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コジキジゲン

「自スイ」からカイホウされるヒ・・・

2018-08-03 23:51:57 | 古事記字源

 ・・・「オデッセイ(odyssey・長期間の冒険、知的探求・原題: The Martian)」・・・生きて帰還する・・・何処に?・・・「イリ」・・・「相撲」、「首相夫人」、「モリカケ」・・・「アメリカン-フットボール」・・・今度は「アマチュア-ボクシング会長」・・・「文部省-事務次官」・・・ヤァッ!!、日本の政治屋っていうか、接待してもらうことは市民生活の「日常文化」、「おもてなし=客や大切な人への気遣いや心配り・心のこもった待遇・お+持て成し・饗応・供応」・・・「うらてあり=台所・調理場・庫裏(くり)・かまど(竈)場=穀物や食料品などを加熱調理する際に火を囲うための調理器、竃(かまど・釜戸)設備のある部屋・御勝手」?・・・「おもて=表・面」+「なし=為し・成し・生し・無し」、「うらて=裏手」+「あり=有り」?・・・モチロン、市民社会の「イデオロギーの私物化」も「階級身分文化」のウチ・・・ボクも接待される側の「身分」になりたいモノだが・・・組織的な権力機構の序列の最下層で生きているらしいから「自炊」で充分か・・・「自スイ」からカイホウされるヒはメデタイだろうナッ?・・・


