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コジキジゲン

亜米利加・・・アメリカ・・・阿米拿留耶・・・

2015-06-25 21:55:55 | 古事記字源

 ・・・アメの日、ナニを妄想してんだか、アッと云う間の1日24時間。それでもご飯は食べている、トイレには行っている・・・だが、朝晩シャーワーを浴び、風呂が大好きだったのに、週一回の不潔さ・・・
 阿米那流夜・・・・亜米那留耶
 淤登多那婆多能・・音多名葉多之
 宇那賀世流・・・・有名臥施留
 多麻能美須麻流・・弾廼見ず罕
 美須麻流邇・・・・見諏間留似
 阿那陀麻波夜・・・吾名拿万葉也
 美多邇・・・・・・三谷に
 布多和多良須・・・二渡らす
 阿治志貴多迦・・・亜事指揮多寡
          亜字史記多寡
 比古泥能迦微曾也・彦出の科備素也
  ↓↑
 「下照比売=下光ヒメ=高姫」・・・の「歌」は「亜米利加」の「ぺりー提督」の「黒船」外交に対する「彦根藩第十五代藩主、井伊直弼、江戸幕府大老、日米修好通商条約に調印し、開国断行、反対勢力を粛清(安政の大獄)」批判と・・・兄の「アジスキタカネ」への称賛(賞讃)である・・・では、「兄」とはダレか?・・・「吉田寅ジロウ」こと「吉田松陰」・・・?
 「彦島(北緯33度56分14秒 東経130度54分52秒)=引島(日本書紀)=壇ノ浦の闘いで平家の最期の本陣場所」、「彦島地域とは、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)、彦島至近の竹ノ子島(たけのこじま)、巌流島(船島)の三島を含む」らしい・・・
 ・・・ならば、当然、兄、「吉田松陰」の妹、「久坂玄瑞(久坂義助)」の妻になった「杉文(美和)」であるが、ここはチョッと待ったデアル・・・「高姫」であるからして、「高杉晋作(谷潜蔵の名は高杉晋作(コウサンシンサク)をまもる為の新家・その他の別名は梅之助・備後屋助一郎・三谷和助・祝部太郎・宍戸刑馬・西浦松助)」、号は「楠樹・東行狂生・西海一狂生・東洋一狂生」・・・妻は「山口町奉行・井上平右衛門(大組・250石)」の次女「まさ」・・・
 「妹(いも)」は「妻(つま)・恋人」でもある・・・
 「古語で妹(いも)は、 年齢の上下に関係なく男性からみた同腹(はらから)の女(姉妹)、また、妻・恋人」を指した・・・女性から見た同胞の女は年上を「え」と呼び、年下は「おと」と呼んだ。これは男性から見た同胞の男に対する呼び名と同じ・・・「夫(せ)の側から姉または妹をよぶ語が妹(いも)」ですかフゥゥゥム・・・曖昧である・・・兄は「ショウト(兄人)」、「母」は「おも」で、「父」が「あて・かぞ・てて・とと」・・・「父母」が「あもしし・おもちち」・・・
 だが、名からして高杉晋作の妻の「マサ」は、ここでの「妹の名の下照比売=下光ヒメ=高姫」とカサならない。とすると、「高杉晋作(谷潜蔵・三谷和助)」の三人の妹の「武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)」の「光(みつ)」が「下光姫(下照比売=高姫)」・・・?
 ・・・「高杉家(高杉小忠太=武藤助四郎)の養子」となった「半七郎」は晋作の末妹「ミツ(光)」と結婚した・・・「ミツ(光)」はこの時、他家に嫁いでいたが・・・強制出戻りで半七路郎と結婚・・・?・・・ブログでは他に「ミツ(光)」の記録が見つけるコトが出来なかった・・・
 「高杉晋作=谷潜蔵=三谷和助」の名前は「谷(たに・ヤ・コク)に潜(ひそ・セン)む蔵(くら・ゾウ)」、「三の谷(たに)の和(なごむ・かず・ワ)の助(ジョ・たすけ」である・・・
 祖先は「承久の乱(承久三年・1221年)後の戦功」での「甲斐の武田家」と関係があるらしい・・・
 「谷家」から家名が「高杉家」へ戻ったのは、晋作の遺児、春雄が明治二十年、名を「谷春雄→高杉東一」と改め、姓を「谷」から「高杉」に戻した・・・
 ならば「下関戦争」を「光」で「照らせ」か・・・
 ウソかほんとか、単なるモノガタリか、「高杉晋作(谷潜蔵)」は「下関戦争」での外国連合艦隊の講和条約で「古事記」の講釈を延々と述べ、「彦島租借」を煙に巻いたとの説があるらしい・・・出どころは「伊藤博文」のハナシが発端とか・・・「与太話」・・・?
