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コジキジゲン

血圧と血糖値・結-鴉(蛙)通⇔「阿都・阿津」・「阿毎王朝」

2018-06-01 23:51:48 | 古事記字源

 2541日目・・・「巌流島の決闘」・・・武蔵は櫂(かい)を削った2尺5寸と1尺8寸の木刀2本、二刀流&物干竿(三尺の白刃・備前長船長光)の「燕返し」・・・「宮本武蔵=二刀を用いる二天一流兵法の開祖」、「佐々木 小次郎=号は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)」、山口県の「岩国市の吉香公園」や、福井県の「一乗滝」には小次郎の銅像、山口県「阿武」町大字福田には小次郎のものと伝承される墓」・・・小次郎は周防国岩国(現山口県岩国市)の出身、決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳・・・
 巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ島(無人島)。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」・・・「隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられた・・・このとき船と運命を共にした船長の明石与次兵衛の名」を取り、江戸時代には「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた・・・「明石の与次兵衛」・・・」?
 巖流島は「小倉藩(細川藩)」・・・
 武蔵は細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中で「佐々木岩流」から挑戦を受け、舟島での決闘を約した・・・
 武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』(安永五年(1776年))によると慶長十七年四月十三日(グレゴリオ暦、1612年5月13日)に行なわれた・・・といわれる・・・?
 武蔵が再び小倉の地を踏むのは
 巌流島の決闘から
 22年後、50歳になってから
 その2年前に
 明石10万石の
 小笠原忠真(おがさわらただざね)が
 小倉15万石を得て小倉城に入り
 そのとき小倉藩の家老になっていたのが
 武蔵の養子・伊織・・・
 宮本伊織は
 寛永元年(1624)
 武蔵の養子となり
 2年後に
 明石藩の小笠原忠真の近習になった
 その後、家老へと出世・・・
 宮本武蔵は
 寛永十七年(1640)
 細川忠利
 に招かれて
 熊本藩に移り
 5年後、その地で死没・・・
 豊前
 小倉藩の
 第二代藩主
 後に
 肥後-熊本藩の初代藩主
 細川忠利
 生誕 天正十四年十一月十一日(1586年12月21日)・・・十一ヒ?
 死没 寛永十八年三月十七日(1641年4月26日)
 丙戌(辛・丁・戊)⇔辛巳(戊・庚・丙)
 庚子(壬・ ・癸)⇔壬辰(乙・癸・戊)
 壬寅(己・丙・甲)⇔壬辰(乙・癸・戊)
  辰巳=空亡
 ↓↑
 肥後・熊本藩の初代藩主
 細川忠利
ーーーーー
 ↓↑
 熊本藩
 1600年~1871年
 まで存在し
 52万石
 1871年
 肥後国(熊本県)の
 球磨郡・天草郡
 を除く地域と
 豊後国(大分県)の
 一部(鶴崎・佐賀関等)を知行
 肥後藩(ヒゴハン)とも
 藩庁は
 熊本城(熊本市)
 ↓↑
 肥後隈本(熊本)領を
 占拠していた
 各戦国大名は
 菊池氏、阿蘇氏、相良氏
 北部、中部、南部と各々に拠点
 菊池氏は阿蘇氏に支配され
 後、
 阿蘇氏は身内の後継争い・内紛
 豊後国の
 大友氏によって
 旧菊池領は平定され
 阿蘇氏もその支配下に入った
 ↓↑
 鹿児島・島津氏
 鉄砲伝来後
 相良氏は島津軍に降伏
 阿蘇氏も島津軍に次々と城を落とされ滅亡
 九州平定の寸前の島津軍は
 大分・大友の要請により
 挙兵した
 豊臣秀吉の大軍に敗れ
 肥後を放棄(秀吉の九州平定)
 ↓↑
 戦国期
 佐々成政の統治
 豊臣秀吉より
 富山城主であった
 佐々成政に
 肥後の統治を命じたが
 佐々成政に反感し肥後国人一揆
 秀吉は
 加藤・小西に鎮圧を命じ一揆は収束
 佐々成政は自害
 ↓↑
 加藤・小西は
 肥後を平定し
 肥後の所領を与えられ
 加藤は北部
 小西は中南部
 を所領
 ↓↑
 慶長五年(1600年)
 肥後南部24万石を領していた
 宇土城主
 小西行長は
 西軍につき、
 関ヶ原の戦いで
 西軍の敗将となり
 斬首、改易
 ↓↑
 加藤清正
 肥後北部25万石を領有し
 熊本(隈本)城主の
 加藤清正が
 関ヶ原の戦いの戦功で
 行長の旧領を獲得
 豊後国内にも
 鶴崎など
 2万石を加増され
 52万石を領した
 ↓↑
 清正は
 熊本城を築き
 城下町や道路網を整備
 新田開発、灌漑用水の整備
 統治を安定させた
 ↓↑
 朝鮮出兵で
 動員・徴税体制
 関ヶ原の戦い後の
 天下普請などで
 農村の疲弊
 重臣達の権力争いを招いた・・・
 加藤家2代
 加藤忠広は・・・加藤清正の三男
         慶長十六年(1611年)
         父の清正が死去し
         十一歳で跡を継いだ
 寛永九年(1632年)
 駿河大納言事件・・・徳川忠長
           極位極官が従二位大納言
           領地が駿河国で通称は
           駿河大納言・徳川家康の孫
           藩、甲斐甲府藩主→駿河駿府藩主
           父は第二代将軍-徳川秀忠の三男
           母は江(浅井長政の三女)
 に連座し?
