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ロンドンの夏の目の漱石・・・英和辞典は必要だった

2018-05-15 20:49:38 | 古事記字源

 ・・・「煙霧のロンドンの夏の目の漱石」・・・「霧の英和箋」・・・「霧の英和戦」・・・「霧の英和撰」・・・「霧の英和潜」・・・「霧の英和泉」・・・「霧の倫敦(ロンドン・London・龍動?)」・・・恒松郁生氏の『ロンドン漱石記念館』・・・「1900(明治三十三)年10月28日・夏目漱石の留学開始」・・・「ロンドン漱石記念館は 漱石の5番目の下宿先、ミス・リール家の前」にあるらしいが、ボクの興味は「夏目漱石」なんかじゃあなくて・・・「1999年7月7日、館長が競売で入手した」と新聞記事にあった「英和・和英辞書」・・・
 アメリカの「南北戦争=1861年~1865年」で、「英国歩兵第二十連隊バード中尉、1864年8月13日」は当時の日本に存在していた・・・
ーーーーー
   ロンドンの漱石記念館
   2016年9月28日閉館・・・・今年2018年の夏に再開館・・・?
   32年の歴史に幕
    ↓↑
   1999年7月7日
   「館長が競売で入手した」とある辞書
    ↓↑
    この辞書の内側のページには
   「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
    1864年8月13日」
    ↓↑     ↓↑
      ・・・1864年・甲子
      日本(天保暦)
      文久三年十一月二十二日~文久四年 二月十九日
      元治元年 二月二十 日~元治元年十二月 三日
      皇紀2524年  ↓↑    ↓↑  ↓↑
      清王朝    ↓↑    ↓↑  ↓↑
    ↓↑同治二年十一月二十二日~同治三年十二月 三日
      同時・同事・童児・道寺
    ↓↑    ↓↑
      1864年2月6日
      横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)出発
      横浜鎖港談判使節団
    ↓↑池田長発(筑後守)を正使
      河津祐邦(伊豆守)を副使
      河田 熙(相模守)を目付
      文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
      にかけて幕府がフランスに派遣した外交団
      第2回遣欧使節、池田使節団とも呼ばれる
    ↓↑
    と書き込みがあるらしい。右から
   「安政四年稟准」
   「井上修理校正」
   「英語箋」
   「一名 米語箋」
   「村上英俊閲」
    と印刷
    ↓↑
    禀准=稟准・・・ひんじゅん
       許可を申請する・極限準
  稟=うける・こめぐら・ふち
      もうす・ヒン・リン
      受ける・授かる・上から下に与える
      扶持・俸給・俸給としての穀物
      生まれつき・天からさずかった性質
      天稟(テンピン)
      申す・申し上げる
      こめぐら・食糧
      禀=㐭+示=亠+回+示=亠+囗+口+示
    ↓↑
    1864年4月22日
    米国で貨幣鋳造法成立
   (In God We Trustの刻印が義務化)
    ↓↑
    1864年11月8日
    米国大統領選挙で
    第16代アメリカ合衆国大統領
    エイブラハム・リンカーンが再選
    奴隷州11州と戦争中・・・
    ↓↑
    1864年11月21日(元治元年十月二十二日)
    鎌倉見物中の英国士官2名が浪士に斬殺される(鎌倉事件)
ーーーー↓↑ーーーー
 村上英俊閲
 『英語箋(竹戔・艹戔)』
 安政四(1857)年丁巳十月稟(禀)准
 英和・和英辞書は翻刻されたもの
 ↓↑
 原著はイギリス人宣教師で
 上海領事となる
 ウォルター・ヘンリー・メドハースト
 (1796~1857)
 1830年
 オランダ領バタビアで刊行
 An English and Japanese
   and
   Japanese and English Vocabulary
 ↓↑
 メドハーストは、
 日本語の知識を
 来日経験のある
 オランダ人からの情報をもとに
 この辞書の編纂事業を進めた・・・?
 彼自身は中国語やマレー語に通じ
 他にも聖書の中国語訳を行っている
 ↓↑
 日本で翻刻した
 村上英俊(1811~1890)は
 医学、漢学、蘭学
 に通じたフランス語学者
 「英語箋」辞書は
 2巻からなる
 和装本
 1600語を収録
 ↓↑
 a   b  c    d   e
 ヱー・ビー・スィー・ディー・イー
 f   g  h     i  j
 ヱフ・ジー・ヱィッチ・アイ・ゼイ
 k   l  m   n  o
 ケィ・ヱル・ヱム・ヱン・オー
 p   q  r   s  t
 ピー・キウ・アル・ヱス・ティー
 u   v   w       x    y
 ユー・フィー・ドゥブルュー・エッキス・ワイ
 z
 ズイー
 ↓↑
 箋=セン=籤
   slip (of paper)
   tag (usu. bamboo, wood, ivory, etc.)
