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「3人の息子を北に捧げた親を恨み」…26年ドキュメンタリー撮影した在日朝鮮人

2021年09月08日 | 個人史・地域史・世界史
https://japanese.joins.com/JArticle/282653?servcode=700&sectcode=730
https://japanese.joins.com/JArticle/282654?servcode=700&sectcode=730
「中央日報日本語版」 2021.09.06 15:13
■「3人の息子を北に捧げた親を恨み」…26年ドキュメンタリー撮影した在日朝鮮人

【写真】在日朝鮮人のヤン・ヨンヒ監督。今年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭の開幕作に選定されたドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』では、80歳を過ぎて初めて済州島4・3事件の経験を告白した母がその後認知症が急激に悪化し、180度変わった母娘の日常生活を母の人生の回顧と共に淡々と描いた。

 「ニンニクは、いくつ入れますか」「決まってなくて、器いっぱいに入れて…」在日朝鮮人の義母が日本人の婿に鶏の水炊きの味を伝授する。熱心に手伝っていた婿が、一口スープを口にし、つたない韓国語で感嘆する。「おいしいです!」
 9日、京畿道坡州(キョンギド・パジュ)で開幕する第13回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭の開幕作に選定された在日朝鮮人のヤン・ヨンヒ監督(57)のドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーンだ。『ディア・ピョンヤン』(2005年)、『愛しきソナ』(2009)など、南北問題を描いてきたドキュメンタリー3部作の最後の作品だ。3編とも4兄妹の3人の兄を平壌(ピョンヤン)に送ったヤン監督自身の家族史を扱った。今回の映画『スープとイデオロギー』でヤン監督は、2009年に父が他界した後、日本で2人きりになった母が80歳になって初めて告白した故郷の済州島(チェジュド)4・3事件のつらい記憶を記録した。

◆「思想が違っても一緒にご飯食べよう、戦ったり殺したりせずに」
 先月30日、ソウル上岩洞(サンアムドン)中央日報で会ったヤン監督は「開幕作に選ばれたのは初めて」とし「今まで参加したどの映画祭よりも平壌に近い映画祭に、会えない家族を描いた作品を持っていくということが嬉しくも複雑だ。車に乗ったらすぐに平壌なのに、兄さんたち、甥・姪たちも見に来ることができればいいのに残念だ」と所感を述べた。
 タイトルのスープは「ご飯を意味する」と説明した。「考え・思想が違っても一緒にご飯を食べようということだ。今も世界では宗教が違うと言って戦ったり殺したりする。自分の家族だけでもイデオロギーが違う私と父が、笑ってご飯を食べるまでに15年ほどかかった」
 ヤン監督は北朝鮮に忠誠を尽くす朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系の両親を理解することができず、反抗して自由主義者として育った。3人の兄は、ヤン監督が6歳のとき、北送事業で一度も見たことのない「母国」に送られた。「金日成(キム・イルソン)の誕生日を記念する贈り物のように行った。そんな権力や組織のために個人の人生が軽く扱われることに、私は拒否感が非常に強かった」

◆「金日成への贈り物として北に送られた兄さんたち、両親を恨んだ」
 20代の時から父と一緒に食事もしなかったヤン監督は、ニューヨークに行ってきたのをきっかけに、1995年から自分の家族をカメラに収め始めた。
 「ニューヨークではマイノリティも堂々としていた。衝撃だった。日本では本名(朝鮮名)で暮らしながら、毎日迷っていた。就職を断られ、不動産契約するときもあまりにも厳しくて、日本名に変えるべきかと。そうして悩んでいるとき、自分を変える必要はまったくない、変わらなければならないのは社会だ。そんな風に意識が切り替わったら、重く考えていた自分のバックグラウンドが興味深く感じられた」。
 そうして10年間『ディア・ピョンヤン』を撮り、ヤン監督は父に歩み寄った。実家の家族まで北に送った母が、月に一度だけでも政治の話をしないで3人家族で平和に集まってご飯を食べようと頼んで、父娘は休戦を宣言した。
 映画の中の鶏の水炊きのスープは、ヤン監督が大阪を離れ、東京で一人暮らししていたとき、母が毎月必ず送ってくれたものだ。「韓国は『スープ』の国でしょう。お母さんは昔からスープを食べなければいけないと言って、済州島流に魚がたくさん入ったスープもよく作ってくれた」。

◆80歳の老母が初めて告白した済州島4・3事件の経験
 ヤン監督の母カン・ジョンヒさんは1930年に大阪で済州島出身の在日朝鮮人の両親の間に生まれた。カンさんは15歳の時、米軍の空襲を避け、両親の故郷に避難した。3年後、4・3事件に遭った。カンさんは母方のいとこたちが死に、叔父が警察に殺される光景を見た。初恋だった婚約者もその時に失った。カンさんは、幼い2人の弟を連れて30キロメートル歩き、命がけで大阪密航船に乗った。
 ヤン監督が自伝的長編映画『かぞくのくに』(2012年)を準備していた頃だ。体がひどく衰えた母は、18歳の時に済州で体験した4・3事件について話し始めた。「長い間、私のカメラを受け入れてきた母でも、4・3事件の話をする時は『怖い。(カメラを)どけて』と言った。私が「韓国は変わった。4・3事件について調査もたくさんして体験談も出てきているから、話しても大丈夫だ」と言ったら、具体的に話してくれた。北朝鮮のお兄さんたち、ひ孫たちも、こんな話は知っておくべきだと思って、記録を始めた」。
 ヤン監督は、「4・3事件の体験に触れ、済州出身の両親がなぜ北朝鮮を祖国として選択したのか、K-POP歌手も嫌いながら『韓国人は残酷だ、悪い』と言っていたのか、ようやく分かった」と語った。