 「作家」とは想像力が逞しい・・・「現存・古事記」とは何時の時代の「改作写本」なのか?・・・明治の文明文化である・・・
ーーーーー
 「文(ふみ・あや・ブン・モン)」
 叔父の松下村塾の創立者
 「玉木文之進」 から
 一字をとって与えられた名・・・
 兄は寅二郎
 姉に千代、寿、艶、
 弟に敏三郎
 杉文(すぎふみ)→名前の改変
         ↓
         元治元年七月十九日
        (1864年8月20日)
        「禁門の変」で久坂玄瑞自刃
         ↓
        久坂文(二十二歳で未亡人)
        久坂美和と改名
        (慶応元年・1865年)頃
         ↓
        明治十二年(1879年)
        玄瑞の京都妻の子
        秀次郎を跡継ぎとする
         ↓
        楫取素彦=小田村伊之助
        と再婚
        (明治十六年・1883年)
        楫取文(美和)=小田村文(美和)
         ↓
        夫の
        小田村伊之助の改名変遷
        通称は
        米次郎
        内蔵次郎
        氏文助
        素太郎
        慶応三年(1867年)九月に
        楫取素彦と改名
        1883-1867=16
         ↓
        楫取文(美和)
         ↓
        楫取美和子
         ↓
        再婚時は、
        夫、
        楫取素彦は五十五歳
         ↓
        大正十年死去
        (1921年)
  ↓
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)
 1832年
 萩城下松本村で
 杉百合之助(常道)
 の長女
  ↓
 杉優香=杉寿(すぎ ひさ)
 吉田松陰の妹・文の姉
 小田村伊之助=楫取素彦
 の最初の妻
  ↓↑
 久坂玄瑞
 天保十一年(1840年)
 長門国
 萩(はぎ)
 平安古(ひやこ)
 本町(山口県萩市)に
 萩藩医
 久坂良迪の
 三男
 久坂秀三郎として生まれる
 安政四年(1857年)松門に弟子入り
 安政四年(1857年)十二月五日
 杉文と結婚
 元治元年(1864年)
 禁門の変=蛤御門の変
 で
 鷹司邸内で自刃
 享年二十五
  ↓
 高杉晋作
 1839年
 長門国萩城下
 菊屋
 横丁
 で
 高杉小忠太
 と
 「みち」
 の長男として誕生
 1857年
 松下村塾に入る
 1859年
 松陰処刑
 万延元年(1860年)十一月
 山口町奉行
 井上平右衛門の
 次女
 「まさ」
 と結婚。
  ↓
 文久三年(1863年)
 五月十日
 攘夷期限が過ぎ
 長州藩は
 関門(馬関)海峡で
 外国船砲撃
  ↓↑
 文久三年(1863年)
 五月十日
 長州藩が馬関海峡を封鎖
 航行中の米仏蘭艦船に
 無通告砲撃
  ↓↑
 文久四年(1864年)
 六月一日
 報復の
 米仏軍艦が
 馬関海峡内に停泊中の
 長州軍艦を砲撃
  ↓↑
 アメリカの
 ワイオミング号が
 長州藩の軍艦
 庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し
 壬戌丸は
 ワイオミング号に撃沈され
 庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、
 ワイオミング号は
 庚申丸を撃沈
 癸亥丸を大破させ
 横浜へ帰還
  ↓↑
 フランス東洋艦隊の
 セミラミス号、
 タンクレード号
 が海峡に侵入
 セミラミス号の
 砲三十五門で
 前田、壇ノ浦の砲台に砲撃
 陸戦隊で砲台占拠
 フランス兵は
 民家を焼き
 砲を破壊
 陸戦隊は撤収し、
 フランス艦隊も横浜へ帰還
  ↓↑
 長州藩は砲台を修復、増強し、
 強硬な姿勢で
 対岸の
 小倉藩領の一部をも占領して
 新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行
  ↓↑
 元治一年(1864年)
  ↓↑
 七月
 英国は長州に対して
 懲戒的報復措置を決定
 仏蘭米の
 三国に参加を呼びかけ、
 艦船十七隻で
 連合艦隊を編成
 同艦隊は、
 八月五日~八月七日
 馬関(下関市中心部)
 彦島
 の砲台を砲撃
 連合艦隊の陸戦隊が
 占拠・破壊
 一部の(日本)領民は
 自発的に外国軍隊に協力・・・?
