三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「総攻撃を発しなければ」

2014年08月21日 | 海南島近現代史研究会
 明後日(8月23日)の海南島近現代史研究会第8回総会・第14回定例研究会への山邉悠喜子さんからのメッセージです。

 19世紀末から実120年、日本は政治指導者からの、真摯な反省も謝罪も聞かれません。特に最近は歴史の逆転現象とも受け取れる動きさえ見られます。
 私の狭い生活周辺でも自粛ムードが進んでいます。声を上げる人に対する意味不明の攻撃が益々息苦しさを増しています。逼ってくる危機に国民が意識を高めて総攻撃を発しなければと思っています。
 三カ国連帯の歴史検証は、戦争絶対反対の立場から早期に実施すべき事でした。特に当時の体験者が年々少なくなり、遺跡は意図的或いは荒廃が顕著です。
 検証の事実を保全する為にも、各位のご活躍は時宜を得た貴重な企画だと思います。
 各位の絶え間ないご努力に心からの敬意と支持を表明し、ご成功をお祈りします。

      2014年8月20日
                            山邉悠喜子



http://japanese.beijingreview.com.cn/ztjl/txt/2010-12/09/content_318158.htm
http://japanese.beijingreview.com.cn/ztjl/txt/2010-12/09/content_318158_2.htm
『北京週報』日本語 2010年12月9日
■元人民解放軍兵士――山辺悠喜子さん
 山辺悠喜子さんは普通の日本人女性だが、山辺さんと中国、そして中国の軍隊、中国の人々との間には、特別で、そして不思議な関係がある。山辺さんは中国の人民解放軍に加わっていたことがあるからだ。

★12歳で海を渡り中国へ
 1941年、わずか12歳だった山辺さんは母親に連れられ、遼寧省本溪市に住む父親の元へとやってきた。当時山辺さんの父親は本溪にある日本の炭鉱会社で働いていた。中国に来るまで、山辺さんは中国で当時繰り広げられていた抗日戦争についてよく知らなかった。山辺さんはなんと言っても当時わずか12歳で、まだ子供にすぎなかったからだ。中国の地を踏んだ後、周囲でさまざまな出来事が起こり、山辺さんはようやく興味を抱くようになっていった。
 山辺さんは日本人が大勢の前で中国人を打ったり罵ったりするのをよく見かけた。ここは中国なのに、日本人はどうしてこんなに威張っているんだろう?中国の労働者はどうしてこんなに貧しいんだろう?どうして日本人は中国人を思うまま打ったり罵ったりするんだろう?山辺さんは次々と湧いてくる疑問に納得のいく答えを出すことができず、父親に聞いてみた。父親の答えはたった一言だった。「彼らが中国人だからだよ」。この答えを聞いて、山辺さんはますます当惑してしまった。納得も理解もできないままに、1945年8月15日を迎えた。

★人生を変えた一つの鍋
 1945年12月、山辺さんは遼寧省本溪市で東北民主連合軍に加わった。「その年、私はまだ16歳でした」。山辺さんは流暢な中国語で記者に語った。「実を言うと、国民党の軍隊も共産党の軍隊も、どちらも東北の私の家に来ました。ではなぜ私が人民解放軍に加わることにしたかというと、それは料理を作る鍋と関係があるのです……」。
 「国民党の軍隊は私の家の前を通る時、母に鍋を借りに来ました。軍隊が立ち去る時には返すという約束でしたが、鍋は壊され、軍隊もそのまま行ってしまいました。その後、共産党の部隊がやって来て、若い兵士が母に鍋を借りに来ました。この兵士の着ていた服はぼろぼろで、鍋はきっと返ってこないだろうと考えた母は、家で一番古い鍋を貸しました。一週間ちょっとして、兵士が鍋を返しに来ました。兵士は『ありがとうございました』と言って踵を返すと、すぐに走り去って行きました。母が鍋蓋を開けて見てみると、鍋の中にはニンジンが3本入っていました。当時の苦しい条件下で、人民解放軍の兵士たちは自分の食糧を切り詰めて私たちに分けてくれたのです。私たち家族はみなとても感動しました。そして父は私にこう言いました。『お前はこういう軍隊に入りなさい!』そうして、私は人民解放軍に加わったのです」。
 「当時、戦場の環境は非常に劣悪で、常に生と死の試練に直面せねばなりませんでしたが、戦友たちは苦楽を共にし、共に働き、厚い友情で結ばれていました。眠くなったり疲れたりした時には、『三大紀律八項注意』や『団結は力』などの歌を一緒に歌いました。これらの歌は私を励まし、教え導き、私は革命の道を歩む上で絶えず成長し、進歩することができました。私はもうすぐ80歳になりますが、こうした歌を歌うたびにまるで人民解放軍の軍隊の中にいるような気持ちになります」。