 「炊」って?・・・
 炊=火+欠=火+丿+乛+人
  =異体字は「𣣛」
  =炊は火に息をふきかけ・・・
       欠=あくび・ケツ・カク=欠伸・・・
         欠片(かけら)     
       欠=缺=缶(午凵)+夬(ユ人)
  =空気を送って火の勢いを得て食物を煮炊きすること
       欠唇・欠損・欠員・欠陥・欠如
       欠点・欠乏・残欠・不可欠
       欠けている所・補欠
   ↓↑
   吹=口+欠=ふく・スイ・・・吹奏楽団
   次=冫+欠=氷+欠・・・・・・次点・目次・次第
   欣=斤+欠
     よろこぶ・キン・ゴン・コン
   ↓↑   
   欸・欹・欧・歌・款・歓・歛
   欷・欺・歙・歔・欣・欽
   欠=缺=ある物体の穴からでる空気(気体)の音
   歇・歉・次・歠・歃・歎・歟
   欲=谷+欠・・・欲望・私欲・欲求
   資・・・資質・資本・資源
   姿・・・姿態
   恣・・・恣意
   諮・・・諮問
   茨・・・茨城・茨木
   盗=次+皿=ぬすむ・トウ・・・盗賊
 ↓↑   ↓↑
 炊=たく・かしぐ・スイ
   めしをたく・煮たきをする
   炊事・雑炊・一炊 (イッスイ)
   自炊(ジスイ)・晨炊(シンスイ)・雑炊(ゾウスイ)・・・
   炊ぐ(かし-ぐ)・炊煙ん(スイエン)
   炊臼の夢(スイキュウのゆめ)
   炊金
   饌玉(スイキンセンギョク)
   炊爨(スイサン)
   炊事(スイジ)
   炊飯(スイハン)
   炊(た)く
   い・かし・かしぎ・とぎ・とぐ
   一炊之夢(イッスイのゆめ)
   栄華之夢(エイガのゆめ)
   邯鄲之夢(カンタンのゆめ)
   黄粱之夢(コウリョウのゆめ)
   盧生之夢(ロセイのゆめ)
ーーーーー
 推古天皇(スイコ-テンコウ)・・・ふるきをおす-天工・転向・転校
 ↓↑   ↓↑
 欽明天皇十五年(554年)・・・欽=金+欠
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
 第三十三代天皇
 在位
 崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 最初の女帝(女性天皇)
 諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ・ガクデンブ)
 ↓↑   ↓↑
 和風諡号は
  豊 御食 炊   屋姫 尊
 (とよみけ かしき やひめのみこと)
  豊 御食 炊   屋比売 命
       炊   屋姫  尊
ーーーーーー
  大陸では
 「男子は氏
  女子は姓
  を称した」・・・?
 ↓↑
 推古天皇(すいこてんのう)
 欽明天皇十五年(554年)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
 第三十三代天皇・・・サン拾サン
 在位
 崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
 ~
 推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
 最初の女帝(女性天皇)
 諱は額田部皇女・・・・・額(客の頁)田(た・デン)の部?
  (ぬかたべのひめみこ)
 和風諡号は
  豊  御食 炊   屋 姫 尊
 (とよ みけ かしき や ひめのみこと)
  豊  御食 炊   屋 比売 命
        炊   屋 姫  尊
 ↓↑
 三輪 逆(みわ の さかう)
  ・・・ナンで「逆(さからう・さかさ)」?
      纂話(三話・参話・讃和)は逆?・・・編纂の倭は逆?
 姓は君・・・姓(女+生)は君(尹+口)=クン=訓?
 三輪特牛(矢口)の子・・・特(牛+寺)の牛(𠂉+十)
 敏達天皇(びだつてんのう)・別名、「他田天皇」?ナゼ、タダ?
 (渟中倉太珠敷尊=沼名倉太珠敷命)
 (ぬなくらのふとたましきのみこと)
 の寵臣
 ↓↑
 敏達天皇十四年(585年)六月
 蘇我馬子が
 敏達天皇に仏法を許され
 仏舎を造り、仏像を迎えて供養した際に
 三輪 逆は
 物部守屋
 中臣磐余と寺塔を焼き
 仏像を廃棄しようと謀ったが
 蘇我馬子に拒まれた
 同年八月
 敏達天皇が崩御し
 殯宮で葬儀
 三輪 逆は
 「朝廷を荒らさぬよう
  鏡のように浄めて平らかに治まるよう
