【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

平等院(京都散歩[25])

2010-04-09 00:50:46 | 旅行/温泉
        
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 薬師寺を出発して、車は一路、京都の伏見方面へ。これまでに何度も行こうと計画しながら、いろいろな理由で実現できなかった、平等院に着きました。

 平等院は、宇治市にある藤原氏ゆかりのお寺です。平安時代後期・11世紀につくられた浄土の世界です。山号は朝日山。宗派は17世紀以来、天台宗と浄土宗でしたが、現時点ではどの宗派にも属していません。

 本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼道で、開山は明尊です。

 鳳凰堂に、別途チケットを買って入りました。ここは1053年の建立で、浄土式庭園の阿字池の中島に東向きに建っています。本尊阿弥陀如来像のある中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊は「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されています。

 中堂は入母屋造、裳階(もこし)付きです。東側正面中央の扉を開くと、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開いています。建物外からも本尊阿弥陀如来を拝めるようになっているわけです。

 中堂の屋根上には1対の鳳凰(想像上の鳥)像が据えられていますが、現在のものは複製で、実物(国宝)は取り外し別途保管されているそうです。

 本尊阿弥陀如来像を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾されています。周囲の扉や壁はかつて極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていました。

 長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)が吊られています。

 壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落していますが、創建当時の堂内は、極楽のイメージの色濃い華麗なものであったと想像できます。

 現在の10円硬貨の表には平等院鳳凰堂が、一万円紙幣の裏には鳳凰堂の屋根上の鳳凰がデザインされています。

 今回で年度末の春休み、2泊3日の、京都・奈良散歩の報告は終わりますが、後日、2軒ほど立ち寄った居酒屋を紹介します。


村井吉敬『エビと日本人Ⅱ』岩波新書、2007年

2010-04-08 11:44:26 | 政治/社会

 本ブログ3月18日付で紹介した前書『エビと日本人』(1988年)から約20年、テーマの状況はどう変わったのでしょうか。
              

             


 日本ではバブル景気とその崩壊。「失われた10年」と続きました。日本ではエビもバブルに乗りましたが、その後「凋落」傾向。しかし、世界的にはエビの生産と消費は上昇気流に。

 生産国としての中国の台頭、アメリカは2004年にエビの輸入量で日本を抜き一位に。そして、養殖エビが大隆盛。しかし、それとともにマングローブの破壊が進みなした。

 台湾ではウイルスの蔓延で養殖が崩壊。エビの種類ではブラックタイガーにとってかわってバナメイの生産が好まれる状況になりました。そして2004年12月のスマトラ沖地震による津波が与えたエビ養殖地の甚大な被害。こうした激変の様子を伝えるのが本書です。

 日本がエビの大量消費国であることに変わりはありません。消費者はエビが生産国からどのような経路で自らの手元にたどりつくのか知っているのでしょうか? その経路は実に複雑です。日雇い労働者⇒池の管理人⇒スーパーバイザー⇒池主⇒集買人⇒工場労働者⇒工場長⇒パッカー(加工・輸出業者)⇒(輸出)⇒商社・大手水産会社⇒荷受け(一次問屋)⇒仲卸(二次問屋)⇒鮮魚店・スーパー⇒消費者(p.180)。

 揚げ物を作ることすら面倒がるようになった日本消費者のゆえに、エビの加工も途上国労働者が担っています。そして、このような複雑な経路で輸入され、消費者に届くエビは安全な食品なのか?それが今わからなくなっています。

 エビを食べ過ぎる国民は以下の諸点を自覚しなければなりません。養殖エビは、環境にやさしくないです。安全な食品とは断言できません。輸入に依存しすぎます(自給率の低下)。生産・加工国の労働事情を知るべきです。そして、グローバル化の行きすぎた進展。(以上pp.196-199)。

 著者は引き続き現地調査からエビ生産の実情の新たな諸相を伝え、統計を更新し(水産物生産量、エビ生産量、養殖エビ生産量一位:中国[2005]、エビ輸入量一位:アメリカ[2005]、エビ一人当たり消費量一位:エストニア[2005])、20年間のエビを巡る環境の大きな変化を書きとめることに成功しました。

