三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)

2022年01月26日 | 海南島近現代史研究会
 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、この年の9月5日に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を半年後の2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。しかし、新型冠状病毒肺炎の伝染が治まらず、2022年2月19日に再々延期し、さらに8月21日に開催せざるを得なくなりました。
 以下に、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会で発表予定の小林節子さんの主題報告の内容を3回に分けて掲載します。
                         海南島近現代史研究会


■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)■
                           小林節子

■花岡事件の幸存者、王敏さんの証言
 私の中国への旅は秋田県花岡に強制連行された中国人慰霊の旅から始まる。
 1993年の4月、北京で開催される予定だった「花岡悲歌」展覧会が直前になって10月に延期された。参加予定者の中に秋には日程の都合で参加できない者が数人いた。私もその一人で、どうしても行きたいと主催者側に申し入れた。半ば強引だったが少人数のグル-プが作られ、6日間の日程で出発した。北京では万里の長城をはじめ、名所旧跡を足早に巡った。初めての中国、特に北京は何もかも驚きの連続だった。まず遺跡の多くが街の近くに残されていること、その規模の広大さに目を見張り、また街中に溢れる自動車、自転車、人の多さにも声を上げた。この旅の最大の目的は北京郊外に建つ中国抗日戦争歴史記念館で、花岡事件の幸存者、王敏さんの証言を聞くことだった。あの花岡事件を生き抜いた人に会える。私ははやる気持ちをなだめながらその時を待った。
 中国抗日戦争歴史記念館は盧溝橋のたもとにあった。現在の記念館が建てられる前の静かな建物だった。入り口の大ホ-ル壁面いっぱいに広がる抗日軍のレリ-フ、村を襲う日本軍と戦う人民軍のジオラマ、日本軍兵士の残虐な行為を再現したレプリカ、各種の写真、使用兵器など順路にそって見学を終えた。重い足を引きずるように会議室に向かった。王敏さんの話は私たちの心にさらに大きな衝撃を残した。

■石門の「労工訓練所」から花岡鉱山へ
 王敏さんの証言は八路軍の兵士として華北で交戦中捕虜になった話から始まった。
 「石門(のちの石家荘)の捕虜収容所に集められた。門柱には「労工訓練所」と書かれていたが、それは酷い所でした。宿舎とは名ばかり寝る場所は板の棚、寝返りもできないほど詰め込まれた。囲いの塀の上には電線が張りめぐらされていた。訓練を受けたことはない。集められ訓示と点呼が繰り返される毎日でした。写真や指紋を採られた。収容者が千人ぐらいになったとき突然全員整列の号令がかかり、その中から300人が一か所に集められ、行く先も告げられずに貨物列車に押し込まれた。降り立ったのは青島港へつづく駅で、急き立てられて乗船した。船の上で初めて自分たちが日本へ行って仕事をさせられるとわかったのです。」
 船の中は騒然となった。捕虜といっても兵士ばかりではなく日本軍の作戦によって強制連行された農民、一般人も多数含まれていた。口々に家への連絡はどうするのかと叫び、今にも海へ飛び込もうとする者もあった。一人も日本語を話せる者がいない、要求も通らない、管理者は銃を構えた日本軍兵士だった。日本軍は中国人に中国人を管理させる方針をとった。直ちに捕虜の中から将校経験者が選び出され、100人単位の中隊、小隊が組織された。統括する大隊長に選ばれたのは後に花岡蜂起を指揮する耿諄さんだった。耿諄さんは全員に向かって「こうなった以上生きて故郷の家族のもとに帰ろう」と呼びかけた。王敏さんは中隊長になった。
 四日目、船は下関港に着いた。そこからさらに列車に乗せられ三日目、小さな駅に着いた。そこが「花岡」駅だった。「その日はたしか1944年8月10日ではなかったか」と王敏さんは記憶を探った(7月28日説あり).王敏さんたち約300人が降り立った花岡は秋田県北部に位置し、周囲の山は五、六百メ-トルとあまり高くはないが、そこは昔から石炭だけでなく、金、銀、銅など鉱石が算出される場所で、鉱山災害で命を落とす人が多いことで有名な場所でもあった。王敏さんたちが連行される以前に徴用された日本人や朝鮮から連行された人たちもいた。この花岡鉱山に連行された中国人は王敏さんたちが初めてではなかった。すでに中国から連行された人たちが千人以上この鉱山で厳しい労働を強いられていた。王敏さんたちが担わされた仕事は鹿島組花岡出張所が請け負った鉱山をぬって流れる花岡川の付け替え工事だった。夏はともかく短い秋、降雪の多い冬の花岡で王敏さんたちはどのように過ごしたのだろうか。