【写真】ヤン・ヨンヒ監督は「ドキュメンタリーを撮る時は、できるだけ戒めの心とその人(被写体)への敬意を持ち、カメラを受け入れてくれることに対する感謝の気持ちを感じながら大胆かつ非常に繊細に近づかなければならない」とし「演出がもう一度その話をしてみて、もう一度歩いてみて、と言えば信頼関係が崩れる。注文された人は不快なはずだ。私は26年間、家族を撮りながら一度もそう言わなかった」と持論を述べた。

◆「母の心にようやく気付いたら、認知症に直面」
 「以前は、人前で北朝鮮の息子、孫のことをたくさん自慢する母が素直でないと思った。祖国・首領様のおかげでよく暮らすというけれど、私は内心、『嘘だ。お母さんが小包を送ってお金を送るからお兄さん達がよく暮らしているのに。祖国・首領様は何もしてくれないのに、どうしてそんな風に北朝鮮のプロパガンダのようなことを言うのか』と思っていた」。
 母の告白後、ヤン監督は初めて大阪に難民になって帰ってきた母の立場を思い描いてみた。「非常に複雑だったはずだ。帰ってきた大阪は差別が非常に酷かった。母はプライドが高い人だから熱心に、自分は大丈夫、堂々としている、そんな風に努力したのだと思う。子供の頃から私に『服を清潔にきちんと着れば、日本の人達が威張ってこない』と言って洗濯・アイロンをどれほど懸命にしていたか…」。ヤン監督の目頭が赤くなった。
 「希望をかけることができる宗教のように北朝鮮を求めたのだ。他人の前では北朝鮮の良いところだけ言ったが、家では泣いていた。上の兄が躁うつ病だと知って泣き、(北に送られた後、好きだった音楽の勉強を奪われたヤン監督の兄は躁うつ病に苦しみ、2009年に平壌で死亡した)、家族を思って泣いて。私は、そんな母が居心地が悪かったが、日本人の夫はむしろ『お母さんの人生だから、そうするしかない人生があるんだ』と尊重した。私がようやく気付き始めたとき、母の認知症がひどくなった」。
 母は認知症のため、この世を去った家族がそばにいるような幻想の中で暮らしながら、自分の映画を作るというヤン監督に喜び、早く作るように言った。昨年、脳梗塞で入院してからは、ほとんど目を開けられなくなった。

◆26年間で家族ドキュメンタリー3部作…訪朝禁じられ
 「予定していたわけではないが、26年がかかり、3部作になってしまった」。1995年に初めてカメラを持ち、イデオロギーが異なる親を理解するまでかかった年月だ。「なぜ日本名を使わないのか」「なぜコリアンが日本にいるのか」など、在日朝鮮人として生きながら、何度も受けた差別的な質問に対する長い答えでもあった。
 在日朝鮮人と北朝鮮問題を、理念を超えて家族の現実として描いた『ディア・ピョンヤン』がサンダンス映画祭審査員特別賞を受賞し、釜山(プサン)国際映画祭などで注目されたことから、ヤン監督は訪朝を禁じられた。「『ディア・ピョンヤン』の後、朝鮮総連からは謝罪文を書いて、もう映画を撮らないと言えば、兄に会えるようにすることもできると言われたが、私がどれほどの覚悟で作品を出しているか分からないんだな、と思った」。ヤン監督は謝罪文ではなく、平壌の姪ソナにフォーカスを当てた『愛しきソナ』を作った。「国の間には複雑な問題が多いが、私は政治家ではないから。そんな政治によって不便になった家族や個人の人生を通して歴史・政治・社会が見えるような作品を作る」と今まで決意してきた。
 「ドキュメンタリーを撮る中で、北朝鮮の家族が『なぜこんなことをするのか。私たちが罰を受けたらどうするのか」と包丁を持って私を追いかけてくる夢を何度も見た」というヤン監督だ。「北朝鮮にいる家族の安全も心配だが、北朝鮮を賛美する作品を作りたくない。家族を守ることができるように平均台の上を歩くように、一言、一言慎重にドキュメンタリーを作ってきた」とし「後で北朝鮮の家族が見た時に、『お前はこんな作品のために私たちを利用したのか』とは言われないようにしようという責任感がある」と述べた。
 ヤン監督は、ドキュメンタリーを撮りながら自ら守ってきた倫理についてこう語った。「たまにドキュメンタリーを撮って、社会に対して素晴らしい仕事をしているかのように自分の口で言う監督がいるが、恥ずかしく思う。ドキュメンタリーに登場する人々が生涯をかけて到達したその重みのある説得力のある言葉は、私たちがシナリオを書いたのではなく、その人の経験から出たものなのに、私たちは自分の作品として発表する。厚かましい。ドキュメンタリーを撮る人はその自覚があるべきだ。その自覚がなければ、ドキュメンタリーのために人の生活が存在しているように錯覚して、ここで泣くべきだ、もう1回その話をしてみて、もう1回歩いてみて、と言って一瞬にして信頼関係が崩れる」
 ヤン監督は次期作にはフィクション映画を構想中だ。「ドイツのナチス、ユダヤ人についての素晴らしい作品が今も多く出ているでしょう。アウシュビッツでどんな虐殺があったのかは、世界の人々が常識として知っているからその次から始めることができる。在日朝鮮人、北送問題、済州島4・3事件問題も映画でもっと多くの人に知らせたいと思っている」。
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