 最後にエビのフェアトレードについて言及している点も新しいところです。


薬師寺(奈良散歩⑥)

2010-04-07 00:23:33 | 旅行/温泉
               

 薬師寺は唐招提寺から500メートルほど、徒歩で10分ぐらいです。その唐招提寺からテクテク歩いて、薬師寺に到着。

 薬師寺は、奈良市の西ノ京町にある名刹で、法相宗の大本山です。南部七大寺のひとつに数えられています。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇で、皇后(のちの持統天皇)の病気の回復を願い藤原京に建立しました。

 平城遷都にともない、現在の地に移されたといわれています。長い年月のあいだに主要な堂宇うを失いましたが、戦後、西塔、金堂などを復元、白鳳時代の絢爛豪華な姿を現代によみがえらせています。

 1998年にユネスコにより世界遺産に登録されました。

 金堂には白大理石の須弥檀[しゅみだん]の上に、中央に薬師瑠璃光如来、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩が祀られています。
 薬師三尊のある内陣は長和4年(1015)に撰述された薬師寺縁起によれば、「瑪瑙[めのう]をもって鬘石とし、瑠璃[るり]で地となしてこれを敷き、黄金を以て縄となし、蘇芳[すおう]を以て高欄[こうらん]をつくり、紫檀[したん]を以て内陣天井障子となすとあり、まばゆいばかりの浄瑠璃浄土の世界だったようです。

 大講堂は2003年に再建されたものです。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物です。本尊は銅造三尊像(重要文化財)で、中尊の像高約267㎝の大作です、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについてはよくわかっていないようです。かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」と呼ばれていましたが、大講堂の再建後、「弥勒三尊」と称するようになっています。
  
  東塔はこれから10年かけて修復が行われます。

    奈良は京都とどこか雰囲気が違います。空がひろく田園が広がり、空気がよく、ほのぼのとします。「まほろば」は、いいところ、すばらしいところという意味ですが、言葉の響きを含めて奈良は「まほろば」です。京都はその言葉とうまくつながりません。

            

唐招提寺(奈良散歩⑤)

2010-04-06 02:29:11 | 旅行/温泉


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 最終日も、レンタカーを借りて奈良、そして京都伏見の平等院まで足をのばして、京都駅で車を返しました。

 唐招提寺は奈良市の五条町、いわゆる西の京と呼ばれるエリアにあり、鑑真和尚の創建による古刹です。南部六宗の一つである律宗総本山。本尊は廬舎那仏。井上靖の小説『天平の甍』でよく知られています。

 南大門(1960年の再建)をくぐると正面に金堂(国宝)があります。背後には講堂(国宝)が控えています。このほか、境内西側に戒壇、北側に鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側に宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡といった伽藍の配置です。

 10年ほど前に来た時には、金堂は修復中でした。今回は修復も済み、たっぷりと仏像を拝観しました。圧巻です。
・乾漆廬舎那仏坐像 - 像高304.5㎝。奈良時代末期、8世紀後半の作です。廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊です。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐しています。東大寺のそれと似ています。光背の千仏は、864体が残っているそうです。

・木心乾漆薬師如来立像 - 像高336.5㎝の高さがあります。廬舎那仏像とは造像技法が異なり、木心に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆像です。平安京遷都後の作と推定されています。

・木心乾漆千手観音立像 - 535.7㎝の高さです。奈良時代末期の作で、廬舎那仏像よりはやや時代が下がるとされています。千手観音像は一般に40手(合掌手を含めて42手)で千手を表現するものが多いらしいですが、この像は実際に1,000本の手をもち、大手42本の間に小手がびっしりと植え付けられています。現在は953本とのことですが、当初は計1,000本の手を有していたのが、長い歴史の中で若干損なわれてしまったようです。

・木造梵天・帝釈天立像 - 像高はそれぞれ186.2及び188.2センチメートルで、奈良時代末期 - 平安時代初期の頃の作品です。

・木造四天王立像 - 像高は185.0 - 188.5センチメートル。これも奈良時代末期 - 平安時代初期の頃の制作であろうと推定されています。


法起寺(奈良散歩④)