■花岡蜂起
 「もう花岡事件のことは皆さんよくご存知でしょう。50年も前の話ですが、忘れることはありません。ひどい生活でした。食べるものが少ない、着るものは中国にいたときのまま、冬になっても綿入れ一枚支給されなかった。花岡の冬は私の故郷より寒いのです。雪の降る日に水の中の工事です。多くの仲間が死んでいきました。想像して見てください。私たちがどうして蜂起を決行したか。」
 王敏さんはこの蜂起で重要な役目を担った。花岡には王敏さんたち第一団の299人の他に後続として新しく第二団が翌年の4月に589人、第三団が5月に98人が連行されていた。あとから来た人たちを蜂起に巻き込むことはできないという耿諄さんの指示に従い彼らには内密に事を運ぶ必要があった。当夜も物音や人の叫び声に不審を抱き起き出した人たちをなだめ寝床に戻す門番の役を受け持った。しかし他の宿舎から物音に気づいた仲間も加わり(あるいは事前に蜂起の情報が伝えられていたとも考えられる)、蜂起に参加した人は800人を超えていたのではないかと王敏さんは話した。王敏さんの話は日本人である私たちを意識してか事件の核心部分については触れられなかった。人間としての尊厳を傷つけられる行為が繰りかえしおこなわれたこと、花岡に来てわずか1年も経っていないのにすでに仲間の三分の一が殺されていた事実、その憤怒は日本人労務監督全員と中国人通訳1人を売国奴として殺害に向かわせるほど強いものだった(結果は日本人労務管理者4人と中国人1人の殺害にとどまった)。 
その間の事情を王敏さんに深く問うことはためらわれた。たとえ戦時下であったとしても残虐行為が行われているのを黙殺したばかりか惨劇に手を貸していたのもまぎれもなく私たち日本人だと考えた。
戦後、5人殺害の責任が裁かれた極東国際軍事法廷(BC級横浜裁判)で、一時的にせよ耿諄さんは死刑判決を受け(後に無期懲役、1946年拷問による病気治療のため帰国)他の11人も懲役10年から2年の刑を受ける結果となった。もちろん鹿島組花岡出張所長たち8人にも絞首刑を含む有罪判決が下された(1948年3月1日判決、ただし減刑を受け1956年にかけて全員が釈放されている)。
中国人を強制連行し使役した事業所は日本国内135ヶ所に上るが裁判によって裁かれたのは花岡事件一件だけだった。王敏さんの話は蜂起したのち捕らえられ、共楽館広場と大館警察署前広場で繰り広げられた惨劇におよんだ。王敏さんは共楽館前広場に連行された。
 「蜂起は6月30日でした。失敗に終わりました。逃げた日本人が通報したのです。執拗な追跡の手から一人も逃れることはできませんでした。一週間後には全員が捕らえられました。逮捕されたわたしは共楽館広場の砂利の上に座らせられました。三日間食事も水も与えられませんでした。7月の日差しはもう夏のようでした。叩かれた傷が化膿しはじめました。水を欲しがっても与えられず気を失うものが大勢出ました。ここでも100人の仲間が死んでいきました。三日目になってようやく薄いおかゆが配られました。歩くことができない仲間を背負って中山寮に戻りました。それからしばらくは首謀者探しです。責任は全員にあったのです。大隊長が「責任は自分にある」と皆をかばってくれました。13人が殺人の実行犯として裁判のために別のところへ移されましたが、私たちはまた工事にかり出されまた。」

 王敏さんは広場の砕石の上にもう一人と背中合わせに結かれたまま坐らされた。それは身じろぎ一つ自由にならない拷問に等しい刑罰だった。王敏さんの左ふくらはぎはそのときの傷跡を深く残していた。ズボンを引き上げて傷跡を見せた。治療を受けることもなく自然治癒を待つよりほかに方法はなかった。事件の傷がまだ回復しない半月後には工事は再開された。花岡に連行されてまだ一年と経っていない間に起きた出来事だった。それから一ヶ月後、日本は敗戦となった。しかし王敏さんたちは何も知らされないままその後も工事に従事させられたという。解放されたのは9月も半ばではなかったかと王敏さんは言う。連合軍と日本に住んでいる中国人が中山寮を訪れ、苛酷な境遇の終わりが告げられた。「生き延びた、祖国に帰れるぞ」、王敏さんは一瞬そう考えた、がすぐに耿諄さんはじめ裁判のために勾留されている仲間の処遇や、この地に斃れた仲間の問題など確かめなければならないことに気づいた。日本の敗戦後、中国国民政府は居留民団を代表部としてただちに強制連行について調査活動を開始していた。王敏さんは後のことをこの人たちに託し、中山寮に残っていた529人の仲間たちを率いて帰国の途についた。1945年11月29日、花岡から列車を乗り継ぎ、博多港から祖国天津港に向かった。

■殉難者は417人
 以上、王敏さんの受難者としての聞き取りは終わった。しかし花岡事件はこれで終わりにはならなかった。王敏さんたちが帰国した後、同じく強制連行され花岡鉱山に連行されていた朝鮮人たちが共楽館広場で繰り広げられた惨劇を一部始終を見ていた。その一人が犠牲者が埋められている場所を告発した。殉難者は417人に上っていたのだ。その遺体は中山寮からさほど離れていない鉢巻山の中腹に埋められていた。発掘された400体の遺体は荼毘に付され、白木の箱に収められ一旦近くの寺に安置された。私が初めて出会った「万人坑」が花岡鉱山で犠牲になった人たちの墓所であった。
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