三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

コトバ、出会い、「立場」 

2007年01月30日 | 海南島
 1月20日から24日まで、連続5日間、毎日、海口南部地域を日帰りで訪ねましたが、そのとき、20日と21日には、姜美蘭さんに、22日と24日には林彩虹さんに、23日には金山さんに同行してもらいました。
 姜美蘭さんは、1987年に中国東北部の長春から海南島に来た朝鮮族の女性で、海南ラジオテレビ局の主席記者です。姜美蘭さんとは、2002年10月に、韓国挺身隊研究所の申栄淑さんらと共同で海南島「現地調査」をおこなったとき知り合いました。その後、姜美蘭さんとは、海南大学・海口・「朝鮮村」でのドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映会や、瓊海・三亜・崖県・海口などでの「現地調査」を共同でおこなってきました。
 林彩虹さんは、ことし1月16日に知り合ったばかりの海南島万寧市生まれの女性です。林彩虹さんは、漢族で、海南語と普通語を日常語としています。林彩虹さんは15歳のときに日本に「研修生」として行き、馬肉処理場で1年間、携帯電話組み立て工場で1年半、働いたそうです。仕事は日本人より厳しいのに「賃金」は3分の1で、もう二度と「研修生」としては日本に行きたくないと言っていました。
 金山さんは、中国東北部長春生まれの朝鮮族の男性で、7年間、日本の大学で「比較社会文化」を研究し、大連で日本語教師をしたあと、2005年7月に海南大学に教師として来た人です。金山さんとは、1月19日に、わたしたちが海南大学図書館との写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』共同編集・出版の打ち合わせをおこなったときにはじめて知り合いました。
 姜美蘭さんも金山さんも海南語は話せません。

 日本政府も日本軍も日本企業も侵略犯罪にかんする記録文書をほとんど公表しておらず、海南島に侵入していた旧日本軍兵士や日本企業関係者の手記もあまり発表されていません。日本が海南島でおこなった侵略犯罪を明らかにするためには、どうしても海南島の人たちから証言を聞かせてもらわなければなりません。
 海南島の人びとの話を聞きとるためには、あたりまえのことですが、語られるコトバを理解できなければなりません。海南島では、年配の人たちの多くは、海南語だけを使っており、普通語では会話はほとんどなりたちません。黎族の年配の人たちの多くは黎語だけを、苗族の年配の人たちの多くは苗語だけを話します。その人たちの話を理解するためには、海南語、黎語、苗語を知らないわたしたちは、「普通語」に通訳をしてもらわなければなりません。また、わたしたちの「普通語」の理解力はきわめて限られているので、複雑なことは「普通語」でも十分には理解できません。
わたしたちは、1月20日から24日までの5日間、姜美蘭さん、林彩虹さん、金山さんにたすけてもらいました。
 わたしたちは、1998年6月にはじめて海南島を訪れ、今回は12回目でしたが、年配の人たちから話を聞かせてもらうとき、おおくの場合、行く先ざきで傍にいる若い人たちに海南語や黎語や苗語を「普通語」に通訳してもらってきました。しかし、海南語や「普通語」を日常語としている人たちに同行してもらうと、知ることができる範囲が広がります。
 わたしたちは、はじめての土地ではじめて会う人から話を聞かせてもらうとき、最初に自分たちの目的を話します。ある瞬間、話を聞いてくれている人がわたしたちの動機を理解し、話し始めてくれます。その瞬間は、話はじめてから数十秒後のこともあるし、数分後のこともあるし、10数分後のこともあります。
 こんかい、林彩虹さんに同行してもらったときには、その瞬間は数秒後でした。それは、林彩虹さんが海南語でわたしたちのことを説明してくれたからだと思います。東山の人たちも、上雲村の人たちも、孫娘に話すように、日本軍侵略時のことを話しました。林彩虹さんは、わたしたちの質問を海南語に通訳してくれたのですが、いつのまにか、林彩虹さんの聞きとりをわたしたちが傍で聞いているという情況になりました。そのとき、わたしたちは、聞きとりという歴史認識作業の奥深さを痛感しました。証言者の心が開かれていることによって、証言の客観性とリアリティが強まるということを、再確認しました。
 1月22日の東山での聞きとりは、林彩虹さんのはじめての経験でした。帰りのバスのなかで、感想を聞くと、知らないことばかりだった、これからもっともっと知りたい、きょうはこころがいっぱいになった、と日本語まじりの漢語(「普通語」)で答えました。林彩虹さんは、記憶力が充実している10代後半に日本に2年半滞在していたのですが、「研修」という名の低賃金労働におわれて日本語の基礎学習することができなかったようです。しかし、林彩虹さんの気持ちは、わたしたちによく伝わってきました。
 1月24日の上雲村での聞きとりは、林彩虹さんの二度目の経験でした。この日、林彩虹さんは、生まれ故郷にいるかのように村人と話していました。村人が瞬時に林彩虹さんを信頼し、その林彩虹さんが信頼しているわたしたちに、村人が日本侵略時代の経験を「日本鬼子」というコトバも交えながら、心のままに話すという関係が結ばれたように思いました。
 証言を基本的な「資料」とするわたしたちの海南島近現代史研究は、林彩虹さんの協力によって次の段階にはいったように感じました。              佐藤正人
コメント   この記事についてブログを書く
« 大致坡で | トップ | 龍滾で »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

海南島」カテゴリの最新記事