★あっと言う間に過ぎた8年の軍隊生活
 実のところ、軍隊に入った当初、山辺さんはうまく順応できたわけではなかった。それまで簡単な医療衛生知識を習ったことはあったが、それは書物の上のことにすぎず、「臨床」経験はまったくなかったからだ。すぐに仕事をこなすために、山辺さんは長征に参加したことのある女性看護師長や周りの経験ある医療看護員に教えを請うことにした。自分が身につけた後は、今度は山辺さんが現地の女性たちにそれを教えた。
 戦いが終わるたびに、多くの負傷者が出て、病床や医療看護員が不足した。山辺さんたちは負傷者に簡単な包帯の処置をすると、現地の農民の家に負傷者を預けた。実際のところ、農民のほうも豊かだったわけではなく、家にはふとんが一組、横になれるオンドルも一つしかなかったが、農民はそんな中でも負傷者の看護や世話を引き受けてくれた。農民も同じ兵士であり、軍隊の兵士も農民兵士も互いに「兄弟姉妹」と呼び合うような親密な関係だったのだ。農民たちは普段からよく軍隊にやって来て、軍を手伝って掃除をしたり、水を汲んだり、食事の支度をしたりしていた。苦い作業ではあったが、農民たちはとても喜んでいた。同じように、秋の収穫期には、今度は軍隊のほうが農民と一緒に畑に出て、農作業を手伝った。
 最初は、山辺さんはこうした状況をとても不思議に思っていた。山辺さんには日本の軍隊を恨む気持ちがあったからだ。中国の軍隊と一般の人々とがなぜこんな風に一つになれるのかが、山辺さんには分からなかった。それがある日、一人で「三大紀律八項注意」を真剣に読んでいるうちに、山辺さんは突然そのわけが分かったのだ。軍隊の幹部はよくこんなふうに訓戒を与えていた。「我々の軍隊はとても小さく、民衆の助けがなければ何も出来ず、戦いにも勝利することはできない。民衆が望まないことをし、三大紀律に反したら、非常に厳しい処分を受けることになる」。この時、山辺さんはあの時の兵士がなぜきれいに洗った鍋を返すことができたのかがようやく分かったのだった。
 解放戦争が始まると、山辺さんは軍隊とともに移動した。山辺さんが所属していた軍隊は本溪から広州へと向かった。途中、山辺さんは中国の農民を始めとする一般民衆がどれほど人民解放軍を支持しているのかをその目で目撃した。軍隊が行くところではどこでも、山辺さんは熱烈な歓迎を受けた。もともとは数カ月で家に帰れると思っていたが、軍隊では十分に食べることもでき、生活も楽しかったので、時間はあっという間に過ぎていった。中国が解放された後、上層部はようやく山辺さんたちを復員させることにした。1953年3月、8年間もの間中国の軍隊に加わっていた山辺さんは、ようやく日本へと向かう船に乗ったのだった。

★帰国後も中日民間友好交流を推進
 日本に帰った後、山辺さんは中国での経験を忘れることはなかった。それどころか、山辺さんはこの特殊な経歴の一こま一こまをしばしば思い出した。かつて、山辺さんは日本の侵略者が中国の人々に対して行ったひどい犯罪行為を実際にその目で目撃した。日本は戦争に負けたが、戦争が遺した問題はその後長い間解決されず、日本国内でこの歴史の真相を知る人は多くはなかった。そこで山辺さんは仕事を辞め、あちこちをまわって資料を集め、抗日戦争期の中国人捕虜強制労働の問題、日本が中国に遺棄した化学兵器の問題、細菌戦問題や慰安婦問題についての研究に没頭した。数十年にわたって、山辺さんは疲れを知ることなく、日本各地を奔走し、日本の人々に向かって歴史の真相を伝え続けた。
 後に、山辺さんは仲間と一緒に「731軍隊展示実行委員会」を設立し、現在までに日本で日本軍731部隊犯罪行為の展示を数十回行っている。また、山辺さんは『日本の中国侵略と毒ガス兵器』などの本を翻訳し、日本人に中国人の被った損害について伝えている。
 山辺さんは記者にこう語った。「私を育ててくれたのは中国です。中国の発展のために役立つことをするのは、私の望みでもあるのです。
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