思わず、
「惨めだな。モリアーティ・・・・・」
いや、モリアーティじゃない。南井だけれどね。
そして残酷だ。残酷なのは、彼にだけにではない。テレビ前で見ている、俗にかつて若かった世代の者たち全員にだ。
言葉巧みに人の心を操り、頭脳明晰で犯罪者の心に寄り添って、自分は陰でその犯罪に関わっている、そんなシャーロック・ホームズの最大の敵のモリアーティのようだった南井なのに・・・・。
そしてそれは、ドラマとは関係なく、どんなにイキイキと美しく煌めきの時間を持っていた人であっても、「老い」がそっと近づいて来て、時にはその人からそのきらめきを奪っていってしまうと言う事を、まざまざと見せつけられたような気さえしたのだった。
南井の犯罪が、老いが引き起こした病気だったなんて。(つまり認知症?)
この悪の大輪のような魅力のあった南井は、「相棒16/第7話「倫敦からの客人」」も
「相棒17第17話「倫敦からの刺客」」も徳永富彦さんが書かれた作品で、いわば彼の生み出したキャラ。
だから最大の敵であるかのようだった彼とどのように対決していくのかは、いわば彼の自由だと思う。
しかしながら、彼がロンドンでの連続事件の犯人を殺した時から、すでに感情をコントロールできなかったのではないかと、右京が言った時には、なんだかそうじゃない方が良いのにと言うような違和感を感じたのだった。それはずっと私たちが思い込んでいた南井のキャラとは、だいぶかけ離れていたように感じたからだ。
だけど、よく考えてみれば、私たちが彼を知ったのは上にもリンクした「倫敦からの客人」からで、その前のロンドンでの彼との相棒時代の、打てば響きあうようなその関係を知らない(知らされてなかった。もしくは登場してなかったからだけれどね。)
前回の14話では、右京が初めて南井と会った時の事を思い出し、記憶の中で「どうぞよろしく」と手を差し出した時、思わず本当に右手が前に出て、それを寂しそうにひっこめると言うシーンがあったが、そのシーンはさりげないワンシーンであったが、凄く印象的だった。
ー ああ、あの時に戻れたならば。
と言うような気持ちが右京にもあったのではないだろうか。
又、南井にしても、右京と捜査の事で語り合いグラスを鳴らした夜を、やはり一人グラスを傾けながら思い出す。
混濁して行く自我と失われつつある明確な意識の中で、それは彼を彼として留めるにふさわしい強烈な光の想い出だったのかも知れない。
杉下右京は光。傍に居ると、自分の深い影をより一層感じると南井は言った。
ああ、これって「ダークナイト」じゃない?
だけどこの逆五芒星事件はそうであっても、2年前の前の人を使っての殺人関与などは、それだけではないような気がしてしまうし、もっと違うイメージの話が良かったなあなどと思っていたのですが、やっぱりドラマはシナリオだけじゃないなと強く感じたのは、ラストの右京と南井との対峙したシーン。
引き込まれました、伊武さんの演技に。
また辛そうに彼を見る右京。
そして彼を抱きしめて、「私もあなたを忘れないでしょう。」と言う右京。
なんか・・・・・・、目頭が熱くなりました。
さらに驚いたのは、さらなるラストシーン。
崖の上から覗くのはワトソンのはず。シャーロックが覗いてしまった感がしたが、あのカメラワークで、なんか「うわぁ」と思えて、この回が凄く素晴らしい回だったような気さえしてしまったのだった。
だけど、「ここから飛び降りて生きているわけがない。」と言われ、死体が上がっていない南井ですよ。
もしかしたら・・・・?
ってなわけで、終わり良ければ総て良しじゃないが、ラストから一気に面白さが加速したかもしれないなどと思った。
お話の細かいことを言うと、右京の冠城に「特命係を止めてください。」と言い、冠城に反論されると、切れたように言い返す右京。また何を言われても、自分の頭で考えて行動する冠城が好きだなと思った。またトンネルの中を走ってくる右京も良かったし、最後に「特命に帰りましょうか。」と言うシーンも好きだなと感じた。
※
ところで、この「深淵」と言うタイトルから、
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」、この言葉を思い出した人も多くいるのではないでしょうか。
― 深淵を覗くとき、また深淵もお前を見ているのだ。
この言葉を、以前ツイッターで知ったのですが、ニーチェの言葉で、なんかカッコいいし、なんとなく普段にも使えちゃいそうな言葉だなと思えて、凄く好きな言葉なんです。
ちゃんとした言葉ではなんていうのだろうかと、チェックしたら、この言葉ってニーチェの「善悪の彼岸」と言う本の中に書かれているらしいですよ。
思わず、ワーイ、ヤッターヤッターって思いました。
無知なるがゆえに、また新しい知らなかった知識に出会えて私は幸せです。