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コジキジゲン

笠=竹の立つ・石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和

2018-07-27 22:47:22 | 古事記字源

 ・・・TVの「ひるおび」で「サギ被害」を見た・・・???・・・「人間」って都合がイイ・・・
 2018/7/26/21:00~2018/7/27/1:16~
 月の左側に4点の光源、光っている物体はナニ?!・・・

 7月28日の明け方
 西の空に沈む満月の皆既月食
 15年ぶりに大接近中の火星・・・アレって・・・「火星」・・・UFO・・・?
ーーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市(栃木県北東部に位置
      旧那須郡・松尾芭蕉「奥の細道」と縁が深い
      琵琶池石器遺跡
      長者ヶ平縄文遺跡
      那須国造碑=永昌元年己丑四月
     「永昌」は唐の年号・・・?
      日本元号は
      日本の元号は
      686年に天武天皇の崩御により
      701年の
      大宝まで停止されていた・・・?
      大宝以前
      大化(645年 - 650年)
      白雉(650年 - 654年)
      1年だけ
      朱鳥(686年)
      などの年号が存在
      686年→687年→688年→689年→690年
      →691年~701年・・・十一年間
      元号制度は断絶状態
     「大宝(大寶)元年=701年」
      の改元により元号使用は再開
      大寶元年=701年~大寶四年=704年
      ~慶雲(ケイウン・キョウウン)
      和銅元年前の704年~708年
      天皇は文武天皇、元明天皇
     「慶雲」=夕空に現れ瑞兆の雲、蚊柱
      大宝二年(702年)
      持統天皇崩御、葬儀後の
      大宝四年(704年)
      藤原京において瑞兆
      改元
      ↓↑
      永昌元年(唐年号?・689年?)
      持統天皇三年
      永昌元年=天授元年(689)十一月を
      載初元年正月
      十二月・正月を
      それぞれ臘月・一月とした
      12月=臘月(ロウゲツ)の由来
      臘=肉巤=ロウ=腊=肉昔・月昔
      巤=鼡=ねずみ=鼠=巤
      獵蠟
      邋=「邋邋」は、旗が揺れるさま
      ひるがえるさま
      折る・くじく・進んで行く
      臘月=冬至の後
      第三の戌(いぬ)の日に行う祭り
      猟の獲物を先祖百神に供える祭り
      臘祭の意
      大晦日
      僧の修行の年数
     「戒臘・夏臘 (げろう) ・法臘」
      年功による地位や身分
      魚、豚肉、鳥肉等の干物や薫製
      ・・・蜜蝋・・・
     「蝋」は「蠟」の略字
      文武四 (700) 年に建立された
      石碑 (那須国造碑 )
     「延宝四年(1676年)」に
      水戸領内で
      僧  円順・・・・・つぶらの川の頁
      庄屋 大金重貞・・・大の金の重さを貞める
      らによって発見
      1683年(天和三)
      徳川光圀に知られ
      これを御神体として
     「元禄四年 (1691年)」
      笠石神社を
      徳川光圀が創建
      ↓↑
      那須直葦提 (なすのあたいいで)
      の事績を息子の
      意志麻呂
  ・・・「イシ(おし)まろ」?
         意冨(おほ)
         意斯麻呂
         (おしまろ)
         らが顕彰
         それを御神石とし
         笠石神社の神体とした
         笠=竹の立つ
         石=いし・いわ=医師・遺志・磐・違和
         頤使=人をあごで使う
ーーーーー
 那須国造碑・・・那須国造碑 拓本
 原文は

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91


 ()内は欠字の当字・・・?