   label
 ↓↑
 「英語箋」
 万延二 (1861)年刊
 英和・和英辞書
 ↓↑
 干支:辛酉
 日本(天保暦)
 万延元年十一月二十一日~万延二年 二月十八日
 文久元年 二月 十九日~文久元年十二月 一日
 皇紀2521年
 清王朝
 咸豊十年十一月二十一日~咸豊十一年十二月一日 朝鮮
 李氏朝鮮
 哲宗十二年
 ↓↑
 1861年
 1月14日(万延元年十二月四日)
 米国駐日総領事館の通弁官
 ヘンリー・ヒュースケン
 攘夷派薩摩藩士に殺害
 ↓↑
 1861年
 3月4日
 エイブラハム・リンカーン
 第16代米大統領に就任
 3月13日(万延2年2月3日)
 ロシア軍艦対馬占領事件
 ロシア軍艦
 ポサードニク号が
 対馬の
 尾崎湾に来航
 ↓↑
 1861年
 7月5日(文久元年5月28日)
 攘夷派水戸藩浪士ら
 英国駐日公使館(東禅寺)
 を襲撃(東禅寺事件)
 ↓↑
 1861年
 11月11日
 同治帝即位
 ↓↑
 上海領事イギリス人
 宣教師
 ウォルター・ヘンリー・メドハースト
 (1796-1857)が
 1830年にバタビアで刊行
 「An English and Japanese
    and
    Japanese and English Vocabulary」
 が
 「英語箋」の原著
 ↓↑
 1861年
 ドイツで
 始祖鳥の標本発表
ーーーーー
 攘夷事件
 以上も以下も参考、参照の原文は
 「wikipedia」・・・少々改作して添付・・・
 「・・・」の付け足しは「ボクの?」・・・
 ↓↑
 (1) 安政三年
   (1856年8月21日)
    1.1 ハリス襲撃未遂事件
 タウンゼント・ハリス襲撃未遂事件
 初代駐日領事
 安政三年七月二十一日
 (1856年8月21日)
 下田・・・・ゲデン=解傅(伝)
 玉泉寺・・・漁句撰字
 に
 領事館・・・両耳間⇔顔・面
       両字観⇔偏旁冠脚垂構繞
       (ヘンボウカンキャクスイコウニョウ)の七つ?
        変 貌 観 客  推 敲 二葉・・・?
 を構えた
 ハリス・・・葉理素?
 は
 大統領親書の提出のため
 江戸出府を望むが
 水戸藩の徳川斉昭ら
 攘夷論者が反対
 江戸出府は留保
 このハリスに対し
 水戸藩郷士
 らが
 ハリスの襲撃を計画
 安政三年十一月二十七日
 一同は自訴
 同四年四月四日投獄・・・444?・・・四四四・・・肆陌肆拾肆?
 ↓↑
 (2) 安政六年
   (1859年)
    2.1 ロシア海軍軍人殺害事件
    2.2 フランス領事館従僕殺害事件
 ロシア海軍軍人殺害事件
 東シベリア総督
 ニコライ・ムラビヨフは
 安政六年七月二十日
 (1859年8月18日)
 7隻の艦隊で江戸に来航
 日露国境策定の交渉を開始
 七月二十七日
 海軍少尉
 ロマン・モフェト
 水兵
 イワン・ソコロフ・・・言わん・云わん・謂わん?  
            其処賂附?
 および1人の
 まかない係が・・・・・真仮名意?
 横浜の波止場近くで
 数人の武装した
 日本人に襲われた
 モフェトとソコロフは死亡
 最初の外国人殺害事件
 ムラビヨフ・・・・・・務等備與附?
 は
 ラザフォード・オールコックの
 勧めにもかかわらず
 日本に賠償請求をしなかった
 6年後の
 慶應元年
 (1865年)
 水戸天狗党・・・見訳典具等砥
 の一人で
 敦賀に幽閉中であった
 小林幸八が
 実行犯であることを自供し
 五月に横浜で磔刑
 事件の幕府側責任者
 外国奉行の
 水野忠徳
 の態度が各国外交団から疎まれ
 文久遣欧使節の候補となりながら
 オールコックの同意が得られず
 使節に加わることができなかった
 ↓↑
 フランス領事館従僕殺害事件
 安政六年十月十一日
 (1859年11月5日)
 フランス副領事
 ジョゼ・ルーレイロ
 の従僕が横浜の外国人居留地で殺害
 従僕は清国人であったが
 服装から欧米人と間違えられた
 ↓↑
 (3) 安政七年
   (1860年)
    3.1 日本人通訳殺害事件
    3.2 フランス公使館放火事件
    3.3 オランダ船長殺害事件
 安政七年(1860年)
 日本人通訳殺害事件・・・???
 安政七年一月七日
 (1860年1月29日)
 イギリス公使
 オールコック付きの通訳
 小林伝吉(洋装し、有名だった)が
 江戸のイギリス公使館の門前で
 2人の侍に
 背後から刺されて殺害
 ↓↑
 フランス公使館放火事件
 伝吉殺害の
 翌一月八日
 フランス公使館が放火で焼失
 ↓↑
 オランダ船長殺害事件
 二月五日夜八時ごろ
 オランダ商船の船長
 ヴェッセル・デ=フォス
 と
 ナニング・デッケル・・・何務具・出通懸留?
