三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島近現代史研究会第8回総会・第14回定例研究会の報告

2014年08月23日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(8月23日)、海南島近現代史研究会第8回総会と第14回定例研究会の合同集会を開催しました。2007年8月5日に創立してから毎年開催している総会は、今年で8回目になりました。
 主題は「海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪」です。19世紀末から進められた国民国家日本の中国東北部・モンゴル東部の侵略犯罪(住民虐殺、土地・資源の略奪、強制労働、文化破壊など)と、1939年以後の海南島軍事占領下でおこなわれた日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪をともに分析することによって新たに明らかになってくることを、参加者全員で考えるのが目的です。
 主題にかかわって、はじめに佐藤正人さんは、
    「120年前の1894年7月に日本は、日清戦争を、日ロ戦争、アジア太平洋戦争と同じよう
   に宣戦前に奇襲攻撃で開始した。初期の日清戦争の戦場は朝鮮であった。10月24日に日
   本軍は、はじめて清国の領土(遼東半島花園)に侵入し、11月21日に旅順を占領し、その
   後数日間、民衆を大虐殺した。
    以後、日本は、日ロ戦争後、さらに大規模に中国東北部を侵略し、1931年以後、モンゴ
   ル東部を侵略し、犯罪を重ねた。日清戦争も日ロ戦争も、実質的に世界戦争であった。
    侵略犯罪(軍事侵略。政治的侵略。経済的侵略。文化破壊。資源略奪。土地略奪。住民
   虐殺。労働強制。軍事強制。生物兵器・化学兵器使用。人体実験。性奴隷化……)のなか
   で、最悪の犯罪は住民虐殺ではないか。
    旅順大虐殺以後の海南島での住民虐殺……、国民国家日本の侵略犯罪を、今後、さら
   に具体的に明らかにしていきたい」
と話し、ことし7月8日から現在までに「イスラエル」が空爆などで2000人以上のガザの民衆を虐殺しており、民衆虐殺の歴史・侵略犯罪の歴史は現在の歴史であると述べました。
 つづいて、海南島から参加した金山(キムサン)さんが「中国東北地区と海南島における日本侵略者の民族離間政策について――朝鮮人(族)と黎族を中心に中国東北部・海南島における日本侵略者の分割統治政策」と題して報告しました。金山さんは、中国東北部の吉林省長春で生まれ育った朝鮮族で、2005年7月から海南大学で教師をしています。
 金山さんは、子どものころの体験も交えて、日本政府・日本軍・日本企業が中国東北部の中国人の土地を奪って朝鮮人を「入植」させ、耕作させたことで、日本敗戦後、おおくの朝鮮人が漢族に殺されたことがあったこと、日本が中国から「満蒙」を切り離し漢族と朝鮮族に対して差別待遇を行い、両者の対立を煽る政策を行ったこと、そしてこの分割統治政策・治安政策が海南島でもおこなわれ、日本政府・日本軍が、先住民の黎族を漢族と対立させた事実を報告しました。
 金山さんには、海南島近現代史研究会の『会誌』創刊号(2008年8月3日発行)に「社会转型期的黎族传统文化」を寄稿してもらい、2008年8月5日の海南島近現代史研究会第2回総会で「社会転形期における黎族の伝統文化」と題する報告をしてもらったことがあります(このブログの2008年8月6日「海南島近現代史研究会第2回総会報告」をみてください。金山さんとわたしたちは、2007年1月19日に、海南大学図書館との写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』共同編集・出版の打ち合わせをおこなったときにはじめて知り合いました。このブログの2007年1月30日の「コトバ、出会い、「立場」」、2007年4月7日~9日および5月21日~27日の「中国朝鮮族と在日朝鮮人の民族教育」1~7、2010年2月12日の「海南省民族学会と金山さんから」、2010年8月11日~8月13日の「20世紀初日本学者対黎族的研究与目的」1~3をみてください)。
 キㇺチョンミさんは「朝鮮・中国東北部・海南島における抗日反日民衆運動」と題して、
   「1894年に、日本軍は朝鮮に侵入し、朝鮮北部を日清戦争の戦場にすると同時に、朝鮮
   南部の甲午農民軍と戦い、圧倒的な武力で「制圧」した。この年12月28日に農民軍の指
   導者全琫準が淳昌で日本軍に逮捕された。
    1897年に、フランスが、清国と海南島を他国に割譲または軍事設備設置させないとす
   る条約を締結した。
    1907年に、フランスと日本は「協約」を締結し、公文交換の形式で,フランスは広東(海
   南島を含む)・広西・雲南を、日本は福建・満州・モンゴルを特殊利益を有する地域と定め
   た。
    1919年は、朝鮮では3・1独立闘争、インドではアムリットサルでの戦い(イギリス軍に
   よる大虐殺)、中国では5・4運動のときだった」
と述べ、キㇺチョンミさんが1992年にだした『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』(現代企画室)に触れつつ、民衆が日本の分割統治政策にも関わらず連帯して抗日闘争を戦った歴史を1932年以後に焦点をあわせて報告しました。
 斉藤日出治は「満鉄調査部と海南島」と題して、中国東北部の「調査による統治」が侵略犯罪とどのように関連していたのか、その統治がのちの海南島の侵略犯罪とどのように結びついていたのかについて報告しました。