 永昌元年(己)丑四月
 飛鳥浄御(原宮那須国)造
 追大壹
 (那)(須)(直)  韋提
  (な  すの あたい いで)
 評(督)被賜
 (歳)次(庚)子年
 (正)月
 二壬子日
 辰(節殄)
 故
 意斯麻(呂等)
 立(碑)銘偲云尓
 仰惟(殞)公廣
 (氏尊胤国)
 家棟(梁)
 一世之中重
 被(貳)(照)
 一命之期連見再甦
 (砕)骨挑髄
 (豈)報前恩是以
 曾子之家
 无有(嬌)子
 仲(尼)之門
 无有罵者行孝之子
 不改其語銘
 夏尭心澄神(照乾)
 六月
 童子
 意香助(坤)
 作(徒)之大合言(喩)
 字故無翼長飛无根更固
ーー↓↑ーー
  八行十九字詰め、全文一五二文字
ーー↓↑ーー
 永昌元年己丑四月
 飛鳥浄御原大宮に
 那須国造で
 追大壹の・・・追(おい・ツイ)の大(おほ)の壹(ひとつ・イチ)
       「追大壹=685年に施行された官位制にあるもの」
       「辺境地方の長官の官位」
 那須直韋提は
 評督を賜はれり。
 歳は
 庚子に次る年の
 正月
 二壬子の日
 辰節に殄れり
 故に
 意斯麻呂ら、
 碑銘を立て、
 偲びて尓か云ふ。
 仰ぎ惟るに
 殞公は、
 廣氏の尊胤にして
 国家の棟梁なり。
 一世之中に重ねて貳照せられ
 一命之期に連ねて再甦せらる。
 砕骨挑髄するも、
 豈に前恩に報いん。
 是を以て
 曾子の家に
 嬌子有ること无く、
 仲尼の門に
 罵者有ること无し。
 行孝の子は
 其の語を改めず
 銘夏尭心、澄神照乾。
 六月童子、意香助坤。
 作徒之大、合言喩字。
 故に、
 翼無くして長飛し
 根无くして更に固まんと。
ーーーーー
 鷺(さぎ)・・・詐欺・詐偽
 大田原市
 の
 八年ぐらい前から
 棲み着き、定住したサギ、およそ300羽・・・

 『手にすくう水もなし』の飢饉災害の荒地
 ↓↑
 医者・医師
 本草・・・・本草書、薬物についての学問
       薬物についての知識をまとめた書
       薬物についての研究は本草書を中心にして行われ
       その成果はこれらの書のなかに蓄積された
       (神農本草書)
       「神農本草経」、「本草綱目」
 医=匚(匸)+矢(𠂉一人)
 醫者
 醫=医+殳(几又)+酉
   函+矢+机+右手+樽
    鏃=矢尻=メス(mes)=執刀小刀(短刀)
    匚+矢=醫の略字
     ↓↑
    「医=悪霊を祓う矢を置く匸(隠された場所)を表す」
       はこがまえ(匚)+矢
 医=いやす・くすし(薬師)・イ
   醫
   軍医(グンイ)・侍医(ジイ)・獣医( ジュウイ)
   主治医(シュジイ)・女医(ジョイ)・典医(テンイ)
   巫医(フイ)・名医(メイイ)
    ↓↑
   メス(mes)=外科手術や解剖に用いられる鋭利な刃物
          オランダ語の mes(ナイフの意)
          スカルペル (scalpel)
          ランセット (lancet)
ーーーーー
 翹岐(ギョウキ)・・・翹=堯+羽
 ↓↑ 尭=堯(たかい・ギョウ)
    尭=十+艹+兀
    堯=土+土+土+兀
    翹=あげる・つまだてる・のびあがる
    すぐれる・抜きん出る
    翹企・翹首・翹翹・翹材
    連翹・翹首・翹楚・翹望・翹揺
 ↓↑ 岐=山+支
    ちまた・わかれる
    本道から枝分かれの道
    幾筋にも分かれ道
    岐路・多岐・分岐
    みち
    隠岐・岐阜
    岐の神(クナド・くなど、くなと -のかみ)
    古より牛馬守護の神、豊穣の神
    禊、魔除け、厄除け、道中安全の神
    疫病・災害などの悪神・悪霊が
 ↓↑ 聚落に入るのを防ぐ神
 百済(くだら・朝鮮)の王族
 義慈王の甥(おい)、
 または子
 ↓↑
 642年
 義慈王は
 異母弟の
 翹岐と
 その母妹女子4人を含んだ
 高名人士40人を島に放逐
 ↓↑
 皇極天皇元年(642)
 義慈王の母の死にともない
 島流し
 ↓↑

 同年来日し
 大使として参内
 蘇我蝦夷
   ・・・「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」
   蝦夷の父   
   蘇我馬子の別名は「島大臣」
   家が飛鳥川のほとりにあり
   庭中の小池に小島があった
   ことから
  「島大臣 (しまのおおおみ)」 ともいわれた
   牡丹の『島大臣』?
   蘇我蝦夷は
  『上宮聖徳法王帝説』では
  「蘇我豊浦毛人」
   蘇我入鹿は「鞍作太郎」
 の邸宅にまねかれた
 百済大井
 (大阪府河内
 長野市?)に移住
  ・・・長野市⇔長野県・善光寺?