 が横浜の街路上で斬殺
 イギリス・オランダ・フランス
 の三国が共同して
 被害者1名につき
 2万5千ドルの賠償金を日本に要求
 幕府は
 オランダに
 1,700両を支払
 ↓↑
 万延元年・・・?・・・蔓延?
 (1860年)
 フランス公使従僕傷害事件
 九月十七日の夕刻
 フランス公使
 ド・ベルクール
 の従僕で
 イタリア人の
 ナタール
 が、2人の武士に右腕を切られた
 ナタールはピストルで反撃し
 武士は逃げた
 ↓↑
 (4) 万延元年
   (1860年)
    4.1 フランス公使従僕傷害事件
    4.2 マイケル・モース事件
    4.3 ヒュースケン殺害事件
 マイケル・モース事件
 万延元年十月十五日
 (1860年11月27日)
 狩猟帰りの英国人
 マイケル・モースの従僕が
 役人らに捕らわれそうになった
 江戸城から十里以内での
 火器の使用は禁じられ
 外国人も例外ではなかった
 モースは従僕を助けようと
 役人らを銃でおどし
 もみ合っている間に
 銃が発射され役人の1人が負傷
 モースは捕縛され
 夜中になって釈放された
 領事裁判所において裁判にかけられ
 オールコックから
 1,000ドルの罰金と国外追放の判決
 モースは後に
 香港で
 オールコックに損害賠償の訴訟を起こし
 オールコックは敗訴
 モースに2,000ドルを支払った
 ↓↑
 負傷した役人は重傷
 家族が復讐をする噂が
 横浜の外国人居留地に広まった
 ↓↑
 ヒュースケン殺害事件
 ヘンリー・ヒュースケンは
 安政三年
 (1856年)から
 タウンゼント・ハリス
 の秘書兼通訳を務め
 ヒュースケンは有能な通訳で
 ハリスは他国の外交交渉にも
 ヒュースケンを貸し出していた
 万延元年十二月四日
(1861年1月14日)
 プロイセン王国使節宿舎であった
 芝赤羽接遇所(港区三田)から
 善福寺への帰途
 芝薪河岸の中の橋付近で
 攘夷派の薩摩藩士
 伊牟田尚平
 樋渡八兵衛
 らに襲われ
 翌日死亡
 幕府はヒュースケンの母
 ジョアンネ(ヨアンナ)に
 1万ドルの
 弔慰金を支払って事件を落着
 ヒュースケンは有名人であり
 事態を重く見た幕府は
 辻番所に
 外国人保護を訴える標識を立てたり
 外国御用出役の新設するなど
 外国人警護に努めたが
 その後も外国人に対する襲撃事件は続いた
 ↓↑
 (5) 文久元年
   (1861年)
    5.1 第一次東禅寺事件
 文久元年
 (1861年)
 第一次東禅寺事件
 文久元年五月
 イギリス公使
 オールコックは
 長崎から江戸へ陸路で旅
 尊攘派の志士らは
 「神州日本が穢された」と憤激し
 文久元年五月二十八日午後十時頃
 (1861年7月5日)
 水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は
 東禅寺のイギリス公使館内に侵入し
 オールコック公使らを襲撃
 外国奉行配下で
 公使館の警備に就いていた
 旗本や郡山藩士
 西尾藩士らが応戦し
 邸の内外で
 攘夷派浪士と戦闘し
 双方に死傷者を出した
 オールコックは危うく難を逃れたが
 書記官
 ローレンス・オリファント
 長崎駐在領事
 ジョージ・モリソン
 が負傷
 攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗
 3人が討取られ
 1人が現場で捕縛
 現場から逃走した浪士も
 3人は切腹
 1人が捕らえられた
 事件後
 オールコックは幕府に対し抗議し
 イギリス水兵の公使館駐屯の承認
 日本側警備兵の増強
 賠償金1万ドルの支払いという条件で
 事件は解決
 事件後
 英国艦隊の軍艦が横浜に常駐
 ↓↑
 (6) 文久二年
   (1862年)
    6.1 第二次東禅寺事件
    6.2 生麦事件
    6.3 英国公使館焼打ち事件
 文久二年
 (1862年)
 第二次東禅寺事件
 東禅寺警備の
 松本藩士
 伊藤軍兵衛は
 東禅寺警備により
 自藩が多くの出費を強いられ
 外国人のために
 日本人同士が殺し合うことを憂い
 公使を殺害し
 自藩の
 東禅寺・・・トウゼンジ=当然(當然・当然・当前・陶然)事?