 改易、
 出羽国庄内に配流
 加藤家断絶・・・
 ↓↑
 細川氏
 寛永九年(1632年)
 豊前国小倉藩より
 細川忠利
 が54万石で入部
 以後、
 廃藩置県まで細川家が藩主
 手永(てなが)という
 独自の地方行政制度を敷いた・・・
 細川氏が豊前、肥後で設けた地方行政単位
 郡の下に30村程度を束ねる
 責任者として惣庄屋を置いた
 ↓↑
 細川家の
 上卿三家
 世襲家老
 松井氏(歴代八代城代、実質上の八代支藩主)
 米田氏(細川別姓である長岡姓も許されていた)
 有吉氏
 細川藤孝時代からの重臣で
 一門家臣として
 細川忠隆の
 内膳家と
 細川興孝の
 刑部家
 支藩として
 宇土支藩
 肥後新田支藩(高瀬藩)
 ↓↑
 細川忠利は
 晩年の宮本武蔵を迎え
 島原の乱で活躍
 忠利死去の2年後
 寛永二十年(1643年)
 忠利への殉死をめぐり
 森鴎外の小説の
 「阿部一族」の反乱が起きた
 二代
 細川光尚は
 七歳の
 綱利を残して早死
 御家断絶の危機があったが
 三代綱利が家督を継ぐ
 綱利は
 赤穂浪士
 大石良雄らの切腹を任された
 ↓↑
 五代宗孝は
 延享四年(1747年)
 江戸城中で人違い
(九曜家紋間違い)により
 旗本
 板倉勝該に斬られて死去・・・板倉修理勝該=旗本寄合席六千石
 弟の
 細川重賢が急遽藩主の座に就き
 細川家の
 九曜紋を

 「細川九曜⇔離れ九曜」
 に変えた
 ↓↑
 重賢は
 宝暦五年(1755年)
 藩校
 時習館を開館・・・時を習う館(やかた・カン)
 行政と司法を分離し
 刑法を改正
 藩の機構を整備
 ↓↑
 熊本藩では百姓一揆が無く
 (島原の乱の
  天草は
  唐津藩領)
 農民は豊かで領地の統治は良かったが
 藩財政は火の車
 江戸大坂の大商人からの
 多額の借金は何度も踏み倒し
 大商人達からは
 貧乏細川と嫌われた・・・
 ↓↑
 幕末の藩論
 勤王党、時習館党、実学党
 の3派に分かれた
 実学党の中心は
 横井小楠・・・横井小楠=横井時存(ときひろ・ときあり)とも
        文化六年八月十三日(1809年9月22日)
         ~
        明治二年一月五日(1869年2月15日)
        己巳(戊・庚・丙)⇔己巳(戊・庚・丙)
        癸酉(庚・ ・辛)⇔丙寅(己・丙・甲)
        辛丑(癸・辛・己)⇔丁丑(癸・辛・己)
         辰巳=空亡
 彼は『国是三論』を著し
 藩政改革に携わったが失脚
 安政五年(1858年)
 福井藩主
 松平慶永(春嶽)の誘いにより
 政治顧問として福井藩に移った
 文久二年(1862年)
 江戸留守居役らと酒宴中に
 刺客に襲われ
 一人逃亡したという罪で
 翌年、熊本藩士の籍を剥奪
 ↓↑
 勤王党の中心人物
 宮部鼎蔵も
 元治元年(1864年)
 池田屋事件で死亡
 これにより
 時習館党が主流となった
 ↓↑
 横井小楠は
 戊辰戦争
 薩長主導の
 明治新政府に加わり
 江戸無血開城後
 上野の
 寛永寺に立てこもった
 彰義隊の討伐に参戦
 明治二年(1869年)1月5日午後
 参内の帰途
 十津川郷士ら6人組に襲撃され暗殺
 ↓↑
 明治三年(1870年)
 知藩事
 華族に列した
 細川護久は
 実学党を藩政の中心に据え
 明治四年(1871年)
 廃藩置県により熊本県
 明治十七年(1884年)
 細川家は侯爵に叙爵
 昭和五十八年(1983年)
 細川家
 第十八代当主
 細川護煕(第79代内閣総理大臣)
 が熊本県知事に就任
 ↓↑ ↓↑
 歴代藩主
 加藤家