  百済王善光?
  名は禅広王・余禅広
  百済の第31代国王・義慈王の子
  天武天皇四年(675年)
  元旦の儀で
  新羅の
  仕丁らと並んで
  薬・珍物を献上
 ↓↑
 大和王朝は
 翹岐(ギョウキ)
 と
 百済の
 大佐平
 智積(チシャク)
 ↓↑・・・智積院=京都市東山区
   真言宗智山派総本山の寺院
   山号を五百佛山(いおぶさん)
   寺号を根来寺(ねごろじ)
   本尊は金剛界大日如来
   開基は
  「玄宥(げんゆう)」
   享禄二年(1529年)
   ~
   慶長十年十月四日(1605年11月14日)
   真言宗の僧
   下野国吹上城主
   膝付又太郎の子
   十八歳
   根来山で修学、南都・園城寺・比叡山で
 ↓↑諸宗の教学を学んだ・・・
 ら百済族に乗っ取られた・・・?
 ↓↑
 舒明と百済武王の崩御年が同じ・・・舒明=百済武王?
 ↓↑
 武 王=舒 明
 武王妃=宝皇女(皇極、斉明)
 義慈王=軽皇子(孝徳)
 翹 岐=中大兄
 智 積=中臣鎌足
 ↓↑ 
 641年、舒明崩御。武王の死没
 642年、皇后(皇極天皇)の
     天 豊 財  重日  足  姫即位
    (あめとよたからいかしひたらしひめ)
     蘇我蝦夷大臣
     蘇我入鹿が国政
     ↓↑
     百済の使者が来倭
    「大佐平
     智積
     と
     国王(百済武王)の母が亡くなり
     弟王子に当たる子の
     翹岐
     や
     同母妹の女子4人など
     40人あまりが島流しになった」
     と伝えた
     ↓↑
     高句麗の使者がやってきて
    「去年(641)の6月、弟王子が亡くなり
     秋9月
     大臣
     伊梨柯須弥(いりかすみ)が
           入里化諏実
        ・・・伊の梨の柯の須の弥
           イ尹禾刀十八 木可彡頁弓爾
           医員退当拾葉知帰化跡頁旧備
     大王(武王)を殺し
     弟王子の子(義慈王⇔擬似王)を王とした」
     と伝えた。
     ↓↑
     蘇我蝦夷は
     高句麗と
     百済の客(翹岐を含む)を
     難波で饗応
     翹岐は従者をつれて
     帝に拝謁したり
     蘇我蝦夷の自宅に招かれ
     騎射を見物し、
     馬や鉄などをもらう
     ↓↑
     天皇が
     百済の使者
     大佐平
     智積
     を饗応
     智積は
     翹岐とともに
     相撲を見物
     宴会のあと
     翹岐の家に行き
     門前で拝礼
 643年、筑紫の太宰府から早馬で
    「百済国王の子
     翹岐弟王子が
     調使と共に到着」
     という知らせ
     ↓↑
     中大兄の父親が
    「田村皇子=舒明天皇」とされているのは・・・?
     ↓↑
     斉明天皇・・・「差異名」天皇?・・・皇極
      と
     舒明天皇・・・「鋤名・汝名・助命」天皇?・・・除名
     の
     子供=天智・間人・天武の父親
     ↓↑
     「田村=デンソン=伝噂」?・・・鶏鳴狗(犬句)盗
         ・・・田文=靖郭君田嬰者、宣王之庶弟也
               封於薛。有子曰文。
              =号為、孟嘗君
     中大兄が
    「耽羅(タムラ、済州島)」からやって来た・・・?
        虎視眈々・耽溺
     ↓↑
 583年、百済より招いた
    「達率日羅」
     達率(率いて達する)日羅(日本)=???