 警備の任を解こうと考え
 文久二年五月二十九日夜中
 (1862年6月26日)
 代理公使
 ジョン・ニールの
 寝室に侵入しようとしたが
 警備のイギリス兵
 2人に発見され戦闘
 伊藤はこれを倒したが自分も負傷
 番小屋に逃れ
 翌三十日に自刃
 幕府は警備責任者を処罰
 イギリスとの間に
 賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず
 紛糾するうちに
 生麦事件が発生
 幕府は
 翌文久三年四月
 生麦事件の賠償金とともに
 1万ポンドを支払い
 事件は解決
 ↓↑
 生麦事件
 文久二年八月二十一日
 (1862年9月14日)
 横浜近くの
 生麦村付近で
 薩摩藩主の父
 島津久光
 の行列に乱入した
 騎馬のイギリス人4人に
 供回りの藩士が斬りつけ
 チャールス・リチャードソン
 が死亡
 ウッドソープ・クラーク
 ウィリアム・マーシャル
 の2名が重傷
 賠償交渉がもつれ
 薩英戦争が勃発・・・薩英戦争
 ↓↑
 第一次
 東禅寺事件以後
 英国は横浜に艦隊を常駐
 が、
 東インド艦隊司令官
 ジェームズ・ホープは
 攘夷派の強力な取り締まりを
 幕府に促すため
 海上封鎖
 および
 一部砲台に対する限定的な攻撃を提案
 提案は後に本国政府の承認を得
 用意された艦隊が
 薩英戦争に転用
 ↓↑
 英国公使館焼打ち事件
 品川・・・・ヒンセン・・・貧賤・比武戦(撰)?
 御殿山・・・ゴテンサン・・誤伝纂(簒)?
 の地に
 公使館を建設することを要求
 猛反対が起きたが
 幕府は列国の要求を呑んだ
 新英国公使館は
 文久二年八月から
 品川御殿山に建設が開始
 十二月にはほぼ完成
 長州藩士
 高杉晋作
 は
 イギリス公使館の焼打ちを計画
 文久二年十二月十二日深夜
 警戒を突破し
 築中のイギリス公使館に潜入
 井上聞多(井上馨)
 伊藤俊輔(伊藤博文)
 らが焼玉を使ってこれに放火
 ↓↑
 (7) 文久三年
   (1863年)
    7.1 井土ヶ谷事件
 文久三年
 (1863年)
 井土ヶ谷事件
 文久三年九月二日
 (1863年10月14日)
 フランス陸軍横浜警備隊員
 陸軍少尉
 アンリ・カミュ・・・アルベール・カミュ(Albert Camus)?
               1913年11月7日~1960年1月4日
1913癸丑(癸・辛・己)⇔己亥(戊・甲・壬)
           0011癸亥(戊・甲・壬)⇔丙子(壬・ ・癸)
          ?0011壬戌(辛・丁・戊)月生?
           0007壬辰(乙・癸・戊)⇔辛卯(甲・ ・乙)
              午未=空亡  大運己未(丁・乙・己)
           フランスの小説家、劇作家、哲学者
           フランス領アルジェリア出身
           第二次世界大戦中に小説『異邦人』
           戦後は「ペスト」
 が
 同僚のフランス陸軍士官とともに
 馬で
 武蔵国
 久良岐郡
 井戸谷村
 十二天社
 (神奈川県横浜市南区
  井戸谷下町井戸谷橋付近)
 を通行中に斬殺
 フランス公使
 ド・ベルクール
 が幕府に強く抗議
 外国奉行
 竹本甲斐守を・・・・・・竹の本、甲斐の守り?
 特使として謝罪のために
 フランスに派遣するよう迫った
 苦慮した幕府が
 横浜鎖港
 談判使節団という名目で
 フランスに使節を派遣
 幕府は
 カミュの遺族に
 35000ドル支払った
 ↓↑
 (8) 元治元年
   (1864年)
    8.1 鎌倉事件
 元治元年
 (1864年)
 鎌倉事件
 元治元年十月二十二日
 (1864年11月21日)
 イギリスの
 横浜駐屯歩兵
 第20連隊付き士官
 ジョージ・ボールドウィン少佐
 ロバート・ニコラス・バード中尉
       ・・・賂バード・似凝らす・葉蛙度・注意(中位)?
 ↓↑↓↑
  ロバート
   ・・・ニコラス=問題の「バード」の
   「英和辞典=箋」・・・箋=竹+戈+戈=竹+戔
    英和辞典?