 外様 52万石 (1588年~1632年)
 加藤清正
 加藤忠広
 ↓↑
 細川家
 外様 54万石 (1632年~1871年)
 細川忠利~
 ↓↑
 支藩
 宇土藩(うとはん)
 熊本藩の支藩
 藩庁は宇土(宇土市)
 正保三年(1646年)
 熊本藩二代藩主
 細川光尚の
 従兄弟
 行孝(初代忠利の弟・立孝の子)が
 宇土郡・下益城郡に
 三万石を分与
 新小路町と称される
 「本町筋南側」の一角に陣屋(御屋敷)を構えた
 六代
 立礼と
 八代
 立政は熊本藩主として迎えられた
 ↓↑
 十一代
 225年在封
 明治三年(1870年)
 熊本藩に合併し廃藩
 ↓↑
 江戸藩邸
 永田町に上屋敷
 愛宕の下と
 神保こうしに中屋敷
 白銀猿町に下屋敷
 大阪中ノ島
 常安町に
 大阪藩邸
 ↓↑
 歴代藩主
 細川家
 外様 3万石(1646年~1870年)
 ↓↑
 肥後
 新田藩、後の高瀬藩
 熊本藩の支藩
 寛文六年(1666年)
 熊本藩三代藩主
 細川綱利の弟
 細川利重が
 熊本藩の蔵米より
 3万5千石を分与され立藩
 江戸鉄砲洲に住み
 参勤交代を行わない
 定府大名
 明治維新により
 慶応四年(1868年)
 仮藩庁を
 高瀬町奉行所(玉名市)に置き
 高瀬藩と改称
 明治三年(1870年)
 玉名郡岩崎村(玉名市)
 の陣屋に移ったが
 熊本藩に合併し廃藩
 ↓↑
 細川家
 外様 3万5千石(1666年~1870年)
 ↓↑
 天平十二年(740年)頃の
 『豊後国風土記』
 豊後国の8つの郡のひとつとして
 海部郡が記録・・・海部(あま)⇔阿毎⇔阿武・・・則天武后
                ⇔阿部・阿倍・安倍・安部・安陪
              海人=あま=白水郎
 海部郡の条には
 「この郡の百姓は、みな海辺の
  白水郎(あま)なり。よりて海部の郡という」
 と記録
 海部郡の名は
 海人=あま=白水郎
 が多く住んでいたことに因る・・・
 承平年間(931年~938年)の
 『和名類聚抄』に
 海部郡に
 佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、
 日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井
 の10郷があったと記録
 実際には
 佐加、穂門、佐井、丹生の4郷が
 海部郡に属し
 他は
 日田郡に属していた・・・
 佐加、佐井は
 現在の大分市の東部に
 丹生郷は
 大分市東部から臼杵市にかけての地域
 穂門郷は
 臼杵市、津久見市から佐伯市に及んだ・・・
 ↓↑
 江戸時代
 臼杵藩・佐伯藩が藩庁
 熊本藩が領地を有していた
 旧佐伯藩領の一部が
 天領(幕府領)
 ↓↑
 海部郡
 幕末から明治初年当時の
 実際の村割と取調帳の記載との間に差異・・・
 明治八年(1875年)の村落統合を経
 明治十一年(1878年)の
 海部郡分割時に存在した村名とも
 一部でずれ
 幕府領は佐伯藩が預地として管轄(1町260村54浦2島)
 後の南海部郡域(102村50浦1島) - 幕府領、豊後佐伯藩
 後の北海部郡域(1町158村4浦1島) - 幕府領、豊後臼杵藩
 豊後佐伯藩、肥後熊本藩
 明治三年十二月二十四日(1871年2月13日)
 佐伯藩預地が
 日田県の管轄
 明治四年七月十四日(1871年8月29日)
 廃藩置県により
 藩領が
 臼杵県、佐伯県、熊本県の管轄
 十一月十四日(1871年12月25日)
 第1次府県統合により、全域が
 大分県の管轄
 明治十一年(1878年)十一月一日・・・?