     ↓↑
 義慈王=上宮法王
        厩戸皇子(聖徳太子)=用明天皇の皇子
        聖徳太子伝記の写本の一
       「上宮聖徳法王帝説」=記紀以前の古い史料
     の後継者争いで
     山背大兄王・・・皇極天皇二年十一月十一日死没
     ↓↑     (643年12月30日)
           厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児
           厩戸皇子(聖徳太子)の子
           母は蘇我馬子の娘
           刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
           大臣・蘇我入鹿と従兄弟
          (上宮聖徳法王帝説)
           山背大兄王死後死後
           6日後 辛卯辰時
           大狛法師=大化元年(645年)8月8日
      ↓↑   ↓↑   孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により
                十師に選ばれたうちの1人
                (とたりののりのし
           ↓↑    仏教界の最高指導層)
           が
           斑鳩寺にいた
           山背大兄王の息子
          「弓削王」を殺した
      ↓↑   ↓↑
           道鏡
           文武天皇四年(700年)
           ~
           宝亀三年四月七日(772年5月13日)
           俗姓は弓削氏(弓削連)
           弓削櫛麻呂の子
           義淵の弟子
           本貫は河内国志紀郡弓削(大阪府八尾市)
     ↓↑    女帝・称徳天皇の法王
     に敗れ
     百済に渡った
     もと
     高句麗王子=軽皇子・・・???・・・
 ↓↑
 応神天皇時代
 七姓の
 漢人が帰化
 高向村主(すぐり)
 高向史(ふびと)
 が挙げられている
 (新撰姓氏録)
 応神は
 高向村主
 を
 阿智王
 と名のらせ
 高市郡檜隈・・・・・・・檜隈寺=奈良県高市郡明日香村
 (たけちぐんひのくま) にあった渡来系氏族、東漢氏の氏寺
 に居住地を与えた    中世には道興寺とも称した
 ↓↑          檜隈寺跡=於美阿志(おみあし)神社
             十三重石塔
             阿智使主神=応神天皇時代の漢人系渡来人
             東漢氏の祖・阿智使主、阿知王、阿知吉師
             機織を伝えた
        「朱鳥元年(686年)八月条
         檜隈寺、軽寺、大窪寺・・・軽寺?
 ↓↑      に各百戸を封ず。三十年を限る(日本書紀)」
 「阿智王」は後漢帝の子孫(大蔵系図)
 後漢
 献帝〜石秋王〜○〜阿智王〜阿多部王・・・
 阿多部王=高貴王と号
      来日し
      茅渟王の娘と結婚
      坂上、大蔵、蔵内
      の三子をなした・・・
 「高貴王」・・・阿多部王=高貴王=高尊王は、霊帝の子孫
         代々、医博士、鍼博士、典薬頭
         など医家を数多く輩出
 は大臣に任じられ
  妻は
 「斉明天皇」だった・・・?
 ↓↑
 「斉明天皇」の最初の夫は
 「高向王⇔高貴王」・・・?
 孝徳朝の国博士=「高向玄理」・・・
 「高向玄理」=「高向史玄理」
 「高貴王=高向王=高向玄理」・・・???
 ↓↑
 玄理=後漢「献帝」の子孫・・・「献=南の犬」
                「玄理=くろいコトわり」
    天武天皇の母親も中国人・・・?
    天武天皇=「漢皇子」・・・?
 ↓↑
 西-突厥-可汗・達頭
   ・・・トルコ系の遊牧民
      552年に突厥帝国を建設?・・・552年(仏教伝来)
      583年に?・・・・・・・・・・538年(仏教伝来)
           ・・・・・・・・・・583年
       日羅(にちら)?~583年12月
       6世紀朝鮮半島の百済王に仕えた日本人(?)
       父は
       火(肥後国)葦北(葦北郡と八代市)国造
       刑部-靭部-阿利斯登(ゆげいべのありしと)
       阿利斯登(ありしと)は
       宣化天皇の代に
       朝鮮半島に渡海した
       大伴金村に仕えた九州出身の武人
       日羅は
       百済王の
       威徳王から
       二位達率(ダッソツ)の官位を与えられ
       倭系百済官僚となった
       敏達天皇の要請により
       583年日本に帰国
       阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた
       朝鮮半島に対する政策を奏上
       人民を安んじ富ましめ国力を充実し
       船を連ねて威を示す
       百済が九州に領土拡大を謀っているので
       防御を固め欺かれぬようにすべきこと
       等の
       百済に不利な内容で
       同年12月
       百済人によって難波で暗殺された
       物部贄子
       と
       大伴糠手子により
       小郡の西畔丘に埋葬
       後に
       葦北に移葬された・・・
 ↓↑   ↓↑
      隋の分断策で東西に分裂
      東突厥は唐の支配下
 ↓↑   ↓↑
      682年自立し第二帝国を築く・・・682年(天武天皇十一年)
      東突厥は
 ↓↑   744年東トルキスタン(イリ地方)を根拠地とする
      ウイグルに滅ぼされた・・・744年(天平十六年)
 ↓↑   ウイグル=回鶻=廻紇=畏兀児=維吾爾
 西-突厥-可汗・達頭は
 隋と敵対する
 高句麗と連合・・・
 妻と娘を
 高句麗の
 嬰陽王に差し出した・・・
 その
 「娘」=宝皇女(斉明天皇)?・・・差異名天皇?