   「1999年7月7日水曜日
   「中日新聞・夕刊・E版」の記事
   「【ロンドン7日共同】
    幕末の鎌倉で攘夷(じょうい)浪人に
    殺された英国軍人の
    署名がある英和事典がこのほど、
    ロンドンの古書市場で見つかった。
    日英交渉史を研究している
    恒松郁生
    『ロンドン漱石記念館』・・・ロンドンの漱石記念館
                  2016年9月28日閉館
                  32年の歴史に幕
    館長が競売で入手した」とある。
    この辞書の内側のページには
   「英国歩兵第二十連隊バード中尉、
    1864年8月13日」
    と書き込みがあるらしい。右から
   「安政四年稟准」
   「井上修理校正」
   「英語箋」
   「一名 米語箋」
   「村上英俊閲」
    と印刷されている。
    そして、英語で、
 ↓↑     ↓↑
  ・AN・
  ・EINGLISH AND JAPANESE・
  ・AND・
  ・JAPANESE AND EINGLISH・
  ・VOCABULARY・
  ・COMPILED
     PROMANTIVE WORKS・
  ・BY・
  ・W,H.MEDHCRST・
  ・ ・
  ・BATAVIA・
  ・PRINTED BY
           LITHOGRAPNY・
 ↓↑↓↑
   と印刷されている
   ちなみにこの
  「バード中尉」は
  「1864年(元治元年)」の
  「十一月二十一日」に
  「鶴岡八幡宮前」で
  「鎌倉事件」にあって死亡した人物であった・・・
 ↓↑↓↑
    下関戦争
    攘夷を唱える長州藩が
    関門海峡で外国船を砲撃
    報復でイギリス海軍が
    フランスなどと共に
    下関の砲台を占拠
    帰国した井上と伊藤は事態収拾に奔走
 ↓↑ーーーーー↓↑
 の2名が鎌倉で惨殺
 幕府は
 蒲池源八
 稲葉丑次郎
 を捕縛
 十一月十八日
 横浜戸部の刑場で斬首
 十一月二十五日
 犯人の1人
 元谷田部藩士
 清水清次が捕縛
 十一月二十八日
 横浜市中引き回しの後
 翌十一月二十九日
 戸部にて
 イギリス守備隊分権隊の見守るなか斬首
 吉田橋にて梟首
 慶応元年九月十一日
 清水清次の共犯者
 旗本
 内藤豊助家来
 間宮一が
 戸部で斬首
 吉田橋で梟首
 ↓↑
 (9) 慶応二年
   (1866年)
    9.1 鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
      「鳶=とんび」の「小亀」?
   9.2 ハリー・パークス恫喝事件
 慶応二年
 (1866年)
 鳶の小亀事件(フランス水兵殺害)
 慶応二年二月
 酒に酔った2人のフランス水兵が
 港崎町の遊廓に入って乱暴
 乱暴を見かねた力士の
 鹿毛山の長吉が取り押さえ
 駆けつけた
 鳶職の
 亀吉が鳶口で殴打
 1人を即死させた
 亀吉は下手人として処刑
 鹿毛山は追放
 ↓↑
 ハリー・パークス恫喝事件
 慶応二年十一月二十五日
 (1866年12月31日)
 イギリス公使
 ハリー・パークス
 が江戸の郊外の品川を騎馬で通行中
 人吉藩士
 岩奥八右衛門
 が道の真ん中に立ちはだかり
 刀を少し抜いていて恫喝
 パークスと英国人護衛の特務曹長が
 これを拘束し英国公使館に連行して捕虜
 ↓↑
 (10)慶応三年
   (1867年)
    10.1 アーネスト・サトウ襲撃事件
    10.2 英国水兵殺害事件
       (イカルス号事件)
    10.3 ヘンリー・スネル襲撃事件
    10.4 英国水兵襲撃事件
 慶応三年
 (1867年)
 アーネスト・サトウ襲撃事件
 慶応三年三月二十五日
 (1867年4月29日)
 英国公使一行は
 大坂で新将軍
 徳川慶喜との会見に臨んだが
 通訳の
 アーネスト・サトウ
 と画家の
 チャールズ・ワーグマン
 は、その後陸路大坂から江戸に向かった
 四月二十四日
 サトウらは近くに
 例幣使(レイヘイシ)・・・例併史(詞)?
    ・・・例幣使=朝廷の伊勢神宮に捧げ物をもっていく使者
       江戸時代、朝廷は徳川家康の法要のために
       日光東照宮にも同じように勅使を派遣した・・・
 一行が
 来ているとの噂を聞いた
 予定では
 例幣使は
 掛川宿を・・・掛=カ・カイ・ケ・ケイ・かける
        川=セン・かわ
        宿=シュク・スク・かねてからの
     「掛川宿=カイセンスク=改選素句」?