 郡区町村編制法の
 大分県での施行で
 臼杵町ほか1町77村4浦1島の区域に
 北海部郡が
 佐伯村ほか46村36浦1島の区域に
 南海部郡が
 行政区画として発足
 同日
 ↓↑
 海部郡は廃止・・・?
 ↓↑
 海部郡のうち - 22か村(39村)
 ↓↑
 括弧内は『旧高旧領取調帳』の数字
 ↓↑
 明治維新後
 根室国
 標津郡
 目梨郡
 を管轄したが
 後に仙台藩に移管
 ↓↑
ーーーーー
 血圧と血糖値・・・結-鴉(蛙)通⇔「阿都・阿津」
              ・・・「阿毎王朝」
  甘いモノ・・・?
  血糖値=ケットウチ
     =「決闘・結党・血統」地・・・?
      阿毎王朝=隈本・隈元・熊本
           細川藩?
 ↓↑
 糖(トウ)=米+唐=米+广+肀(𦘒)+口
           米+广+彐+I+口
             尹・・・㚑=灵=霊
       トウ(タウ)・あめ
       杵と臼で
       米を水でつき固めてできる
      「あめ」を意味
       唐=广+肀+口
         から・もろこし
         中国王朝名・「唐音・唐書・唐人・毛唐」
         にわかに・出しぬけに
         「唐突」
         荒唐無稽・ほら
 糖=あめ=飴=米や芋などの
      で澱粉(デンプン)・・・伝聞・電文
      含有材料が水で分解され
       糖類となった
      粘り気のある甘い食品

       㚑=彐+大=霊=レイ=灵
        =リョウ・たま・たましい・よい
         死者のたましい
         神秘な力・不思議な力
         みこ・かんなぎ・よい
         かしこい・すぐれている
 ↓↑
 多価アルコールの最初の酸化生成物
 アルデヒド基 (-CHO)
 または
 ケトン基 (>C=O) をひとつ持つ
 アルデヒド基を持つ糖をアルドース(Aldose)
 ケトン基を持つ糖をケトース(Ketose)と分類
 糖類(sugars)
 ↓↑
 単糖2分子が
 グリコシド結合により
 1分子となったものを二糖といい
 単糖3分子が結合したものを三糖
 同様に4分子のものを四糖という
 単糖2分子
 20分子程度が結合したものを
 オリゴ糖という
 多数の単糖が
 グリコシド結合により
 重合したものを多糖
 ↓↑
 糖蜜
 糖蜜(トウミツ)
 糖分を含んだ液体
 シロップ(syrup)
 砂糖を原料から精製する時に現れる副産物
 モラセス(molasses )
 ↓↑
 廃糖蜜
 すべてを含めて「糖蜜」と総称される
 精糖や料理で一次的に用いるものを糖蜜
 食品工業で二次的に用いるものを廃糖蜜
 ↓↑
 精糖
 サトウキビなどの原料糖から
 不純物を取り除いた液体(糖液)
 液体を結晶させて
 氷砂糖や上白糖などを作る時に用いる
 なお主に
 氷砂糖を作るときに用いられる
 糖度の高いものは
 「氷糖みつ」と記されている
 ↓↑
 廃糖蜜
 砂糖を精製する時に発生する
 糖分以外の成分も含んだ粘状で
 黒褐色の液体であり
 英語では
 モラセス・・・漏らせ素?・・・甘い=阿毎?
 または
 モラッセス(Molasses [məˈlæsɨz])
 廃糖蜜
 精糖の副産物
 テンサイから出る廃糖蜜は・・・甜菜=テンサイ=転載・天災・天才
 全体量から見ても少なく
 糖分はほぼ取り尽くされ
 特有の臭いなどがある
 精糖を繰り返して限界まで
 糖分を精製した時
 精製糖廃糖蜜ともいい
 糖蜜から
 三温糖を製造した後のもの
 糖分を結晶させられなかった残りで
 精糖時の焦げて生じた
 灰分(カラメル)などで黒褐色
 大量の廃糖蜜は
 工業原料として地元で消費されたり
 輸出されることが多い
 ↓↑
 あめ・さとう(砂糖)・糖衣・精糖
 水にとけ
 甘味のある炭水化物
 糖分・乳糖
 果糖(カトウ)
 血糖(ケットウ)
 黒糖(コクトウ)
 蔗糖(ショトウ)
 精糖(セイトウ)
 製糖(セイトウ)
 ↓↑
 砂糖黍・・・沖縄・琉球・・・那覇・・・?