 「妻」は
 嬰陽王との間に男の子を儲けた
 これが
 「軽皇子(孝徳)」・・・???
 ↓↑
 百済「武王」は
 前百済王の
 「法王(達頭、上宮法王)」
     ・・・上宮法王≠厩戸皇子(聖徳太子)?
 から譲位された人物
 ↓↑
 玄理は
 632年に
 倭国で
 高表仁
 の接待
 630年
 漢皇子は九歳
 641年
 淵蓋蘇文=20歳時の「漢皇子」・・・?
 淵(エン・ふち)
 蓋(ガイ・かさ)
 蘇(ソ・よみがえる)
 文(ブン・あや・ふみ)
 は
 栄留王を殺し
 宝蔵王を立てた
 ↓↑ ・・・宝蔵王は高句麗最後の王
    高句麗の第28代・最後の王(在位:642年~668年)
    姓は高、諱は臧、または寶臧
    先代の栄留王の弟の
    大陽王の子
    642年に
    栄留王を弑逆した
    淵蓋蘇文によって
    王位に即けられた
 ↓↑
 淵蓋蘇文
 中国の史書で
 唐の高祖
 「李淵」と同じ
 「淵」の字を用いるのをはばかり
 「泉蓋蘇文(せんがいそぶん)」
  or
 「蓋金(こうきん)」
 と記録
 ↓↑
 「淵蓋蘇文」は
 高句麗では
 「イリ・ガ・ス・ム」と発音・・・イリ=淵=ふち
 「伊梨・柯・須・弥
 (イリ・カ・ス・ミ)」
 と記録・・・
 ↓↑
 淵蓋蘇文は、「淵」が姓で「蓋蘇文」が名
 ↓↑     淵(ふち・エン)=河川の流水が緩やかで
        深みのある場所
        川の深み、淀み
        対語は瀬(せ)・渕は俗字
        水を深くたたえている所・海淵・深淵
        物事の出てくる根源・淵源
 ↓↑     物の多く集まる所・淵藪(エンソウ)
 孝徳天皇(軽皇子)は
 大化元年
 中大兄を皇太子
 阿倍内麻呂を左大臣
 蘇我倉山田麻呂を右大臣
 中臣鎌足を内臣
 僧旻
 と
 高向玄理
 を国博士
 舒明の娘
 間人皇女を皇后
 ↓↑
 義慈王=孝徳の・・・?
 蘇我氏への復讐・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=軽皇子は
 上宮法王(聖徳太子)
 によって
 次期倭王候補とされながら
 蘇我馬子が上宮法王(聖徳太子)を暗殺・・・???
 蘇我馬子の子・・・馬子=島大臣
 山背大兄王・・・?
 に王位を横取りされた・・・
 ↓↑
 645年12月
 孝徳天皇の都
 難波
 長柄・・・「柄長」の上下(左右)の配置が逆字
 豊碕    ↓↑

       ↓↑ 
   エナガ(柄長、学名:Aegithalos caudatus)
   スズメ目エナガ科エナガ属の鳥類の一種
   エナガ科は世界で七種類が知られる・・・
   カラ類=四十雀(シジュウカラ)を
       始めとする山野の小鳥類の総称
   長い尾をもつカラ類で
   和名は
   極端に長い尾(全長14 cmに対して尾の長さが7-8 cm)を
   柄の長い柄杓に例えた
   江戸時代
  「柄長柄杓(えながひしゃく)」
  「柄柄杓(えびしゃく)」
  「尾長柄杓(おながひしゃく)」
  「柄長鳥(えながどり)」
   などとも
  「コウライ-シマ-エナガ(高麗-島-柄長)」
   高 麗 -島 -柄長
   ・・・???・・・ナゼ?・・・高麗-島-柄長
 ↓↑
 660年
 唐の
 蘇定方が・・・蘇の定の方・・・蘇我を定める方法?
 百済を滅ぼしたとき立てた
 『唐平百済碑(660年)』に
 「其の
  王義慈、及び、太子隆、
  外王と自称する
  孝などを捕獲した」・・・「孝」?・・・孝徳天皇?