 通過し
 次の宿に泊まることになっていたので
 彼らと遭遇しないよう
 英国人
 一行は先を急ぎ
 例幣使と出会う前に掛川宿に到着
 夜半、12人ほどの凶漢に宿が襲撃され
 護衛の侍が撃退し
 サトウらは難を逃れた
 彼らを襲ったのが
 例幣使一行だとわかったのは
 落としていった提灯によってであった
 数ヶ月後
 凶漢とこの事件に関係した
 他の3人の者が江戸に檻送
 審問を受け
 2人が死刑(うち1人は獄死)
 4人が遠島
 ↓↑
 英国水兵殺害事件(イカルス号事件)
 七月六日夜
 長崎で
 イギリス軍艦
 イカルス号の水兵
 ジョン・ホッチング
 ロバート・フォード
 の2人が泥酔し
 丸山の路上に寝込んでいるところを
 筑前藩士
 金子才吉
 に殺害
 金子は八日に自刃
 筑前藩がこれを秘匿
 明治元年(1872年)十月二十七日
 犯人が金子だったことが判明し
 被害者遺族に
 見舞金・・・舞=𠂉卌一舛
 ↓↑    舞=𠂉+卌+一+舛(タヰ)
         𠂉+卌+一夕+㐄
         ブ・ム・まい・まう・もてあそぶ
         まう・まわす
         はげます・奮い立たせる
         思いのままにあつかう
         無=𠂉+卌+一+灬=𤍍=亠+廿+廿+灬
             卌=四十・肆十・よそ・よそじ・forty
 ↓↑          廿=二十・弐拾・念
 が支払われ
 金子と同道していた
 6名の者が禁錮刑に処せられた
 ↓↑
 ヘンリー・スネル襲撃事件
 七月十五日
 オランダ人で
 プロイセンの
 シャルジェ・ダフェール公使の書記官
 ヘンリー・スネル
 ↓↑   兄はジョン・ヘンリー・スネル
     (John Henry Schnell・日本名は平松武兵衛
      1843年?~1871年?)
      弟はエドワルド・スネル
     (Edward Schnell
      1844年?~没年不詳)
 ↓↑   プロイセン出身・・・
 が弟の
 エドワード
 と馬車で
 江戸に戻ってきたところ
 沼田藩士
 三橋昌
 が馬の前に飛び出し
 スネルは馬首を廻らせ
 男に触れずに通り過ぎようとしたが
 馬車が斜め前に来たところ
 三橋は刀を抜き
 スネルの隣に座っていた
 エドワードに一撃を浴びせようとした
 スネルは拳銃で反撃
 誤って
 下駄商
 幸次郎の雇人
 淺次郎
 を傷つけてしまった
 事件から2日後の17日
 沼田藩は、書面をもって、
 幕府に
 三橋昌を拘禁したことを報告
 ↓↑
 英国水兵襲撃事件
 九月十一日
 土佐藩士
 島村雄二郎が
 長崎の江戸町において
 泥酔したイギリス人水兵
 エドワード・ウォーレン
 の頭部を切り
 アメリカ人
 ジョージ・アンダーソン
 にも腕に軽傷を負わせた
 島村は
 「その足ですぐに同藩の役人に自首」
 島村は
 自分に殺意はなく
 防御のための抜刀であったと主張
 事件は解決を見ぬまま
 幕府の崩壊で立ち消え・・・
 ↓↑
 (11)慶応四年
   (1868年)
    11.1 神戸事件
    11.2 堺事件
    11.3 パークス襲撃事件
 慶応四年
 (1868年)
 神戸事件
 慶応四年一月十一日
 (1868年2月4日)
 神戸(現・神戸市)
 三宮神社前で
 備前藩(岡山県)兵が隊列を横切った
 フランス人水兵らを負傷させ
 居留地(旧居留地)予定地を
 検分中の欧米諸国公使らに
 水平射撃を加え
 明治政府初の外交問題となり
 一時、外国軍が
 神戸中心部を占拠
 隊の責任者であった
 滝善三郎
 が切腹で解決
 ↓↑
 堺事件
 慶応四年二月十五日
 (1868年3月8日)
 フランス海軍
 コルベット艦
 デュプレクスが堺港に入り
 士官以下数十人の水兵が上陸
 市内を徘徊
 土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締を命じ
 帰艦を諭示させたが言葉が通じず
 水兵側は
 土佐の隊旗を倒伏して逃亡しようとした
 土佐藩側はこれを咄嗟に発砲
 フランス人11人を・・・十一?
 殺傷、海に落として溺死させた
 土佐藩側では
 フランス人が
 迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした
 遺体は十六日に引き渡しを終え
 フランス公使
 レオン・ロッシュは
 二月十九日
 に在阪各国公使と話し合い
 下手人斬刑・陳謝・賠償などの
 5箇条からなる抗議書を日本側に提示
 明治政府は事態を憂慮し
 イギリス公使
 ハリー・パークス
 に調停を求めたが失敗
 同月二十二日
 明治政府は
 賠償金15万ドルの支払い
 暴行者の処刑など全ての主張を飲んだ
 同月二十三日に
 大阪裁判所の宣告により
 堺の妙国寺で
 土佐藩士20人の刑の執行が行われた
 立ち会っていた
 フランス軍艦長
 デュプティ=トゥアールは
 フランス人の被害者数と同じ
 11人・・・十一?