  臣は仕えます」
 と誄を読み
 隼人を集めて殯庭を警護
 ↓↑
 用明天皇元年(586年)五月
 穴穂部皇子は
 炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)
 を犯さんと欲して、殯宮に押し入ろうとした
 「三輪逆」は
 兵衛を集めて宮門を閉じて侵入を拒んだ
 穴穂部皇子は
 七度開門を呼ばまわったが
 三輪逆は入れなかった
 穴穂部皇子は激怒
 大臣の蘇我馬子
 と
 大連の物部守屋
 に
 三輪逆は不遜であると言った
 馬子と守屋はこれに同意
 穴穂部皇子は
 物部守屋とともに兵を率いて
 磐余の池辺を囲んだ
 三輪逆は
 三輪山に逃れ
 その日の夜に山を出て
 炊屋姫の後宮(海石榴市宮)へ隠れた
 逆の一族の
 三輪白堤と
 三輪横山が
 三輪逆の居場所を密告
 穴穂部皇子は
 守屋に遣いを出して
 三輪逆と2人の子供を殺すことを命じた
 物部守屋は三輪逆を討つべく兵を率いて
 海石榴(つばき)・・・海石榴(カイセキリュウ)
          ・海の石の榴(ざくろ)=根は駆虫薬
 市宮へ向かった
 穴穂部皇子も
 物部守屋と合流すべく自邸を出たが
 蘇我馬子が
 「王者は刑人に近づくべきではない」
 と諫言して止めた
 穴穂部皇子と馬子が待っていると
 守屋が帰ってきて
 三輪逆を斬ったことを報告
 (穴穂部皇子が自ら射殺・・・)
 馬子は「天下の乱は近い」と嘆き
 守屋は「汝のような小臣の知るところではない」
 と言った・・・
 ↓↑
 三輪逆は敏達天皇に信任され
 内外のことを悉く委ねられていた
 このため
 炊屋姫と馬子は
 穴穂部皇子を深く恨むようになった
 後
 穴穂部皇子と物部守屋は
 蘇我馬子によって滅ぼされた
 ↓↑
 穴穂部皇子(あなほべのみこ)
 ?~用明天皇二年六月七日(587年7月17日)
 欽明天皇の皇子
 聖徳太子の叔父
 物部守屋と結託したが
 蘇我馬子に殺された
 ↓↑
 欽明天皇の皇子
 母は
 蘇我稲目の娘
 小姉君
 異母兄に
 敏達天皇・用明天皇
 同母姉に
 穴穂部間人皇女(用明天皇妃・聖徳太子生母)
 同母弟に崇峻天皇
 ↓↑
 穴穂部皇子は皇位を望み
 敏達天皇十四年(585年)八月
 兄・敏達天皇が崩御し
 同年九月
 大臣・蘇我馬子の推す
 大兄皇子(用明天皇)が即位
 これに対抗し
 大連・物部守屋と結んだ
ーーーーー
 中臣 勝海
 (なかとみ の かつみ)
 生年未詳~用明天皇二年(587年)四月
 中臣勝海は
 蘇我氏の家来(太子伝暦には太子舎人)
 迹見赤檮によって殺された
 ↓↑
 姓は連
 出自は不明
 父は中臣鎌子・・・中臣鎌足とは別人?
  ・中臣磐余・・・磐余?・・・神武天皇
   磐余は黒田の子
   常盤の弟に伊礼波とあり
   同一人物の可能性・・・
  ・中臣真人・・・天武天皇?
 の諸説がある
 大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
 中臣氏は舒明期の中臣御気から鎌足まで記録が無い
 ↓↑
  ・中臣-宮地-連-鳥麿呂
 長屋王の謀叛を密告し
 無位から外五位に取り立てたれ
 後に長屋皇の家臣に殺された
 ↓↑
 中臣氏は
  ・中臣黒田
  ・中臣塩屋連?・・・中臣枚夫?
  ・中臣鯯(コノシロ)=塩屋連(魚制)魚(コノシロ)
     堺部鯯魚(コノシロ)
     幼魚=ママカリ・つなし
   有間皇子に味方し
   鎌足と敵対し殺された
  ・中臣鯯より始まる
  ・中臣黒田から3代目
  ・中臣御気
 子が
  ・中臣鎌足・・・?
 ↓↑
 敏達天皇十四年(585年)三月
 物部守屋と共に
 疫病流行の原因が
 蘇我氏の仏教信仰のせいと奏上
 用明天皇二年(587年)四月
 天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し
 群臣にこのことを協議するように命じた
 守屋と共に詔に反対し
 後
 守屋の挙兵に呼応し
 自宅に兵を集め
 押坂彦人大兄皇子の像
 と
 竹田皇子の像を作り呪詛
 が、反乱計画の不成功を知って
 彦人大兄に帰服
 皇子の宮に行ったが
 迹見赤檮(迹見首赤檮)に殺された
 ↓↑
 迹見赤檮(迹見-首-赤檮)
 (とびのいちい・とみのいちい)
  首(おびと)
 物部守屋の反乱
 合戦で
 迹見赤檮は
 秦河勝とともに
 物部守屋を
 直接弓で射止めた