 と記録
 「其の王義慈」=「百済・義慈王」・・・「擬似・疑似・擬餌」王?
 「太子隆」=「武王の子」・・・伝承
 「翹岐(中大兄)」の異母兄・・・?
 「武王の子」でありながら
 「義慈王」に従っていたのは
 「武王」の後継者は
 「宝皇女の子・翹岐」・・・?
 「外王と自称する孝」は
 「軽皇子が百済において儲けた子供」・・・
 「631年
  日本に送った
  豊璋の弟」
 中国の史料『冊府元亀(さっぷげんき)』には
 「孝」は「小王孝」とある・・・
 ↓↑
 「隆」
 「孝」
 唐に捕獲されたとき
 「孝」が自称した
 「外王」とは
 「倭王」・・・
 650年
 百済に帰国した
 義慈王と入れ替わりに
 「孝」が来倭し
 白雉年間の
 孝徳天皇として即位した・・・?
 『新唐書』には
 「650年に孝徳天皇が即位して
  白雉に改元した」・・・白雉=しろきじ・ハクチ=白記事・白地
 とある
 ↓↑
 大化年間の孝徳=義慈王・・・?
 白雉年間の孝徳=小王孝・・・?
 ↓↑
 孝徳天皇=義慈王・・・?
 息子の
 宝蔵王=高句麗王は
 自ら百済と倭王を兼任・・・?
 ↓↑
 難波長柄
 に孤立させられた
 孝徳天皇は
 息子の
 「孝」だった・・・??
 ↓↑
 義慈王が百済に帰国し
 唐の太宗が亡くなり
 百済への侵攻が一時停止
 「孝」は
 その直後に
 倭国に送り込まれ
 巨勢徳陀が彼を補佐・・・
 巨勢徳陀は
 651年
 新羅からの使者が
 唐風の衣装を着てきたことに
 激怒、追い返してしまい
 (唐・新羅)VS(高句麗・百済・日本)
 ↓↑
 孝徳天皇の歌
 ↓↑
 鉗着け・・・
 我が飼う駒は・・・駒=馬+句
 引き出せず
 我が飼う駒を
 人見つらむか・・・誰かがみているカモ
          ているだろう・たであろう
 ↓↑
 鉗(かなき)=金+甘(あまい⇔阿毎)
     ・・・金柑=キンカン・ミカン科キンカン属
           の常緑低木の総称
           別名キンキツ(金橘)
          ・・・金の橘(たちばな)
 鉗(かなき)=馬が逃げないように首にはめておく木
 「馬」=「間人皇后」
 「人見つらむか」の「人」=「中大兄」?
 「孝徳天皇」は息子の「孝」・・・
 ↓↑
 孝、泰、隆、演、豊璋、勇(百済王善光)
 の6人の王子
 ほか、庶子41人
 孝=孝徳天皇
 ↓↑
 654年
 孝徳崩御
 「孝」の百済への撤退・・・
 唐の高宗が極東への政治介入を再開
 孝徳の「臨終」の際に
 中大兄、斉明上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿
 らが見舞った
 藤原鎌足が
 紫冠と封戸を授けられた
 鎌足は
 義慈王の家臣であると同時に
 大海人
 ら倭国側との仲介役となって
 「孝」の撤退決議への
 大海人からの恩賞・・・
 ↓↑
 654年
 新羅
 武烈王(金春秋)が即位
 ↓↑
 豊璋
 は
 662年
 鬼室福信に百済王として帰国を要請
 倭国で養蜂に失敗
 ↓↑
 豊璋
 義慈王=軽皇子だった頃に
 倭国で生まれ
 母の身分もあまり高くなく
 鬼室福信に百済に呼び戻され・・・
 百済、再(差異?)滅亡・・・?
ーーーーー
 ・・・以上は全部、「高句麗」の説がボクが調べてきた
 色々なモノ(文字)と重なって面白かったので
 「草原から来た天皇3」の
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/index.html
 「実は古代史ほど、
  論理と想像の力で、
  誰でも「新説」を唱えることができる
  ジャンルはない・・・「ジャンルではない」・・・?
  ということだけでも
  感じ取っていただければ
  サイワイである。(2009年8月)」
 の原文を参考、参照にして部分添付・・・
 ボクの妄想もチョッと「?」と添付・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「ジャンルはない(無い)」のか?
 「ジャンルはアル(有る)」のか?・・・

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