2010-04-05 00:24:30 | 旅行/温泉

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  法輪寺の次は、すぐ近くの法起寺。このお寺のは別名、岡本尼寺、岡本寺などともとも呼ばれています。

  昨日の本ブログで予告した「大変なこと」というのは気候のことです。このお寺に入る直前まで晴れていたのに(法輪寺)、出たときあたりから雲行きが怪しくなり、風がでてきたかと思うと、なんと雪が降ってきました。奈良でこの時期に雪、それも直前まで晴れていたのに・・・。そして、何と車でホテルまで戻ろうとするその道すがら、ものすごい数のツバメがパニックのような状態で低空飛行、そして乱舞していました。見たことのない様相です。頭をよぎったのはヒッチコックの「鳥」という映画。それはともかく、行きかう車の運転手、オートバイの人たちも驚いて見呆けているという感じでした。ツバメたちは暖かくなるはずのここ奈良での異常低温と雪に、自分を失ったのでしょう。きっと。(3月29日)

 本題に入ります。
  法起寺の創建は、推古14年(606)です。聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられています。そして、ここは法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つです。

  『聖徳太子伝私記』によると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその死に臨んで、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とするように遺命し、山背大兄王はそれに応えて大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したということです。

  その後、福亮僧正が舒明10年(638)に聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立、恵施僧正が天武14年 (685)に宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。

 中門をくぐって右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったようです。

  当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも記録があるようです。奈良時代には相当栄えていましたが、平安時代以降、法隆寺の指揮下に入り、寺運は哀微しました。鎌倉時代には、講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰退し、江戸時代初期には三重塔のみが残されるのみでした。

  荒廃を憂い、寺僧の真政圓忍とその弟子たちは延宝6年(1678)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財が集められ、元禄7年(1694)に講堂が再建され、文久3年(1863)に聖天堂が建てられ現在の寺観が整えられました。

  三重塔は昭和47年(1972)から3年かけて解体修理されました。


法輪寺(奈良散歩③)

2010-04-04 00:42:39 | 旅行/温泉
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 法輪寺は奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教の寺院です。

 宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像です。法隆寺東院の北方に位置します。駐車場がなかったので、お寺の前に止めさせてもらいました。

 現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていません。

 法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明です。発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いないと言われています。
飛鳥時代の建築らしい特徴がでていました。

 本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像は飛鳥時代末期にさかのぼる古像ですが、今回は見られませんでした。

  この時点では、空は青空、風もやんで、いい春のようでした。 田園が広がっていました。しかし、この後、大変なことが起こりました。(to be continued)

                                

中宮寺(奈良散歩②)

2010-04-03 00:55:36 | 旅行/温泉
               
               

 法隆寺のあとは、その足で中宮寺へ。中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しています(創建当初は400メートルほど東にあったとか)。

 法隆寺と同じ頃、7世紀前半の創建と推定されています。創建の詳しい事情はよくわかっていないようです。

 ここの見どころは何と言っても半跏思惟像です。またの名を弥勒菩薩と言います。
中宮寺の本尊で、飛鳥時代の作品です。

 像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っています。材質のことはともあれ本当に気品のある仏像です。
 
 もうひとつ天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)というのがあります。
本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重なものですが、現在、奈良国立博物館に寄託されtれいます。中宮寺には1982年に製作されたレプリカがあります。
 聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍、曼荼羅といわれています。


法隆寺(奈良散歩①)

2010-04-02 00:46:42 | 旅行/温泉

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  京都の浄瑠璃寺のあと、奈良県に入り、翌日からレンタカーで法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺、唐招提寺、薬師寺と廻りました。欲張って當麻寺も行こうと考えましたが、時間がなく断念。そして最後は再び京都の伏見、平等院でした。

 今日は法隆寺の紹介です。高校の修学旅行以来です。ほとんど記憶がありません。運がよかったのはボランティアの初老のガイドさんに出会い、約2時間半、説明を受けたことです。この日は大変に風が強く、寒い法隆寺にもかかわらず、有意義でした。