       おきなわ・リュウキュウ・ナハ
       チュウジョウ
ーーーーー 
 墜=隊+土
  =阝+㒸+土
  =阝+丷+豕 +十+一
   おちる・おとす・ツイ
   落下する・上から下に落ちる
   うしなう・なくす・おとろえる
   墜落・撃墜・失墜
   顚墜(テンツイ)
   墜死(ツイシ)
   堕地獄
   だめになる
   通仮字は「隧」
   異体字、坠・𨼾・䃍・礈・𨺵・隊・𨽎・𡑖
   簡体字、坠.
   声符、隊・䥙・𩐌
 顚落
 顚=顛=頭のてっぺん・山や物の上のはし
   物の先端・また、はじめ。「顚末」
   たおれる・たおす・さかさまになる
   頭のてっぺんを地につける
   顚蹶(テンケツ)
   つまずき倒れること
   失敗すること
   顚墜・ころげ落ちること
   顚落
   顚倒
 顚=顛
  =いただき・たおれる・くつがえる
   テン
   頭のてっぺん
   山や物の上のはし
   物の先端・はじめ
   顚末
   ↓↑ 
   顚(たお)れる
   さかさまになる・ひっくり返る
   転ぶ。
 顚越不恭(テンエツフキョウ)
 道を外れて、君主の命令を軽んずること
 「顚越」は転がり落ちる
     転じて道から外れていること
 「不恭」はうやうやしくないさま
 顚蹶(テンケツ)
 つまずき倒れる・失敗する
 顚墜(テンツイ)
 ころげ落ちること・顚落
 顚倒(テントウ)
 ひっくりかえる(かえす)こと
 さかさまになる(する)こと
 「本末顚倒」
 びっくりしてうろたえること
 「気が顚倒」
 「転倒」と書き換えられる
 顚動(テンドウ)
 驚いて平静さをなくすこと
 度を失うこと
 動顚
 顚沛(テンパイ)
 つまずき倒れること
 わずかな時間・とっさの場合・つかの間
 「造次顚沛」
 顚沛流浪(テンパイルロウ)
 つまずき倒れながらさまよい歩くこと
 「顚沛」はつまずいて倒れること
 「顚沛流離」
 「流離」は故郷を遠く離れて
     他の土地をさまよい歩くこと
 顚覆(テンプク)
 車両・船舶などがひっくり返ること
         ひっくり返すこと
 政府などの大きな組織体が
 倒れ滅びること・倒し滅ぼすこと
 顚撲不破(テンボクフハ)
 動かし破ることが出来ないこと
 学説などにいう
 天下の断案
 覆しても打っても破れないほど強い意
 顚末(テンマツ)
 物事の始めから終わりまでの事情
 一部始終・いきさつ・始末
 「首尾・経緯」
 冠履顚倒(カンリテントウ)
 上下の順序が逆になっていること
 「冠履」は「かんむり」と「くつ」
 「冠履倒易」「冠履倒置」
 怪顚(ケデン)
 非常にびっくりすること・驚くこと
 山顚(サンテン)
 山のいただき・山頂・「山巓」とも
 造次顚沛(ゾウジテンパイ)
 つまずき倒れるわずかの間
 非常に短い時間・とっさの場合・瞬間
 「造次」は急にあわただしくなるさま
 「顚沛」はつまずきひっくり返って
     うろたえるさま
      とっさの場合や危険なときのこと
 動顚(ドウテン)
 ひどく驚いて平静さを失うこと
 度を失うこと
 「動転」と書き換えられる
 廃忘怪顚(ハイモウケデン)
 うろたえること
 狼狽、当惑してあわてふためくこと
 ↓↑
 「眞(真)=まこと・ま・シン」
 「眞=「化=死者」+「県」
   (縣=首を逆さにした形)
   =顚死者(行き倒れの死体)
 「眞」は「化=死者」と
    「県(縣=首を逆さにした形)」から成り     顚死者(行き倒れの死体)
ーーーーー
 ・・・???・・・

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