  ↓↑
 元治元年(1864年)
 7月27日、28日
 キューパー中将(英)
 総司令官とする
 四国連合艦隊は横浜を出港
 艦隊は17隻
 イギリス軍艦9隻
 フランス軍艦3隻
 オランダ軍艦4隻
 アメリカ仮装軍艦1隻
 総員約5000の兵力
 横浜にイギリス軍艦1隻
 アメリカ軍艦1隻
 香港から移駐してきた
 陸軍分遣隊1350人が待機
 8月4日
 戦闘態勢
 長州藩の兵力
 奇兵隊(高杉は解任、総管は赤根武人)
 2000人
 砲約
 120門
 木製の砲で仮装
 8月5日午後
 四国連合艦隊は
 長府城山から
 前田・壇ノ浦の
 長州砲台群に砲撃開始
 艦隊は
 前田浜で
 砲撃支援の下で
 陸戦隊を降ろし、
 砲台を占拠して砲を破壊
 8月6日
 壇ノ浦砲台の
 奇兵隊軍監
 山縣狂介は
 至近に投錨していた敵艦に砲撃したが
 敵は陸戦隊を降ろし、
 砲台を占拠して砲を破壊
 一部は下関市街を
 目指して内陸部へ進軍し
 長州藩兵と交戦
 8月7日
 艦隊は
 彦島
 の
 砲台群を集中攻撃
 陸戦隊を上陸させ
 砲60門を鹵獲
 8月8日までに
 下関の長州藩の砲台は破壊
 ↓
 長州藩は講和使節に
 高杉晋作を任命
 家老
 宍戸備前の養子
 宍戸刑部・・・・ししどギョウブ(おさかべ)
 と名乗り、
 四国連合艦隊旗艦の
 ユーライアラス号に乗り込んで
 キューパー司令官との談判に臨んだ
 イギリス側通訳の
 アーネスト・サトウは
 この時の高杉の様子を
 非常に傲然としていたが、
 出された要求は
 何の反対もせずに
 全て受け入れたと、記述
  ↓↑
 長州藩
 と
 列強四国
 (英国・仏蘭西・阿蘭陀・亜米利加)
 が
 賠償金
 300万ドル
 と
 山口県の
 彦島
 の
 租借を要求
 高杉は
 「古事記」の講釈を延々と述べ
 外国連合艦隊の講和条約で
 「彦島租借」を煙に巻いた・・・と云う?
  ↓
 高杉は
 下関の防衛を任せられた
 六月に
 廻船問屋の
 白石正一郎・・・・白石?
 邸において
 阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とする
 奇兵隊結成
 後に
 政敵
  ↓↑
 「椋梨藤太(むくなし とうた)」・・・?
  ↓↑
 元治元年十二月十五日
 (1865年1月12日)
 功山寺で決起(功山寺挙兵)
 下関から萩へと進撃し、
 慶応元年
 (1865年)一月
 「絵堂の戦い」で
 長州の藩論を
 「武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線」に統一
  ↓↑
 椋梨藤太を失脚させ
 五月
 萩の野山獄で処刑
  ↓↑
 「白石正一郎」
 文化九年三月七日(1812年4月18日)
  ~
 明治十三年(1880年8月31日)
 豪商・・・薩長の資金的スポンサー
 名は
 資風
 通称は
 駒吉
 熊之助・・・
 号
 橘円
 ↓↑
 小田村伊之助(楫取素彦)
 1829年
 長門国
 萩
 魚棚沖町(山口県萩市)
 藩医
 松島瑞蟠の次男として誕生
 1867年
 鳥羽・伏見の戦い
 明治五年(1872年)
 足柄県参事
 明治七年(1874年)
 熊谷県権令・・・・・熊谷?
 明治九年(1876年)
 熊谷県改変で
 群馬県令(知事)
 前橋が県庁所在地と決定
 明治十四年(1881年)
 文の姉・寿子と死別
 明治十六年(1883年)
 「文」と再婚・・・・・
 1884年
 元老院議官に転任
 1887年
 男爵
 大正元年
 (1912年)8月14日
 山口県
 三田尻(防府市)で死去
 八十四歳
  ↓↑
 桂小五郎(木戸孝允)
 天保四年六月二十六日
 (1833年8月11日)
 長門国萩城下呉服町に
 藩医
 和田昌景の長男として誕生
 嘉永二年(1849年)
 吉田松陰に兵学を学ぶ
 元治元年(1864年)
 禁門の変
 明治十年(1877年)2月
 西南戦争勃発
 5月26日
 死去
ーーーーー
 「下照・下光・高」のヒメ・・・また、コンガラガッタ・・・「古事記字源」・・・「アジシキタカヒコネ」の「ジン」・・・

コメント
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