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「韓国洪城、抗日運動家の金佐鎮将軍、韓龍雲先生の故郷」

2019年02月17日 | 抗日・反日闘争
https://japanese.joins.com/article/884/249884.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp
「中央日報日本語版」 2019年02月04日16時14分
■韓国洪城、抗日運動家の金佐鎮将軍、韓龍雲先生の故郷

【写真】忠清南道洪城郡結城面の万海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)先生の生家。韓龍雲先生を代表する詩「ニムの沈黙」と写真が展示されている。(写真=洪城郡)

 詩「ニムの沈黙」でよく知られる独立活動家であり詩人の万海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)先生(1879-1944)、青山里(チョサンリ)大捷の英雄白冶・金佐鎮(キム・ジャジン)将軍(1889-1930)。抗日運動の「星」の2人は故郷がともに忠清南道洪城(ホンソン)だ。洪城は「忠節の故郷」だ。
 今年は三一独立運動と大韓民国臨時政府の樹立から100年となる。毎年訪れる3月だが、今年は特別な年だ。洪城の過去の名前は洪州(ホンジュ)。高麗時代から使用された地名だが、日帝が地域の精神を抹殺するため1914年に「洪城」に地名を変えたという。
 韓龍雲先生は1879年に生まれた。1889年に生まれた金佐鎮将軍より10歳上だ。金佐鎮将軍の生家は洪城郡結城面省谷里、金佐鎮将軍の生家は葛山面杏山里(ヘンサンリ)で、6.5キロほどしか離れていない。歩いて1時間半の距離だ。韓龍雲先生と金佐鎮将軍が似た年齢であれば、幼い頃に地域の市場などで会っていたかもしれない。
 韓龍雲先生の生家には文学体験館がある。わらぶきの家で復元された生家には詩「ニムの沈黙」が展示されている。訪問客に韓龍雲先生の崇高な愛国精神を改めて確認してもらおうという趣旨だ。
 「ニムは去りました。ああ、愛する私のニムは去りました(中略)私はニムを送りませんでした。おのずと節回しが湧いてくる愛の歌はニムの沈黙を押し包んでまわります」。1926年に出版された詩集「ニムの沈黙」はニムを送る女性の感情を詠んだ詩だが、「祖国」に対する愛情を込めたものとしてもよく知られる。
 金佐鎮将軍の生家は西海岸(ソヘアン)高速道路洪城ICからわずか5分の距離にある。記念館には金佐鎮将軍の出生から独立運動、暗殺、叙勲など生涯を確認できる記録と資料が展示されている。金佐鎮将軍は15歳の時に家の奴婢を解放させたエピソードで有名だ。
 韓龍雲先生と金佐鎮将軍を輩出した洪城には、国のために命を捧げた数百人の英雄が眠っている。相次ぐ万歳運動で多くの住民が日帝の銃刀で命を奪われた。
 乙巳勒約に抵抗して全国各地で義兵活動が起きた1905年。それよりも前の1895年と1896年に洪城(当時は洪州)では第1次洪州義兵が立ち上がった。1906年には第2次義兵が蜂起する洪州城戦闘があった。
 洪州城戦闘は一つの戦闘では最も多い犠牲者が発生し、全国的な義兵活動の導火線になった。激しかった戦闘のため数百人の義兵が亡くなった。この義兵たちが埋められたのが洪州志士塚だ。洪州城を守って殉国した義兵の遺骨を発掘したのは1949年ごろ。今でも当時の激しかった戦闘跡があちこちに残っている。
 日帝は洪州城が義兵に占拠されないよう西門と北門を撤廃し、城郭も撤去した。しかし東門の朝陽門は住民の反対で保存されたという。
 三一運動が全国に広がった当時、洪城郡金馬面(クムマミョン)と長谷面(チャンゴクミョン)でも万歳運動が続いた。1919年4月1日に金馬面佳山里(カサンリ)臨時演劇公演会場で、4月4日と7・8日には長谷面(チャンゴクミョン)でも独立万歳を叫んだ。万歳運動で多くの住民が監獄の苦しみを経験した。
 洪城郡は先月25日、報勲・文化芸術など各界各層を代表する50人で構成された「三一運動100周年記念行事準備委員会」を発足させた。3月1日「1919、あの日の叫び」をテーマに演劇公演と万歳行進、日帝の蛮行再演パフォーマンス、日帝強占期禁止曲公演などの行事を準備している。
 キム・ソクファン洪城郡長は「不義に憤怒した誇らしい烈士が眠っている洪城で意味深い時間を過ごしてほしい」とし「三一運動100周年を迎え、烈士の高貴で崇高な精神を感じてほしい」と述べた。
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