 が切腹したところで
 外国局判事
 五代才助
 に中止を要請
 結果として
 9人が助命された
 処刑を免れた
 橋詰愛平ら9人は
 土佐の
 渡川(四万十川)以西の
 入田へ配流され
 庄屋
 宇賀佑之進
 預けとなり
 その後
 明治新政府の恩赦により帰郷
 自刃した土佐藩士は
 妙国寺内に厚く葬られ
 遭難したフランス人の碑も
 神戸市立外国人墓地に建てられた・・・
 ↓↑
 パークス襲撃事件
 慶応四年二月三十日
 (1868年3月23日)
 イギリス公使
 パークス一行は
 明治天皇に謁見するため
 宿舎の知恩院を出て
 御所に向かう途上
 2人の男に襲撃され
 護衛の
 中井弘蔵
 後藤象二郎
 が反撃、犯人の一人
 朱雀操
 を斬殺
 一人の犯人である
 三枝蓊
 も他の警護兵に重傷を負わされ
 逃走しようとした所を捕縛
 襲撃は失敗
 三枝は
 同年三月四日に斬首
ーーーーー
 万国を敵に回せば
  碬 卵
 (カンラン=石を投げて卵を割る)の勢い
 ↓↑
 三軍之衆
 可使必
 受敵
 而無敗者
 奇正是也
 兵之所加
 如以碬
  投卵者
 虚實是也
 ↓↑
 碬をもって
 卵に投ずるがごとくは
 虚実これなり
 ↓↑
 如以碬投卵者
 虚実是也
 固い石を卵に投げつけるように
 敵を打ち破ることができるのは
 敵のすき(虚)を
 実した軍(実)で
 攻撃する虚実の運用
 ↓↑
 碬=といし・カ・ゲ・ケ
   といし=砥石・研石
       砥=石+氐(氏+一
           テ=弖=弓+一)・・・?
   問い詞(史・氏)?
   高低があって平らでないさま
 ↓↑
 碬=石+叚
   丆+口+叚・・・丆=面?
   一+丿+口+叚
 ↓↑
 碬疵
 欠点、失敗、不足
 難・非・ぼろ・瑕瑾・デメリット
 疵瑕
 欠点・弊竇・欠缺・襤褸・不具合・粗製
 瑕・悪目・欠陥・難点・汚点・傷・疵・芥
 短所・不備・短・穴
 それが失敗の原因となる
 あるいは
 その効力を減少させる計画
 理論の法的文書の欠陥
 欠陥・汚点・短所・不備
 人体の上で
 概観を損なう特徴または欠陥
 小疵・瑕瑾・瑕・傷・疵
 適切でない
 欠陥があるという特性
 痛いところ・弱み・非・泣き処
 デメリット・疵瑕・欠点・足下
 失
 搦め手・悪目・泣所・難点・苦手
 傷・疵・咎
 芥もくた・泣き所・ウィークポイント
 足元・弱点・搦手・短所
 付け目・痛い所・短・鬼門
 ウイークポイント・足許
 まずい判断や
 怠慢、不注意を原因とする誤った行動
 躓き・過誤・ミステーク・ちょんぼ
 間違い・誤り・誤まり・謬り・間違え
 疵瑕・過失・ミステイク・過怠
 失・誤・謬・過ち・緩怠
 事誤り・間違・ミス・誤謬・謬錯・誤ち
 ↓↑
 凡戰者、以正合、以奇勝、故善出奇者
 無窮如天地、不竭如江河、終而復始
 日月是也、死而復生、四時是也、聲不過五
 五聲之變、不可勝聽也、色不過五、五色之變
 不可勝觀也、味不過五、五味之變、不可勝嘗也
 戰勢、不過奇正、奇正之變、不可勝窮也
 奇正相生、如循環之無端、孰能窮之
 ↓↑
 およそ戦いは、
 正をもって合っし、
 奇をもって勝つ
 ゆえに善く奇を出いだす者は
 窮まりなきこと天地のごとく
 竭(つき)ざること
 江河のごとし
 終わりてまた始まるは
 日月これなり
 死してまた生ずるは
 四時これなり
 声は五に過ぎざるも
 五声の変は勝あげて聴くべからざるなり
 色は五に過ぎざるも
 五色の変は勝あげて観みるべからざるなり
 味は五に過ぎざるも
 五味の変は勝あげて嘗なむべからざるなり
 戦勢は奇正に過ぎざるも
 奇正の変は勝あげて窮わむべからざるなり
 奇正のあい生ずることは
 循環の端なきがごとし
 たれかよくこれを窮わめんや
 ↓↑
 激水之疾、至於漂石者、勢也
 鷙鳥之疾、至於毀折者、節也
 是故善戰者、其勢險、其節短
 勢如彍弩、節如發機
 ↓↑
 激水の疾やくして石を漂だよわすに至るは
 勢なり
 鷙鳥(シチョウ)疾やくして
 毀折(キセツ)に至るは、節なり
 このゆえに善く戦う者は
 その勢は険にしてその節は短なり
 勢は弩ど彍くがごとく
 節は機を発するがごとし
 ↓↑
 彍=はる・はしる・クワク・カク
   弓をいっぱいに引く
   弘
 ↓↑
 彊=弓+畺
   つよい・しいて・キョウ・ゴウ
   通仮字、姜・疆
   異体字、强・疆・強=弓+厶+虫
   声 符、畺
 ↓↑
 亂生於治
 怯生於勇
 弱生於彊
 治亂數也
 勇怯勢也
 彊弱形也、
 ↓↑
 乱は治に生じ
 怯は勇に生じ
 弱は彊に生ず
 治乱は数なり
 勇怯は勢なり
 彊弱は形けいなり
ーーーーー
 朝廷に
 横浜鎖港談判使節の
 成功を約束している幕府は