 満鉄調査部は、満鉄初代総裁の後藤新平の植民地統治論―教育、衛生、学術の活動を重視し日本人が現地住民から「畏敬の念」を得るような統治を唱えた「文事的施設」を利用した統治策―にもとづいて調査活動を進めたが、この調査は満鉄の鉱山事業をはじめとする経営に直結する場当たり的な調査であったこと、さらには植民地医学と結びついた医療調査はのちの七三一部隊の人体実験や細菌戦と結びつくもので統治者の侵略犯罪と直結した調査であった。そして、日本が1930年代後半からアジアの南方に戦線を拡大する中で、満鉄の調査は中国東北部からアジアの全域に視野を広げ、「東亜共栄圏」全域の鉱山資源開発を射程に置くようになった。この延長線上に海南島が位置付けられ、海南島の鉱山開発、農業開発の調査が進められる。このような形で、「調査による統治」が資源略奪・経済侵略と住民虐殺と結びつく侵略犯罪の一環であることが明らかになる、と報告しました。

 主題報告を終えて、休憩をはさみ後半の部に入りました。
 まず、本総会に寄せられた李茂杰(リマオジエ)さん、山邉悠喜子さん、邢越(シンユエ)さんのメッセージが紹介されました(李茂杰さんからのメッセージはこのブログの8月20日の「祝海南岛近现代史研究会召开第8次大会召开」を、山邉悠喜子さんからのメッセージはこのブログの8月21日の「総攻撃を発しなければ」を、邢越さんからのメッセージはこのブログの昨日の「海南近现代史研究会 第八次年会召开 祝贺词」をみてください)。
 つづいて、主題報告とは別に、久保井規夫さんが、「竹島=独島問題の領有権を決定する新資料」と題して、日本外務省が1836年の「天保浜田藩竹島一件」を隠蔽していること、1895年に韓国政府顧問であったドイツ人ヘッセが所有していた地図(フランス・イギリス・ロシアが調査した独島が載っている)では独島が韓国の領土になっていること、日ロ戦争時の1904年に日本海軍が竹島に海底電線の設営工事を進めていたこと、などを紹介しました。久保井規夫さんは、昨年(2013年)2月10日の海南島近現代史研究会 第11回定例研究会(主題:海南島と独島)で、「独島(竹島)問題の解明 韓日資料・地図の分析を通して」と題する報告をし、ことし6月に新著『図説竹島=独島問題の解決』(柘植書房新社)を出版しています。
 つぎに、竹本昇さんが「ピースおおさかと大阪人権博物館の社会的役割について」と題して、近年の博物館が日本の侵略犯罪の加害の側面を展示から消し去ろうとする動きが進んでいることについて報告しました。
 大阪人権博物館は、紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに2002年から企画展「海南島で日本は何をしたのか」の準備をすすめ、推進してきましたが、その企画が2004年になって突然延期されました。この延期は、この企画展の開催に圧力を加えてきた「右翼」や市議会議員の攻勢を受けて、人権博物館が自主規制をおこなったものです。さらに、2008年にも海南島の侵略犯罪をテーマにしたセミナーの開催を企画しましたが、大阪市市民局人権室がこれを認めずに、セミナーは実現しませんでした(この問題については、このブログの2009年4月28日~5月2日の「大阪人権博物館での報告「日本占領下の海南島で」中止問題」1~5、2011年2月16日~2月20日の「大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について」、2012年7月19日の「「リバティの灯を消すな」について」をみてください)。
 一方、「ピースおおさか」は、日本がアジア諸国に加えた戦争の災禍も含めた戦争の被害を伝える、という主旨の下にスタートした平和センター(博物館法の規定に準拠していないが、平和に関する展示や資料取集を実施する社会教育施設)であるにもかかわらず、近年になって、侵略と加害の事実を伝える展示物を展示場から撤去して、その設置理念に反する展示内容の大幅な変更を進められている、ということが報告されました。日本の近年の政治・文化動向を反映するこれらの博物館の展示内容の変質について強い警告を発する報告でした。
 すべての報告が終わった後、質疑応答と参加者の発言を受けました。
 父が1940年以降海南島に派遣され佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の兵士として海南島で亡くなったという女性は、自分の父親が死亡した理由について関係者が口をつぐんで語らないことを不審に思っていたが、この研究会に参加して、海南島で恐るべき住民虐殺があったことを知り、海南島を自分も訪れて、現地に行ってみた、と話しました。
 日清・日ロの戦争が欧米帝国主義に抗する後発帝国主義国としての日本が企てた侵略戦争だという戦争の世界的性格を今回より深く学ぶことができた、という発言もありました。
 また、日本の歴史はその全体が加害の歴史であるにもかかわらず、その加害性は努力しないと見えないようになっている。今回の報告ではその見えない加害性が具体的に明らかにされた、という発言もありました。
 総会の運営の仕方の問題としては、一人ひとりの報告時間が短くて、じっくりと理解し討論することができないのではないか、という意見が出されました。これについては、総会とは別に学習会でそのようなじっくりとした討論をおこなえる場を設けることも今後検討していきたいと考えます。
 いつもより少ない参加者でしたが、質疑応答と感想を出し合うなかで、それぞれの疑問や問題関心が明確となり、相互認識を深化することができたように思います。
 最後に、キㇺチョンミさんが、2014年3月に行われた海南島の「現地調査」について、記録写真を示しながら報告しました。沙土の福留村で犠牲者の名簿作りが進んでいること、文書記録にまったくなかった阜乍村の虐殺を知ったこと、1943年 4月13日に日本軍が72人の村人を虐殺した陵水黎族自治県英州鎮九尾村(旧九尾吊村)で追悼碑建立の準備がすすめられていることなどが報告されました。
                                          斉藤日出治
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