不明の箇所が少なくなかった。
そのなかのいくつかについて、原告は被告に質問する。
その回答を受けてから、原告は、被告の答弁書にたいする全面的な反論をおこなう。
不明の箇所がおおい答弁書にたいし反論することはできないのであるから、原告は、被告にすみやかに回答することを求める。
1、被告の答弁書の乙1号証が示す問題
本件は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる事案である。したがって、正確な歴史認識がきわめて重要である。
被告は、朝鮮人の日本への強制連行の問題を、「国民徴用令」の問題に矮小化し、「官斡旋」という形式での強制的な朝鮮人連行を、あたかも朝鮮人の任意の主体的な行動であったかのように陳述している。
被告は、答弁書のなかで、「国民徴用令」の朝鮮人への適用は1944年9月~1945年3月だけであったことを証明する文書として1947年7月13日の『朝日新聞』の記事だとする記事のコピーを「乙1号証」として添付している。
しかし、1947年7月13日の『朝日新聞』には、東京版にも大阪版にも、被告が「乙一号証」として添付した記事は掲載されていない。
「乙1号証」は、被告が証拠文書の特定すら正確にできないということを証明している。被告の答弁書の「乙1号証」は、答弁書の内容が事実であると証明するものではなく、被告のいいかげんさを証明する書証である。
原告は、被告に、「乙1号証」の正確な出典を明らかにすることを求めると同時に、なぜ1947年7月13日の『朝日新聞』に掲載されていない記事を1947年7月13日の『朝日新聞』の記事であるとしたのか、その経緯と理由を明らかにすることを求める。
2、「強制連行」と「徴用」は同義ではない
被告は、答弁書において、なんら論理的根拠も歴史的根拠も示すことなく、
「原告らが用いる「強制連行」という用語の正確な定義は不明である。それで、「徴用」と同義で用いられるものと理解して、以下では、その前提で論述する」
と述べている(8頁)。
ここで、「「徴用」と同義で用いられるものと理解して」と被告は述べているが、このように「理解」する論理的・具体的理由を被告が示すことを原告は求める。
3、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である」について
被告は、石原産業が紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんして1946年9月に三重県内務部に提出した報告書(甲1の2号証)に依拠し、つぎのように答弁書で述べている。
「死亡者数一〇名、負傷者数一四名、逃亡者数二八二名」と記載してあるから、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である。そうすると氏名が一致しない26名……」(10頁)。
上記の10名とは具体的にだれのことか。また「氏名が一致しない26名」とは具体的にだれのことか。氏名を明らかにすることを求める。
さらに、被告に、甲1の2号証の記述を正確な記述であると判断する根拠を示すことを求める。
また、ここで被告は、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である」とあいまいな表現をしているが、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった」としなかった理由を示してもらいたい。原告は、被告が「……であった筈」と「……であった」との違いをどのように考えているのかを説明することを求める。
熊野市を被告とする裁判は午前11時に、三重県を被告とする第1回裁判は午前11時半に開廷しました。
熊野市を被告とする裁判で、原告は、訴状の要点を述べたあと、被告熊野市の答弁書にたいする基本的質問をおこないました。
その質問を文書化した原告の「準備書面(1)求釈明の申し立て」の全文はつぎのとおりです。
佐藤正人
事件番号 2011年(行ウ)第3号 固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件
原告 金靜美 (キム チョンミ)
同 竹本昇 他3名
被告 熊野市
2011年8月4日
原告の訴状にたいする被告の2011年7月14日付けの答弁書が、7月14日に津地方裁判所から原告に郵送されてきたので、原告は被告の答弁書の分析を直ちに開始したが、不明の箇所が少なくなかった。
そのなかのいくつかについて、原告は被告に質問する。
その回答を受けてから、原告は、被告の答弁書にたいする全面的な反論をおこなう。
不明の箇所がおおい答弁書にたいし反論することはできないのであるから、原告は、被告にすみやかに回答することを求める。
1、被告の答弁書の乙1号証が示す問題
本件は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる事案である。したがって、正確な歴史認識がきわめて重要である。
被告は、朝鮮人の日本への強制連行の問題を、「国民徴用令」の問題に矮小化し、「官斡旋」という形式での強制的な朝鮮人連行を、あたかも朝鮮人の任意の主体的な行動であったかのように陳述している。
被告は、答弁書のなかで、「国民徴用令」の朝鮮人への適用は1944年9月~1945年3月だけであったことを証明する文書として1947年7月13日の『朝日新聞』の記事だとする記事のコピーを「乙1号証」として添付している。
しかし、1947年7月13日の『朝日新聞』には、東京版にも大阪版にも、被告が「乙一号証」として添付した記事は掲載されていない。
「乙1号証」は、被告が証拠文書の特定すら正確にできないということを証明している。被告の答弁書の「乙1号証」は、答弁書の内容が事実であると証明するものではなく、被告のいいかげんさを証明する書証である。
原告は、被告に、「乙1号証」の正確な出典を明らかにすることを求めると同時に、なぜ1947年7月13日の『朝日新聞』に掲載されていない記事を1947年7月13日の『朝日新聞』の記事であるとしたのか、その経緯と理由を明らかにすることを求める。
2、「強制連行」と「徴用」は同義ではない
被告は、答弁書において、なんら論理的根拠も歴史的根拠も示すことなく、
「原告らが用いる「強制連行」という用語の正確な定義は不明である。それで、「徴用」と同義で用いられるものと理解して、以下では、その前提で論述する」
と述べている(8頁)。
ここで、「「徴用」と同義で用いられるものと理解して」と被告は述べているが、このように「理解」する論理的・具体的理由を被告が示すことを原告は求める。
3、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である」について
被告は、石原産業が紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんして1946年9月に三重県内務部に提出した報告書(甲1の2号証)に依拠し、つぎのように答弁書で述べている。
「死亡者数一〇名、負傷者数一四名、逃亡者数二八二名」と記載してあるから、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である。そうすると氏名が一致しない26名……」(10頁)。
上記の10名とは具体的にだれのことか。また「氏名が一致しない26名」とは具体的にだれのことか。氏名を明らかにすることを求める。
さらに、被告に、甲1の2号証の記述を正確な記述であると判断する根拠を示すことを求める。
また、ここで被告は、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった筈である」とあいまいな表現をしているが、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は10名であった」としなかった理由を示してもらいたい。原告は、被告が「……であった筈」と「……であった」との違いをどのように考えているのかを説明することを求める。
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