 法隆寺は言うまでもなく聖徳太子が創建したお寺です(607年頃)。1993年に世界遺産として登録されました。

 五重塔は、木造塔として世界最古のものと言われています。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分です。
 初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像が安置されています(計80点の塑像が国宝)。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表わしています。北面には、釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像があります。

 五重塔でも三重塔でも、この種の建物は言ってみれがお墓だそうです。五重塔は中に心柱が入っていて、その末に仏舎利があります。この心柱を支えているのが周りの建物です。飛鳥時代の建物です。

 中門(国宝)は入母屋造の二重門です。正面柱間が4間、真中に柱が立っています。門内の左右に塑造金剛力士像が安置されています。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものですが、風雨にさらされる場所に安置されているため、かなり劣化しています。

 金堂[入母屋造の二重仏堂](国宝)は飛鳥時代の建物で、この時代のいくつかの特徴を伝えています。まず柱がエンタシスのように中ほどが膨らんでいること、雲肘木、卍くずしの高欄、「人」の字の束などです。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔のみに見られる様式です。
 金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものでしたが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱が焼けました。黒こげになった旧壁画(重文)と柱は現存していますが、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管され、非公開です。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれました。
 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来が本尊として安置されています。

 夢殿(国宝)は、奈良時代の建立の八角円堂です。堂内には太子の等身像とされる救世観音像が安置されています。長年秘仏で白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが「発見」した像です。現在、春、秋の一定期間しか開扉されません。金箔がよく残っているそうです。
 
               
  
   柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺    子規


浄瑠璃寺(京都散歩[24])

2010-04-01 00:39:56 | 旅行/温泉


              
 駆け足で、京都、奈良をまわってきました。といっても今回は、遷都1300年記念の奈良が中心です。

 京都で訪れたのは奈良に比較的近い、浄瑠璃寺と平等院の2ケ所です。今日は、浄瑠璃寺の紹介です。

 浄瑠璃寺の所在は、木津。JR京都駅から、同じくJR奈良線に乗り換え、木津でいったん降り、そこからまた乗り換えて、加茂で下車します。路線バスが浄瑠璃寺まで走っていますが、本数が少ないので、タクシーに乗りました。

 浄瑠璃寺は地味なお寺ですが、落ち着きのある風情のある古刹です。9体の阿弥陀如来像で有名です。この辺りは当尾(とうの)台地と呼ばれ、京都の最南端です。簡単に行くことができると思っていましたが、それなりに奥深いところです。

 本堂(1107年の建立)に入ると、この9体の阿弥陀如来像が横一列に安置されています。そこから九体寺(くたいじ)の通称があります。平安時代には、阿弥陀堂というと、9体の阿弥陀を並べることが自然で、京都あたりには35ヶ所ほどあったそうです。浄瑠璃寺はその頃に建てられたもののなかで現在も残る唯一のものです。

 ひとつの本堂に九体の阿弥陀如来を置くという考え方は「九品往生(くおんおうじょう)」という思想によります。「九品往生」とは、極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)には、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えを指しています。なぜ9体なのかと言うと、人間が生前に行った善行を仏教では9段階に分け、それを迎えに行く阿弥陀如来が異なるということになって「いるようです。

 境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期からの本堂および三重塔があります。あいにく三重塔は、修理中でホロを被っていました。ここに薬師如来が本尊として祀られています。

 浄瑠璃世界とは西方極楽浄土に対して薬師如来が東方に司る浄土という意味合いです。薬師如来の安置される三重の塔がそこで「過去」を示します。そこから人は押されるように、浄土式庭園を展望すると、その先は現世。そして本堂にいらっしゃる阿弥陀如来像(西方極楽浄土の教主)が未来。浄瑠璃寺の全体はその異次元空間です。

 京都のお寺は、その歴史をたどると有力な貴族や権力と有形無形に結びついていることが多いのですが、浄瑠璃寺はそれらと無縁で人々の信仰による寄付によってつくられたそうです。そういうこともあって、虚飾なく落ち着いた雰囲気の古刹です。好感がもてます。