 赤檮(イチイ)=イチイガシの別称
    イチイ科の常緑針葉高木、園芸植物、薬用植物
ーーーーー
 系図によると
 勝海には
 中臣若子
 中臣古多比
 中臣贄古
 の三子があり
 古多比からは
 中臣宮処氏(中臣宮処氏連)が
 贄古からは
 中臣大家氏(中臣大家連)が出た
ーーーーー
 菟道貝蛸(うじのカイダコ)皇女
 大中臣安遊麻呂(おおなかとみのアユまろ)・・・鮎
 中臣烏賊津連(なかとみのイカつのむらじ)
 粟田入鹿(あわたイルカ)・・・・・・海豚
 道公宇奈岐(みちのきみのウナギ)・・鰻
 加茂小鮒(かものをブナ)
 堺部鯯魚(コノシロ)・・・・鯯魚(コノシロ)
 紀鯖麻呂(きのサバまろ)
 大豆鯛麻呂(おおまめタイまろ)
 尾張須受枳(おわりのスズキ)・・・鱸
 粟凡鱒麻呂(あわおおしのマスまろ)
ーーーーー


ーーーーー
 イシク・クル
 (ウイグル語:Ysyk-Köl
  キルギス語:Ысык-Көл
  ロシア語: Иссык-Куль)
 天山山脈の北
 キルギスの北西に在る内陸湖
 イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記
 同国最大の面積をもつ
 イシク・クル州に位置しており
 この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている
 ↓↑
 古称は
 熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)
 唐代の詩人
 岑参は
 「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮
  海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥」
 と詠んでいる
 ↓↑
 イシク・クルの湖底
 多数の遺跡が水没している
 湖畔の砂浜には陶器など
 湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せ
 なぜ遺跡が存在するかは未だに謎
 遺跡は1つではなく
 様々な時代の遺跡が水没している事が判明
 烏孫の
 赤谷城が有る
 ↓↑
 湖には少なくとも16世紀頃までは島が有り
 更にその島には城が存在していた
 ↓↑
 イシク湖には旧ソ連時代から魚雷の試験場があった
 ↓↑       ↓↑
 イリ=Ili, ile  ↓↑
    イリ地方・イリ川・イリ
    カザフ自治州・グルジャ市の別名
    韓国全羅北道の地名 (Iri)=裡里市
 ↓↑
 イリ・カザフ自治州
 中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置する
 カザフ族の副省級自治州
 グルジャ市(伊寧市)を州都とし
 全国で唯一
 タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)
 の2地区を管轄する地区級行政単位
 ↓↑
 民族構成は
 カザフ族が25.5%
 漢族が45.2%
 ウイグル族が15.9%
 を占める
 自治区の中心部は
 天山山脈
 ボロホロ山脈
 (天山山脈の支脈)に挟まれた
 イリ盆地(イリ川上流部)
 ↓↑
 唐代には
 突厥旧属カルルク部の地
 後に
 カラハン王朝の領土
 1124年
 契丹貴族
 耶律大石が
 イリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立
 1211年
 カルルク部はモンゴル帝国の支配下に入り
 チャガタイ・ハン国に分封
 1677年
 オイラト・モンゴルの
 ジュンガル部が南下して新疆に入り
 イリ地方をその中心とした
 1755年
 清朝は
 ジュンガル部との数十年にわたる戦いの後
 イリを征服し
 1762年
 イリ将軍を置いた
 イリ将軍が駐在した
 恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった
 新中国成立後
 1954年
 イリ・カザフ自治州が成立
 ↓↑
 1949年10月1日
 中華人民共和国新疆省イリ専区が成立
 ↓↑
 中華人民共和国 新疆ウイグル自治区
 伊犁哈薩克自治州
 ↓↑
 漢代、シルクロードの北に位置し
 烏孫国の領土となり、
 西域都護府の指揮に帰した
 その後
 西突厥に属すと同時に
 唐の北庭都護府に臣従
 南宋時は西遼、元代には
 チャガタイ・ハン国
 清初には
 ジュンガル部に属した
 ↓↑
 乾隆年間に
 清朝がジュンガルを征服すると
 グルジャは
 イリ将軍の管轄下の新疆の一部となった
 1871年
 ヤクブ・ベクが
 東トルキスタンに侵攻し
 カシュガルで独立を宣言し
 ロシア帝国は
 グルジャ(固勒扎)すなわち
 寧遠城を占領して
 イリ地方を併合
 清朝は
 1881年
 ロシアとの間でイリ条約を締結し、イリ地方を回復
 光緒年間の
 1884年
 新疆省が設置され、県制が施行されると
 グルジャは
 寧遠県となった
 中華民国成立後の
 1913年に
 伊寧県へ改称
 ↓↑
 1944年
 ウイグル人、カザフ人などの
 テュルク系住民の間で独立運動が起こり
 ソ連の支援の下で
 東トルキスタン共和国が設立
 グルジャは
 1949年に
 同政権が
 中華人民共和国へ合流するまで
 同政権の首都となっていた
 ↓↑
 1952年
 グルジャ市(伊寧市)が
 伊寧県から分離され
 1954年にイリ・カザフ自治州が設置されると
 グルジャはその首府となった
 ↓↑
 東トルキスタン共和国
 1944年
 グルジャ市内で起きた
 ウイグル人の武装蜂起に
 タルバガタイ、アルタイのカザフ人ゲリラ勢力が合流し
 中華民国からの独立と東トルキスタン共和国の成立を宣言
 同政権は
 中国国民党の新疆省政府と対立し
 ソ連の支援の下で
 1949年まで独立を維持
 国共内戦を終結させた
 中国共産党とソ連の協議により
 1949年8月
 中華人民共和国に合流
 9月
 省政府の国民党勢力も中華人民共和国への服属を表明
 東トルキスタンは
 中国共産党の統治下に置かれた
 ↓↑
 この後
 国境に近い
 イリ・カザフ自治州は
 ロシア、ソ連からの影響を受け
 中ソ対立が激しくなった
 1960年代には
 約6万人の
 イリ・カザフ自治州在住の
 ウイグル人
 カザフ人
 の農牧民がソ連へと脱出

 グルジャは
 東トルキスタン独立運動が活発な地方の1つ
 1997年2月
 大規模な騒動では、デモ隊が暴徒化
 漢民族などの一般庶民に攻撃し
 数人の死者と数百人の負傷者が出た
ーーーーー
 ・・・???・・・

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