 翌日の
 7月23日
 談判使節が
 フランスと結んできた
 パリ協定を直ちに破棄
 池田筑後守に
 六百石召上げと隠居蟄居を
 河津伊豆守に
 小普請入りと逼塞を
 河田相模守に
 小普請入りと閉門を申しつけ
 「不埒の至りに候」
 と
 使命不履行を厳しく罰した
 池田長発には
 幕閣に会い
 直接詳しい帰国報告をする機会をも
 与えなかった
 幕府は朝廷に
 「横浜鎖港をもって攘夷を始める」
 と約束してきたてまえ
 いかに
 池田筑後守の報告書が
 理に適っていようとも
 こうする以外の道は無かった・・・
ーーーーー
 幕末の交換レート
 1両=1.33ドル
 明治
 1両=1円=金1.5グラム
 現在
 金1gは約5000円
 1円=7,500円
 ↓↑
 300万ドル=225万円
      =現在の168億7500万円
 200億~300億くらい
 ↓↑
 当時の300万ドルは225万両
 1両の価値は現在の価値に換算し
 約2万円
 従って
 225万両は450億円
 ↓↑
 かけそば
 一杯16文(幕末には20文)
 浮世絵
 一枚絵16文
 現在のそばの値(500~600円程度)
 1文=31~38円見当
 1両=6000文
 186000円~228000円
 職人の日当換算
 文化文政期(19世紀初)
 職人の手間(日当)
 銀5匁4分
 現在の日当を大まかに2万円~3万円
 換算すると
 銀1匁=3700~5555円
 1両=銀60匁とし
 222000円~333300円
 この場合の
 1文=37~55円
 ↓↑
 一両の価値
 お風呂屋
 8文=200円
 スイカ
 40文=1,000円
 そば・うどん
 16文=400円
 床屋(髪結い)
 28文=700円
 酒(1升)
 250文=6,250円
 納豆
 4文=100円
 たばこ(14g)
 8文=200円
 お冷1杯
 4文=100円
 居酒屋・酒1合
 26文=650円
 串団子
 4文=100円
 駕籠
 (日本橋・三越前~吉原まで直線で約5km)
 200文=5,000円
 天ぷらそば
 32文=800円 
 ゆで卵1個
 18文=450円
 吉原揚げ代
 1両2分=150,000円
 鰻めし
 150文=2,625円
 ↓↑
 1800年を1ドルとして
 1865年は1.11倍
 2008年は0.08倍
 現在から考えれば
 1ドルは13.875倍
 13.875×20×89.8(今日のレート)
       =24919.5円≒¥25000
 ↓↑
 南北戦争直後
 1ドル=2500円~3000円
ーーーーー
 薩英戦争
 年月日
 1863年8月15日~1863年8月17日
ーーーーー
 馬関戦争
 1863年5月10日
     23日
      26日
 ↓↑
 孝明天皇の要望により
 将軍徳川家茂は
 文久三年五月十日
 (1863年6月25日)
 をもっての
 攘夷実行を約束
 長州藩は
 馬関海峡(関門海峡)
 を通過する外国船への砲撃実施
 戦後、
 長州藩は幕命に従ったのみと主張
 アメリカ・イギリス・フランス・オランダ
 に対する損害賠償責任は
 徳川幕府のみが負うこととなった
 ↓↑
 文久三年五月十日
 長州藩が馬関海峡を封鎖
 航行中の
 アメリカ・フランス・オランダ艦
 に対して無通告で砲撃
 約半月後の
 六月
 アメリカ・フランス軍艦
 が
 馬関海峡内に停泊中の
 長州軍艦を砲撃
 長州海軍に壊滅的打撃を与えた
 長州は砲台を修復した上
 対岸の
 小倉藩領の一部をも占領
 新たな砲台を築き
 海峡封鎖を続行
 ↓↑
 元治一年(1864年)七月
 イギリスは長州に対して
 懲戒的報復措置を決定
 フランス・オランダ・アメリカ
 の三国に参加を呼びかけ
 都合艦船17隻で連合艦隊を編成し
 8月5日~8月7日
 馬関(下関市中心部)と
 彦島の砲台を砲撃
 各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊
 馬関海峡の砲台を
 四国連合艦隊によって無力化され
 長州藩は
 以後列強に対する武力での攘夷を放棄
 海外から新知識や技術を積極的に導入し
 軍備軍制を近代化
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により
 慶応二年一月二十一日
 (1866年3月7日)
 薩摩藩と
 薩長同盟を締結
 ↓↑
 下関戦争(1863年)
 馬関戦争(1864年)四国艦隊下関砲撃事件
ーーーーー
 ・・・???・・・

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