青空Green倶楽部

時々意の趣くままに・・ミヤンマ―・国際・政治・経済・温暖化or寒冷化・限界集落etc

山あり谷あり人生行路

2021-10-16 05:51:19 |  ドキュメント


 中国、河南省で軍属の息子として生まれ、限界集落で育ち、学生時代は学生運動と大学新聞会活動、バイトに明け暮れ、東証一部上場企業に就職し企業戦士として働き曲がりなりにも3人の子供を育てた。早期退職でイタリア・ミラノと国内営業の輸入商社を立ち上げ東京と名古屋にマンション、埼玉に戸建て住宅を購入し高収益営業の途上に不渡り手形を賜り閉鎖した。その後タンシュエ旧軍事政権の7年間ミヤンマ―に滞在、往来しミヤンマ―南部のチャウタービーチとヤンゴンで観光事業を計画、実施途上にサイクロン災害に遭遇し拙速な民主化政権の疑念と母親の介護もあり帰国したのです。

 1900年後半から2000年前半には日本や世界で航空機事故が多発しタイやフィリピンその他でクーデターや政変や事件が発生した時代です。国内では1985年の日航機墜落事故も2~3日の搭乗日違いで免れた。危機はロンドンからマドリード便に搭乗したBRITISH AIRWAYSの推測1000mの急降下で死をも覚悟したのですが何とかマドリードに着陸した。台湾での遠東航空高尾便の墜落事故もです。向田邦子さんが亡くなられた便とは数日違いでした。怖い銃携帯兵士とのイラン航空や後尾から黒煙噴射のラオス航空やバガン航空にも搭乗しましたが事故を免れました。

 タイ・バンコックでのクーデターには2度遭遇しました。戦車がドドと市街に行軍し夜中12時からは射殺指令の中11時50分にホテルに逃げ込んだ事もありました。マルコス革命の後で訪れたフィリピン・マニラでは新人民軍NPAの三井物産、若王子さん誘拐事件にも遭遇しました。前述のミヤンマ―の14~21万人被災のサイクロン大災害は4月30日に資金準備のため一時帰国した2日後の5月2日3日の災害でした。後に写真で見たビーチは死体で埋め尽くされ身震いしました。

 幸運にも20^30ヶ国の航空機に搭乗しましたが無事で幾多の政変や事件にも遭遇しましたが免れてきました。訪れた国々はヨーロッパとアジアが中心ですが無事故で盗難被害なども皆無でした。海外ではその国の法を遵守し前後左右上下に細心の注意を払い行動してきた結果でしょう。

 限界集落での生活も豪雨や台風、地震災害などからも免れコロナ禍など感染症、病気や薬もオーガニック新鮮野菜の恩恵か今までは無縁です。現況では田畑の雑草駆除や鹿や猿、猪、カラスなど野生動物と食糧争奪戦をしながら不便益(不便さを追求し体力・筋力・免疫力・独創力を高める)生活をしています。庭でクラッシック音楽の音量をあげブラックオーレを飲みながら穏やかな地球自然、社会を願いながら神仏や先祖に感謝しこれからも強運を維持して生きたいと思っています。


写真上はBritish Airways転載
  下はSoutheast Azia転載 クーデター報道新聞

 

 
コメント (4)
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